第6話
前線基地の夜は、王都の屋敷とは比べものにならないほどに冷え込んでいた。
けれど、私が持ち込んだ大鍋から立ち上るスパイスの香りが、凍てつく空気の中に確かな熱を生み出している。
「お嬢様、手が止まっていますよ!アクをすくうタイミングを逃せば、せっかくのスパイスが台無しです!」
傍らでアンナが鋭い声を飛ばす。
彼女はすでにこの野営地の厨房を完全に掌握していた。疲れ果て、泥を啜るような食事をしていた料理番たちを「商会の厨房以下の仕事ね」と一喝し、今や彼らをテキパキと動かして、数百人の兵士たちのための炊き出しを仕切っている。
私は言われるがままに木べらを動かし、軍人風商家の煮込みを仕上げた。この香りは、間違いなくあの男をここまで導いてきたはずだ。
「……やはり、この匂いだったか」
天幕の入り口が跳ね上がり、夜の冷気とともに巨大な影が滑り込んできた。
──死なずのグウィン
泥と乾いた血にまみれた彼は、相変わらず無骨で、洗練とは程遠い姿をしていた。けれど、その肩には私が送りつけた派手なボタニカル柄のマントが、ボロボロになりながらも確かに掛かっていた。
「グウィン様、おかえりなさいませ!すぐにお食事をお持ちしますね」
アンナが弾んだ声で言い、テキパキと皿を準備する。私は沸き立つ感情を抑え、冷徹な仮面を被り直してグウィンの前に立った。
私は冷ややかな仮面を被り直し、熱々の煮込みが入った器を彼に差し出した。グウィンは黙ってそれを受け取ると、天幕の隅にある粗末な椅子に腰を下ろし、一気に口へ運んだ。
「……熱いな。だが、体に染みる」
彼は不器用そうに器を抱え、何度もスプーンを動かした。
補佐官のベイルが天幕の外で、部下たちに配られた食事に歓喜する声を上げているのが聞こえる。
彼は先日、私に笑いながら教えてくれた。グウィンがあの花柄のマントを迷彩にして高原の草むらに伏せた時、あの悪趣味な柄が死地で最強の隠れ蓑になったのだと。
「マント、役に立ったようですわね」
私の言葉に、グウィンは食べる手を止め、少しだけ視線を逸らした。
「ああ。正直、届いた時は頭を抱えたが……お前の『無理難題』には、いつも命を救われるらしい」
「偶然ですわ。あの最高級の派手な生地を選んだのは、どんな環境でも人目を引くためでしたが……まさか高原の花々に紛れるなんて、計算外の幸運です」
私の強がりに、グウィン様は食べる手を止め、少しだけ視線を逸らした。
「……計算外だろうとなんだろうと助かった。……ありがとう」
グウィンの口から出た感謝の言葉に、私は意表をつかれ思わず表情が緩む。けれど、すぐさま平静を装い胸の奥に秘めていた「商談」を切り出す。
「お褒めに預かり光栄ですわ。……旦那様、一つお伝えしておくことがあります。私は実家の商会と、完全に縁を切って参りました」
グウィンの鋭い眼光が私を射抜く。
「戦死の誤報を聞いた父たちが、私を次の政略結婚の道具にしようとしたのです。だから、商会の筆頭株主である祖父の署名を使い、軍への補給物資を全て私個人の名義で差し押さえました。絶縁状も叩きつけてきましたわ」
グウィンは驚いたように目を見開いたが、やがて低く笑った。
「軍の物資を私物化して戦場まで追いかけてくるとは。……お前は、俺が思っていた以上に肝の据わった妻らしい」
「愛など不要だと言ったでしょう?私はただ、自分の投資先が勝手に消えるのが許せなかっただけです」
強がって背筋を伸ばす私の手を、グウィンの泥に汚れた大きな手が不意に包み込んだ。温かくて、ひどく硬い、戦う男の手だった。
「それともう一つ。旦那様のことは『グウィン』と呼び捨てにしてもよろしいでしょうか……私はその、こんな性格ですから、あまり畏まった呼び名は言い慣れなくて」
ただ彼の名を呼びたいだけなのに、自分でも笑ってしまうほどのあきれた言い訳が口からこぼれる。
「……ったく、しゃーねーな」
頭上から降ってきたのは、あの出発の朝に聞いた呆れ声。けれど今は、その響きが驚くほど心地よく私の胸に届いた。
私たちはまだ、泥にまみれた戦場の真っ只中にいる。けれど、この瞬間、冷え切った天幕の中はどんな王都の豪華な寝室よりも暖かかった。
政略結婚という最悪の契約から始まった私たちの関係は、この煮込み料理のスパイスのように、複雑に、けれど深く混じり合い始めていた。











