第15話
王都の屋敷の執務室に、微かに潮の香りをまとったグウィンが足を踏み入れた。
彼の手には、王国海軍提督バルトロメオ・ドレイクの豪快な署名と印が押された、港の専属使用権の契約書がしっかりと握られていた。
「本当にやってのけるなんて。さすがは私の投資先ですわ、グウィン」
私が感嘆の声を漏らすと、グウィンはどっかとソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「ただの殴り合いならともかく、あの酒の量は寿命が縮むかと思ったぞ。だが、お前の作ったあのカチカチの保存食が一番の決め手になった。提督の奴、あれを食って目を丸くしていたからな」
「商人の知恵と、あなたの規格外の武力。二つが揃えば、開けられない扉はありませんわ」
これで、特権商人ギルドのオズワルドが仕掛けた陸路の封鎖は完全に意味を失った。
海という広大で新しい流通網を手に入れた新生マイヤー商会に対し、ギルドの古い掟など何の効力も持たない。
私たちが海軍と手を結んだという報せは、王都の経済圏に瞬く間に広がり、ギルドの独占は音を立てて崩壊し始めていた。
その夜は、アンナが腕によりをかけた料理でささやかな祝杯をあげた。
戦場での泥まみれの炊き出しではなく、王都の屋敷の静かなダイニングで向かい合って食事をとる。
政略結婚から始まった私たちにとって、こんな穏やかな時間は初めてのことだった。
「次はどこへ商圏を広げようかしら」
私がワイングラスを傾けながら微笑むと、グウィンは露骨に顔をしかめた。
「勘弁してくれ。俺はもう、他の軍の連中と殴り合うのも、底なしの酒を飲まされるのもごめんだぞ」
「あら、仕事バカのあなたにゆっくり休む時間などありませんわよ。投資分はきっちり働いて返していただきますから」
文句を言い合いながらも、彼の眼差しはどこまでも柔らかく、私たちの間には確かな温かい空気が流れていた。
しかし、その束の間の平穏は、夜明け前に唐突に破られた。
「閣下!奥様!申し訳ありません、急報です!」
血相を変えたベイルが、屋敷の玄関に飛び込んできたのだ。
その手には、赤い封蝋がされた軍の機密文書が握られていた。
「北方の国境地帯で、大規模な暴動が発生しました。さらに、それに乗じて隣国が雪山を越えて侵攻の構えを見せているとのことです。軍上層部から、我々の部隊に極秘の出撃命令が下りました」
北方の雪山。
そこはこの王都から遠く離れた、猛吹雪が支配する極寒の過酷な地だ。
報告を聞いたグウィンの顔から平時の穏やかさが消え去り、一瞬にして冷徹な司令官の顔へと切り替わった。
「すぐに行く。部隊の招集を急げ」
「はっ!」
慌ただしい準備の後、漆黒の軍服に身を包んだグウィンが玄関の扉の前に立った。
奇しくも、あの日、冷え切った政略結婚の翌朝に彼を見送ったのと同じ場所だった。
「……行ってくる」
短く告げる彼に、私はまっすぐに向き合った。
「今回は、私もすぐには追いかけられませんわ。商会の基盤を固め、後方からの支援体制を構築するためには、私が王都に残らなければなりませんから」
「ああ。お前は俺の背後を守ってくれ。お前がいてくれれば、俺は前だけを見て戦える」
私は彼に近づき、軍服の襟元をそっと整えた。
あの日は互いに目を合わせることすら避けていたが、今は違う。
「愛など不要だとは、もう言いませんわ。あなたは私の大切な夫であり、マイヤー商会の最高責任者としての私の、最大の投資先です」
「……決して、途中で投資を無駄にするような真似はしないでくださいね」
私の強がりに、グウィンは不器用な大きな手で私の頬を包み込んだ。
硬く、温かい手が、不安を少しだけ和らげてくれる。
「……ったく、しゃーねーな」
彼はそう呟くと、私の額に優しく唇を落とした。
「お気をつけて。……必ず、帰ってきてくださいね」
「ああ、約束する」
夜明けの冷たい空気の中へ歩み出していく彼の広い背中を、私はただ静かに見送った。
次に彼に会う時まで、私は私にできる戦いを始めなければならない。
商人の娘としての新たな戦端が、静かに開かれようとしていた。











