第12話
重く、冷ややかな空気が広間を切り裂くように押し寄せてきた。
その威圧感の源に気づいたエレオノーラたち令嬢の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「……俺の妻が、何か粗相でもしたか」
地を這うような低い声とともに、グウィンが私の隣に並び立った。
漆黒の礼装を纏った彼は、ただそこに立っているだけで歴戦の軍神としての圧倒的な存在感を放っている。
彼が令嬢たちを見下ろす鋭い眼光は、まるで戦場で敵兵の息の根を止める直前のそれだった。
「い、いえ……マイヤー閣下。私たちはただ、奥様と少し歓談を……」
先ほどまで誇り高く扇を揺らしていたエレオノーラが、恐怖に声を震わせて後ずさる。
グウィンは鼻で短く笑い、私をかばうように半歩前へ出た。
「歓談、ね。俺の耳には、随分とつまらない値踏みの言葉に聞こえたが」
「そ、それは……」
「よく聞け。俺の妻は、泥まみれになりながら俺の命を救い、俺の部下たちを飢えから救った女だ」
「安全な王都の壁の中で、着飾って茶をすするしか能のないお前たちに、サラの価値を測れるはずがない」
広間が水を打ったように静まり返る。
グウィンはさらに言葉を続けた。
それは彼自身すら無自覚であろう、周囲が赤面するほどの熱烈な溺愛宣言だった。
「この女は、誰よりも賢く、誰よりも美しく、俺にとっては何よりも代えがたい投資先だ」
「……サラを侮辱することは、俺の全てを侮辱することと同義だと知れ」
「……ひっ!」
令嬢のひとりが小さな悲鳴を上げ、エレオノーラたちは逃げるようにその場から立ち去っていった。
静寂に包まれた広間で、私は顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われていた。
「もう!グウィン、あんなに大声で恥ずかしいことを言わないでください!」
私が小声で文句を言うと、グウィンは不思議そうに首を傾げた。
「事実を言ったまでだ。お前が俺に投資したんだろう。俺も、お前という最高の妻に俺の全てを投資している。商売の基本なんだろ」
全く悪気のないその言葉に、私は毒気を抜かれてしまった。
「……もうっ、本当にどうしようもない仕事バカなんだから」
私がわざとらしくため息をつくと、グウィンは少しだけ目を細め、不器用な手つきで私の腰を抱き寄せた。
「行くぞ。こんな退屈な連中の相手をしている暇はない」
彼はそのまま、私を公然とエスコートして広間の中央を歩き始めた。
周囲の貴族たちは道を開け、畏怖と羨望の眼差しで私たちを見送る。
彼の大きくて硬い腕の中は、私にとって世界で一番安全な場所だった。
◇ ◇ ◇
数日後、王都の中心部にある特権商人ギルドの豪奢な執務室。
「新生マイヤー商会……生意気な小娘が、軍の専属後援組織を気取っているそうだな」
巨大なマホガニーのデスク越しに、ギルド長であるオズワルド・ウォルシュが冷徹な声で呟いた。
彼は片眼鏡の奥の鋭い目で、手元にある報告書を睨みつけている。
「ウォルシュ様、先日の夜会でもマイヤー閣下は公然と奥方を庇護し、貴族派を黙らせたとのこと。このままでは軍の納入権を完全に独占されかねません」
部下の報告に、オズワルドは薄く笑った。
「軍への納入は、歴史ある我々ギルドを通すのが絶対の掟だ」
「成り上がりの武人と、親を食い物にした商人の娘のままごとに、これ以上王都の経済をかき回させるわけにはいかない」
彼はデスクの上のチェスの駒を指で弾き倒した。
「陸路の関所、主要な街道の馬車の手配、そして各都市の問屋。ギルドの全ての力を使い、マイヤー商会の流通網を徹底的に封鎖しろ」
「物資が運べなければ、いくら帳簿の数字を揃えようと商売は成り立たない」
「はっ。直ちに手配いたします」
オズワルドは窓の外、王都の街並みを見下ろしながら冷たい声で付け加えた。
「せいぜい数週間の命だ。干上がったところで、あの小娘にギルドの掟というものを教えてやろう」
◇ ◇ ◇
その頃、そんな暗雲が迫っているとも知らず、私は王都の屋敷で新しいスパイスの配合表と睨み合っていた。
「くしゅんっ!」
「お嬢様、風邪ですか?それともどこかで誰かが悪口でも言っているのでしょうか」
「夜会の令嬢たちが嫉妬で呪いをかけているのかもしれないわね」
アンナと冗談を言い合いながら、私は次なる商売の展開に思いを巡らせていた。
この後、オズワルドの陰湿な妨害によって、私たちがかつてない物流の危機に立たされることになるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。











