第10話
渓谷を越え、追撃を振り切った部隊にようやく安息の夜が訪れた。
焚き火の明かりが揺れる中、兵士たちの笑い声が響く。その中心にいたベイルが、にやにやとした笑みを浮かべて私たちに近づいてくる。
「いやあ閣下、お見事でした!あの絶壁での『お姫様担ぎ』、あまりの熱烈さに敵軍も目を丸くしていましたよ。奥様を片手で軽々と奪い去る姿は、まさに戦場の英雄……いや、愛の狩人ですね!」
ベイルの言葉に周囲の兵士たちがどっと沸く。私は顔が火を噴くほど赤くなるのを感じ、手近にあった木べらをぶん回した。
「ベイル様、余計なことをおっしゃらないで!あれは単なる効率的な輸送手段ですわ!」
「輸送、ねえ。あんなに必死な顔で抱きしめる輸送があるんですか?」
さらに茶化そうとするベイルの頭を、グウィンが黙って拳で小突いた。
鈍い音が響き、ベイルが「痛たたっ!」と頭を押さえる。グウィンは一言も発さず、ただ不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……うるさい。ったく、しゃーねーな」
彼は短くそう呟くと、温かいスープの入った器を私の手に押し付け、無言で火の番に戻った。語る言葉は少なくとも、その背中が「これ以上彼女をからかうな」と雄弁に物語っていた。
夜が更け、騒がしさが落ち着いた頃。私はグウィンが懐から、あのボロボロになった「最初の手紙」を取り出しているのを見た。
泥と硝煙にまみれ、何度も折り返されたせいで破れかけた紙切れ。彼はそれを大きな指で丁寧に伸ばし、まるでお守りのように大切に扱い直していた。
「そんな汚れた紙、もう何の価値もありませんわ。もっと質の良い羊皮紙で新しい指示書を書いてあげます」
私が言うと、グウィンはちらりと私を見て、再び手紙を胸元へ戻す。
「……これがいい」
それだけ言うと、彼は私の頭を一度だけ乱暴に撫で、深い眠りについた。そのぶっきらぼうな仕草の中に、言葉以上の信頼が宿っていることを、今の私は痛いほどに理解していた。
◇ ◇ ◇
王都への凱旋は、まさに熱狂の渦だった。
けれど、私はその歓声を素通りし、グウィンを伴って実家のマイヤー商会へと乗り込んだ。
そこには、国家反逆の疑いで家財を差し押さえられ、往悪にあがく両親の姿があった。父親が血走った目で私にすがり付こうとする。
「サラ、お前さえ……お前さえ黙っていれば!商会はまだ立て直せるんだ!」
グウィンが何も言わずに私の一歩前に出た。彼がただそこに立ち、腰の剣に手をかけただけで、周囲の温度が凍りついたように下がる。言葉による威圧ではない。死線を潜り抜けてきた本物の「軍神」の沈黙が、父親を恐怖で縛り付けた。
私はその背中に守られながら、祖父から託された全権委任状と、商会の資産を完全に掌握したことを示す書類を突きつけた。
「今日限りで、マイヤー商会はグウィン・マイヤー部隊の専属後援組織として生まれ変わります。私はもう、誰の道具でもありません」
全てが終わり、最初に出征を見送ったあの屋敷の玄関。
夕日が差し込む中、私はグウィンと向き合った。あの出発の朝と同じ場所、同じ光景。けれど、私たちの間にある空気は、あの頃とは全く違うものになっていた。
私は彼の無骨な軍服の袖を少しだけ掴み、いたずらっぽく、けれど心を込めてあの言葉を口にする。
「愛など不要ですから……」
かつて彼を突き放した言葉。
だが、それは今では、彼を繋ぎ止めるための誓いへと変わった。
「……そばにいさせてくださいね」
お気をつけて、と送り出すのではなく、共に歩むという私の決意。
グウィンは少しだけ呆れたように目を細め、大きな手で私の腰を引き寄せた。
相変わらず甘い言葉の一つも出てこないけれど、その腕の強さが、何よりも確かな答えだった。
「……腹減ったな」
「ええ、とびきりスパイスの効いたやつをご用意しますわ!一生かけて、私の投資分を回収させていただきますわよ」
「……ったく、しゃーねーな」
グウィンがいつもの口癖の後に静かに笑う。
私たちは二人で、新しい生活が待つ屋敷の中へと足を踏み入れた。
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