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受容

 スタイリッシュなコンパクトカー。助手席に座ると、視界が普段より低い。狭い車内に、先輩の香りが充満している。シフトレバーを操作する先輩の手の動き。白いブラウスの袖から覗く手首のライン。ハンドルを握る指先。つい見とれてしまう。エアコンの風に、先輩の髪が揺れる。


「コンビニ寄っていい?」

「え、でも……」


 普段なら何でもない会話。だが、今は違う。


「大丈夫よ」

運転しながら、楽しそうに微笑む。黒いスカートから伸びる脚が、ブレーキを踏む。

「誰も気づかないから」


「でも、もし……」


「ふふ……そうね」

声の調子に、意地悪な色が混ざる。

「声は出さなくていいわ。でも一緒に来て」


 駐車場に車を停める音。先輩が降りる時の仕草。少し短めのスカートから伸びる脚が、夏の陽射しを受けてまぶしい。


 そっと車を降りる。他人の目を気にして猫背になりそうになるのを、意識して背筋を伸ばす。店の窓ガラスに映る姿。むしろ身構えた方が目立つと気づき、力を抜く。先輩の後ろに少し隠れるように、店内に入る。


 エアコンの効いた空間。商品棚の間を縫うように歩く。ペットボトルを先輩に手渡す時、指が触れる。レジを済ませるのを、雑誌を見るフリをしながら待つ。


 先輩は時折、面白そうに視線を投げかけてくる。白いブラウスの襟元から覗く首筋が、笑いを堪えているように揺れる。他の客の気配を感じるたびに、冷や汗が吹き出す。早く早く。


 助手席に戻ると、緊張から一気に力が抜けた。

「心臓に悪いです……」


「ね、バレなかったでしょ?」

シートに座る先輩の姿勢で、スカートが少し上がっている。形の良い太もも。慌てて目を逸らす。


「それはラッキーでしたけど……」

「ちゃんと女の子に見えるから」


 ペットボトルに口をつけることなく、先輩は車を発進させた。表情は満足げだ。からかって楽しんでいるのか。でも、その笑顔が見られてよかったと思う。


 高速道路に入り、車の振動が変わる。サイドミラーに小さく映る自分の姿。ワンピース姿の見知らぬ誰か。それが自分だと気づくたび、現実感が揺らぐ。


「あ、海が見えてきた」


 先輩の言葉に、窓の外に目をやる。遠くに青い水平線。夏の終わりの光が、車内に差し込んでくる。ワンピースの裾が、その光を受けて透けそうで気になる。


 ***


 小さな港に車を停め、先輩が伸びをする。上質な生地のブラウスが、一瞬体のラインを浮かび上がらせる。カメラの準備を始める先輩の横顔に、いつもの真剣な表情が戻ってきた。


「ここなら、ゆっくり撮れそう」


 先輩が砂浜を見渡す。先輩の後ろ姿。風に揺れる髪、しなやかな体の動き。やはり自分とは違う。


「まずは、砂浜を歩いてみて」


 最初の一歩が、妙に重い。ヒールのあるサンダルが砂に沈む。でも、一歩踏み出すと、不思議と体が軽くなる。裾が風になびく。頬を撫でる潮風。レンズ越しの視線を感じながら、少しずつ歩を進める。


「そう、その表情」


 シャッター音が響く。解放感か緊張か、頬が熱を帯びる。九月の陽射しは、まだ夏の名残を留めている。


 先輩が近づいてきて、髪を直してくれる。整えられるたびに、化粧品の清潔な香りが、風に乗って漂う。「こっちを向いて」という声に従うと、先輩との距離が急に近くなる。香りに混ざる汗の匂いが、生々しい。


「とってもいい」


 褒められるたびに、体が温かくなる。それは照れだけではない。先輩の言葉一つ一つに、心が反応している。認められることの喜び、期待に応えられる安堵感。様々な感情が、波のように寄せては返す。


 夕暮れが近づき、空の色が変わり始めていた。先輩の横顔が、茜色に染まっていく。海からの風が、少し涼しくなってきた。その風に、先輩の髪がなめらかに舞う。


「帽子を持って」


 言われるまま、麦わら帽子を手に持つ。風が髪を揺らす。長めに伸ばした黒髪が、頬を掠める。その時、先輩の姿が目に入る。夕陽を背に、カメラを構える姿。シャツの裾が風で揺れ、スカートが僅かにはためく。まるで映画のワンシーンのような光景に、思わず見とれてしまう。


「素敵」


 その一言に、全てが溶けていく。自然か作為か。そんな区別さえ、意味を持たない瞬間。ただそこにいる自分。それだけで十分な、確かな存在感。


 車に戻る頃には、日が暮れかけていた。プレビュー画面に映る自分に、目を奪われる。そこにいるのは、紛れもなく一人の女の子だった。夕陽に照らされた砂浜で、風になびくワンピース姿で佇む。表情は柔らかく、どこか儚げで。


「これ、自分なんですね」

声が震える。


「ええ。これもあなた」


 その言葉が胸に沁みていく。助手席に座ると、また先輩の香りが漂ってくる。細い指がハンドルを握り、エンジンをかける。ヘッドライトが、暗がりを照らし出す。


「疲れた?」

先輩が心配そうに声をかける。運転席に差し込む茜色光で、横顔が浮かび上がる。


「大丈夫です。それより先輩には運転までしてもらって……」


「私は、仕事で慣れてるからね」

そう言って先輩が微笑む。その表情に、今日一日の撮影への満足感が滲んでいた。


 ***


 旅館に到着。予想以上に古い建物に少し驚く。苔むした石畳を渡り、門をくぐると、時が止まったような静寂が広がっていた。


「この佇まい、いいでしょう?」

フロントに向かいながら、小声で説明してくれる。

「廊下の照明とか、障子越しの光とか、絵になるのよ。それに、予約した離れがまた素敵なの」


 先輩が手続きを済ませている間、少し離れた場所で案内板を見るふりをする。若女将らしき人が丁寧に応対している。


「お部屋まで、ご案内します」


 母屋から少し歩いた場所に、風情のある離れ。縁側から眺める中庭、二つの部屋。和室と洋室が襖で仕切られた造り。


「外国の方向けの部屋なんだって」

仲居さんが去った後、先輩が説明する。

「完全な別室じゃなくてごめんね。でも、いい部屋でしょ?」


 奥の障子を開けると、脱衣所と檜の浴槽。仄かな硫黄の香りが漂い、窓の向こうに広がる海は、夕暮れに溶けかけた藍色を帯びていた。


「お風呂、入る?」

荷物を整理しながら先輩が言う。

「汗もかいたし、さっぱりしてからご飯にしましょう」


 確かにそうだ。でも、この状況で入浴というのは……。


「私が先に済ませてくる」

浴衣を手に取る先輩。

「ゆっくりしてて」


 障子が閉まり、すぐに脱衣の気配。白いブラウスを脱ぐ仕草。滑り落ちるスカート。思わず想像してしまう。先輩は躊躇なく入浴しようとしている。シャワーの音が始まる。もしこの障子を開ければ、完全に見通せてしまうはず。


 荷物を整理しようとするが、意識が先輩の方に向かってしまう。先輩にとっての自分について思いを巡らせる。部屋だって、襖一枚で隔てるだけ。それはつまり、男性としては意識されていないということ。あくまで被写体ということなのか。


 先輩は何も気にしていない様子なのに、自分だけがこんなにも意識しているのか。何度かの撮影で親密にはなれたとは思う。可愛がってもらっている、という自覚もある。でも、それはペットに注ぐ感情と同じようなものなのか。嬉しいような悲しいような気持ち。


「お待たせ」


 振り向くと、湯上がりの先輩。髪が少し濡れ、顔には化粧気が無い。でもその素顔も魅力的に見える。メイクしてなくても美人だなと思う。首筋から湯気が立ち上り、なんともいえない色気を放っている。浴衣姿で髪を拭う仕草に、目が釘付けになる。


「どうぞ」


 脱衣所で服を脱ぐ。さっきまでここで先輩が――という思考を振り払う。早くメイクを落として汗を流そう。


 湯に浸かり、深いため息をつく。一日の緊張が溶けていく。窓を開ける。潮騒が聞こえ、時折風が吹き抜ける。軒先の風鈴が鳴る。


 湯船の中の自分の体が波に揺れる。衣装やメイクのない自分を、先輩はどう思うのだろう。撮影で先輩は「自然に」と繰り返す。いわゆる格好いいポーズや、衣装に合わせた可愛い振る舞いは好まない。自分は着せ替え人形なのか。でも、雑な仕草や気の抜けた表情を撮ることはないし、意図しない表情や仕草が「素敵」だと褒められることもある。よくわからない。


 考えていると湯のぼせしそうだ。

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