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吐露

 浴室から戻ると、豪勢な食事が並んでいた。部屋食なんて初めてかも知れない。


「あ、戻ってきた?」

難しいことを考えなくても、この笑顔を向けてくれるなら、それで十分な気がしてくる。

「お酒、飲むよね?」


「頂きます」

 

 栓抜きの音が、静かな部屋に響く。注いでくれたビールの泡が、グラスの中でゆっくりと消えていく。


「美味しそう」

刺身に箸で山葵を載せ、微笑む。艶めく黒髪が、うなじできれいなラインを描いている。ノーメイクの先輩の顔が間近にある。ちょっと気を抜くと、見とれてしまいそうになる。


「もう一杯どう?」


 グラスを差し出すと、先輩の手が触れた。湯上がりで上気した頬が、より赤みを帯びている。浴衣の襟元が少し緩み、鎖骨が覗いていた。


「そういえば」

二本目のビールを注ぎながら、思い出したように言う。

「今日、砂浜で波に追いかけられた時の表情、すごくよかった」


「あ、あの時ですか? 慌ててただけですけど……」


「あれが自然な表情なの。演技じゃなくて」

箸を置き、少し考え込むように続けた。

「波が迫ってきて、思わず逃げ出そうとする。でも、楽しそうな表情もある。そういう素直な瞬間が好き」


 夕暮れの浜辺で、潮が満ちてきた時のことだ。シャッター音が聞こえる中、思ったより大きな波から逃げ出そうとして砂に足が取られ、思わず笑い声を上げてしまった。


「ごちそうさま」


 二人で声を揃えて手を合わせる。新鮮な海の幸に舌鼓を打ち、ビールも程よく回って、心地よい満足感に包まれていた。


 襖の隙間から漏れる光に気づいて、先輩が足を止めた。


「あ、月が出てる」


 ガラス戸を開けると、生ぬるい空気が流れ込んでくる。それでも、中庭の風景は風情があり、美しかった。満月が、苔むした石畳を銀色に照らしている。石灯籠の明かりが、庭木の影を静かに揺らしていた。


「こんなにいい庭があったなんて。せっかくだから、ここで飲まない?」


 蒸し暑さもあったが、それも夏の風情のようにさえ感じられた。先輩は残りの酒と小鉢を縁側に運び始める。浴衣姿で膝を揃えて座る姿に、美しさを感じる。月の光に照らされた横顔が振り向く。


「ほら、座って」


 促されるまま横に腰を下ろす。肌が触れそうな距離。先輩の体温と、微かな石鹸の香りを感じた。


「今日の写真、本当によかった」

グラスを傾けながら言う。

「あなたの表情って、すごく魅力的なの。作り込まれた表情じゃなくて、心の動きが伝わってくる」


 風鈴が涼やかに鳴る。


「私にとって、あなたはただの被写体じゃないのよ」


 考えが読まれたかのような言葉に、顔を上げる。先輩は遠くを見つめたまま、静かに続けた。


「カメラを通して見える素顔。親しい人にしか見せない表情。私はその瞬間を切り取れることが、嬉しい」


 月明かりに照らされた庭を見つめながら、先輩はグラスを傾ける。


「でも、それって責任も伴うのよね。あなたの心の動きを、大切に扱わないといけない」


 風が吹き、浴衣の裾が揺れる。髪が、月の光を受けて煌めいた。


「……ねぇ」

声のトーンが、少し変わる。

「私ね、ずっと気になってたの」


 お酒のせいだろうか。いつもの凛とした調子が消え、どこか切なげな響きを帯びている。


 波のように寄せては返す潮騒の音。風鈴が、微かに鳴る。


「私のこと、どう思ってる?」


 突然の問いに、息が止まりそうになる。


 心の中で何度も想像した場面。でも実際に訪れた時、言葉が見つからない。ただの憧れなのか、それとも――。先輩の問いには、もっと深い意味が含まれているような気がした。


「とてもいい写真を撮ってくれる……」


「そうじゃない」

静かに遮られる。

「フォトグラファーとしての私じゃなくて。一人の女としてどう思うか聞いているの」


 月の光を背に、先輩がこちらを向く。浴衣の合わせ目から、白い肌が覗く。


「私のこと、好きだよね」


 自分の心音が激しくなっていくのが聞こえる。


 風鈴が鳴る。その音が、異様なほど耳に残る。


 潮騒が聞こえる。波の音が、自分の鼓動と重なっていく。


 先輩の吐息が聞こえる。その熱が、肌の上でいつまでも消えない。


 言葉を探す。でも、どんな言葉を選んでも、今この瞬間の重さに耐えられそうにない。指先が震えているのがわかる。グラスに残った液体が、小さな波紋を描いている。


 男性として見てくれない先輩への想い。口にすれば、これまでの関係も、これからの撮影も、壊れてしまう。それなのに――。


「はい」


 空気を含んだ声が漏れる。長い間、胸の奥に押し込めていた言葉。声にした途端、胸の奥で何かが閉じていく音がした。


 先輩の肩が、微かに震える。


「……ごめんね」

声が低く沈む。片手で腕を抱く仕草に、浴衣の襟元が乱れる。

「それを知ってて、こんな歪んだ願望に付き合わせてしまって」


「私ね、男性が怖いの」

指先がゆっくりと胸元をかき合せる。小さな風鈴の音。


「でもカメラがあれば、レンズを通せば、距離を保てる」

月を見上げると髪が流れ、白い首筋が際立つ。

「フォトグラファーとモデルという、安全な関係に留められると思った」


「だけど、モデルでも生身の男性は恐ろしかった」

雲が流れる。薄い布地が月光に揺らめく。

「あなたのことは、優しくて、柔らかで、安全な存在として選んだ」


「だけど、あなたを見ているうちに、感情が溢れ出してきた」

目を強く閉じ、言葉を探すように間を置く。

「従順で、でも何か秘めたような表情……私の中で何かが壊れていくのを感じた」


「男性的なものが、私の手によって変わっていく。髪も服も表情も」

手のひらを見つめ、指を折り重ねる。

「その過程に、どんどん魅了されていった」


 浴衣の袖が滑り落ち、細い手首が月明かりに浮かび上がる。


「気づいたら、気持ちが抑えられなくなってた」


 瞳が月明かりに濡れたように光り、こちらに向けられる。


「あなたは、私にとって特別なの」

声が囁くように小さくなり、体がわずかに近づいてくる。

「男性的なものではなく、でも成熟した女性でもない。柔らかくて、どこか守りたくなるような」


「画面の中のあなたを見ているだけじゃ、満足できなくなって」

指先が宙を掴むように動き、こちらへと伸びかける。

「触れたくて、近づきたくて。でも、これはあなたに応えられる感情じゃない」


「私、自分に言い訳してたの」

目を伏せ、声が掠れる。

「メイクや衣装で作られた姿だから。写真の中の幻なんだって」


「でも、今の姿でも……」

一瞬、目が合う。吐息が熱を帯びる。

「もう、自分の気持ちから逃げられない」


「守りたいのに、壊してしまいたい」

声に、今まで聞いたことのない激しさが混ざる。

「大切にしたいのに、汚してしまいたい」


 突然、両手で顔を覆い、肩が大きく震える。縁側で、華奢な背が揺れる。


「こんなの、異常だってわかってる。でも……」


「先輩」

思わず、その震える肩に触れる。浴衣越しの体温が、手のひらに伝わってくる。


「ダメよ」

まるで火傷をしたかのように身を退く。乱れた胸元から覗く鎖骨。慌てて整えようとする仕草。

「近づかないで。それ以上は、私……」


 言葉の端々が、細かく震えている。


「これは、私が嫌っていたはずの支配欲と愛着の交じり合った、歪んだ気持ち」

息を深く吸い込む。

「私の狂気に、あなたを巻き込んじゃいけないの」


 ほとばしる感情に、理解が追いつかない。苦悶する姿に、胸が苦しく、痛くなる。

「巻き込まれるなんて……先輩が喜んでくれるなら……」


「それが、恐ろしいの」

先輩の声が、悲鳴のように響く。

「あなたが、私に飲み込まれていくのが怖い」


 膝を引き寄せ、自分を守るように丸くなる。

「でも、それを望んでしまう私がいる。理性でわかっているのに、止められない」

指先に力が入り、爪が浴衣の布地に食い込んでいる。


「私だけのものにしたい」

声が震え、言葉が途切れる。

「でも、それは黒い感情。支配したい、理想の形に作り変えたい……」


 目を強く閉じ、自分を抑え込むように両腕で体を抱きしめる。


「私、気持ち悪いよね。こんな異常なこと……。もう……、終わりにしましょう。とっても楽しかった。夢のようだった」

自嘲めいた笑みが浮かぶ。頬の上を、何かが光りながら落ちていった。


「嫌です」

今度は、しっかりと先輩の冷たい手を握る。震える指が、手の中で小さく動く。

「終わりだなんて言わないでください」


 月光の下、言葉を探す。先輩の指が、ゆっくりと力を抜いていく。震えが、次第に落ち着いていくのを感じる。


「先輩の気持ち、ちゃんと受け止めたいです」


 先輩の指が、微かに握り返してくる。指先が、手のひらを撫でるように動く。


「それに、撮影に嫌々付き合ってたんじゃないんです」

一つ一つ言葉を重ねていく。

「カメラを通して見つめる視線。衣装を直してくれる指先。髪を整えてくれる仕草。全部、心地よかった」


 沈黙が流れる。打ち寄せる波が、二人の吐息に重なる。夜気が、二人の間を満たしている。


「それは……」

握っていた手が緩もうとする。

「私に合わせてくれてるだけ……」


「そんなこと、どうでもいいです」

その手を離さないように、そっと力を込めながら言葉を遮る。

「先輩が喜んでくれるのが嬉しいんです。それでいいじゃないですか」


 月の光を受けた瞳が潤む。まつげの先に、小さな雫が宿っている。


「本当に……?」

不安げな声。首をわずかに傾げ、少女のような表情で見上げてくる。浴衣がため息のように滑り、白い肩が月明かりの中に現れた。

「この歪んだ気持ちを……」


「先輩の全てを、受け入れたいんです」

息を深く吸い込む。声が、少し震えた。


 夜風が、二人の髪をそっと撫でていく。浴衣の裾が、微かな音を立てて揺れる。


「でも……」

再び目を伏せ、もう片方の手で二の腕を掴む。

「もう後戻りできなくなる」


 濡れた頬が、月明かりに光っていた。唇が小さく震え、何か言葉を探している。


「これ以上、近づいちゃいけないのに」

掠れた声。目を閉じ、深いため息をつく。吐息が、艶めかしい香りと共に頬を掠める。

「私の手で、あなたを変えてしまうのに……壊してしまうかもしれないのに……」


 返す言葉はない。ただ、握っている手に、そっと力を込める。先輩の指が、その力に応えるように絡んでくる。


 遠くで、波音が聞こえていた。

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