躊躇
「今度の撮影、私の家に来てくれない?」
夜遅くに届いたメッセージに、コンビニ弁当の箸を取り落とす。もう一度、画面を見直す。これまでの撮影は、公の場所という安全な距離感があった。それが、先輩の私的な空間へと移る。
「スタジオを借りるより自由だし、ゆっくりできる。それに」
一度メッセージが途切れる。呼吸が浅くなっていく。
「二人とも緊張しなくて済むと思う」
続けて届くメッセージ。先輩の家となると……、かえって緊張しそうだ。それに、これまでとは明らかに違う一線を越えることになる。
返信に迷っていると、さらにメッセージが来る。
「あ、変に聞こえたかな」
言葉を選ぶような間。
「私、男性を警戒しすぎるって言われるんだ。でもあなたとなら、大丈夫だって思える」
胸の奥が締め付けられる。同時に、特別な信頼を寄せられていることへの高揚も。先輩にとって、自分がどんな存在なのか。考えると、複雑だけど妙な熱が込み上げてくる。
「ぜひお願いします」
送信してから、自分の気持ちの高ぶりに気づく。考えるほど、頬が熱くなっていく。
***
蝉の声が響く中、マンションのオートロックの部屋番号を押す。応答を待つ間、深く息を吐く。今日という日が、大きな転換点になる予感がする。
案内された階に着くと、ドアの前で先輩が待っていた。いつもと少し違う装い。ゆったりとした白ブラウスに淡い色のパンツ姿は、普段より柔らかな印象を醸し出している。それでいて、大きく開いた襟元から覗く鎖骨のラインが、なんともいえない色気を放っている。
「どうぞ」
先輩の部屋は想像以上に広かった。リビングには小さな撮影スペースが作られていた。白い背景布に、柔らかな自然光。窓際には観葉植物。カバーを掛けられたピアノ。その上には額が置かれ、見覚えのない風景が切り取られている。
「弾かないんですか?」
「ええ」
何かを振り切るような、短く切られた返事。
「今は、写真の方が楽しいから。お茶入れるね」
控えめな青い模様のティーポット。少し平たいカップに、琥珀色の液体が注がれていく。仕草の一つ一つが、普段見せない先輩の素顔を垣間見せているようで、目が離せない。
居心地の良いソファに座り、先輩と向き合う。窓からの陽光が、二人の間に落ちる。静かな空気が流れる。観葉植物の影がソファの上で踊る。
「ねぇ、聞いていい?」
紅茶を一口飲んでから、先輩が切り出す。声音に、いつもと違う親密さを感じる。
「確か、付き合っている人がいたと思うけど……続いてる?」
目を伏せる。卒業直前の先輩に、バイト先で彼女ができたことを話したのだった。でも、その彼女には友達の彼氏と比較され、窮屈な思いをしていたことを、先輩は知らない。
「実は……振られてしまって」
「どうして?」
穏やかな問いかけに、言葉が自然と溢れ出す。
「男らしくない、頼りないって」
言葉にするのは少し辛かった。でも、先輩になら話せる気がした。むしろ、話したかった。今の自分を理解してもらうために、必要な告白のように感じられた。
「へぇ……」
先輩が意外そうな表情を浮かべる。少し救われる思いがする。
「私はいいと思うけどな。優しくて、素直で」
顔を上げる。先輩の目が、光を湛えている。
「むしろ、力まない方が魅力的だと思う。そういう自然な姿の方が、ずっといい」
嬉しくなる。でも同時に、戸惑いも湧き上がってくる。撮影では、メイクや衣装で普段とは違う姿になる。それは本当に、自然な姿なのだろうか。
先輩が、その葛藤を見抜いたように微笑む。
「メイク、始めよっか」
その言葉で、迷いは吹き飛んだ。
***
小ぶりなドレッサーの前に座る。背後で、先輩が髪を束ね直す。ブラウスの襟元から漂う控えめな香水の香り。見慣れないパレットやブラシが、これから始まる儀式の道具のように思えた。
「ずいぶん伸びたわね」
先輩の指が、髪に触れる。
襟足に届くくらいまで伸びた黒髪を、嬉しそうに指先で遊ばせている。暑い陽射しの中、汗ばんだ首筋に先輩の指が触れる度、体が震える。
「美容院には行ったんですけど、あまり切らないでもらいました」
「ボブ、よく似合ってる。私は好き」
嬉しそうな先輩。
「でも、面接前には……」
「切るの?」
「はい……」
「ダメよ」
きっぱりとした口調に、目が合う。
「……あっ、ごめんね。ちょっともったいないなと思って」
取り繕うかのように、化粧水のボトルを手に取った。コットンに染み込んでいく液体が、光を受けて輝く。
「今日のメイクは、きっちり丁寧にするね」
指が顔に触れる。一枚一枚、薄い膜を重ねるような感覚。目を閉じていると、先輩の呼吸が近くに感じられる。時折、吐息が頬を撫でる。
「肌の色がきれいになってきたわ」
ケアを続けていた成果を褒められた。先輩は、これまでの努力を認めてくれる。嬉しくなる。
小さなパレットを手に取る先輩の腕が、肩に触れる。
「目は大事だから、念入りにするね」
先輩の息遣いが近づき、化粧品の清潔な香りが漂う。ブラシが描く微細な動きが、まぶたに小さな風を起こしている。一筆一筆に、先輩の意図が込められているのを感じる。薄い色から徐々に深い色へ。重ねられていく色が、どんな印象を作り出すのか想像もつかない。ただ、先輩の真剣な眼差しに自分を委ねる。
「目、閉じないで」
色のついた何種類もの筆先が、目の周りを撫でる。まばたきを我慢するのが難しい。すぐそこで先輩の顔が自分を見つめている。視線の重みを感じ、じっと耐える。
「もうちょっとだから、頑張って」
「動かないで。少し下を見て」
優しく制止される。指先が、まつげに触れる。接着剤の匂いと、微かな違和感。慣れない感覚に目尻が痒くなる。
「これも付けてみて」
小さなケースに入ったカラコン。薄いヘーゼル色だった。
装着を終え、鏡に映る姿に息を呑む。つけまつげが、自然に馴染んでいる。下まつげにもマスカラが塗られ、目元と瞳の印象が大きく変わっていた。性別まで変わってしまったかのようだった。そして、鏡に映る姿は確かに魅力的だった。
「これが、自分……」
先輩の指が、髪を優しく整えていく。自分の好みの姿にできることが嬉しいのか、頬が紅潮している。メイクを終え、先輩が真剣な表情で鏡越しに目を合わせる。
「とても素敵」
先輩が満足げに微笑む。その言葉に、頬が熱くなる。先輩の「素敵」という言葉の重みが、徐々にわかってきた気がした。
「今日の衣装よ」
ハンガーラックの奥から取り出されたのは、淡いブルーのワンピース。シンプルな襟元から裾まで流れるライン。ウエストの控えめなリボン。もうユニセックスとは言えない、完全に女性の服装だ。生地は薄く、光を通すと下着のラインまで透けそうだった。
「似合うと思うの」
白いブラウスの袖をまくる先輩。腕の内側に浮かぶ青い血管が、妙に生々しく見える。
「あと、これと合わせて」
差し出されたのは、艶のある黒のパンプス。ヒールは5センチほどで、きっちりした印象を感じさせた。
「足元も大切」
パンプスの中敷きに手を入れながら、先輩が続ける。
「歩く姿のシルエットが、変わってくるから」
「それと……」
言い淀む先輩の瞳の奥に、熱が宿っている。心臓が跳ねる。
「……今日は特別なお願いがあるの」
紙袋を差し出す手が、少しぎこちない。中を覗くと、タグの付いた新品のランジェリー。レースの縁取りが施された柔らかな布地が、透明な包装に包まれている。ほんのりとピンクがかった白い生地に、繊細な刺繍が施されている。
「トータルの衣装だと思って」
意味を理解した瞬間、息が止まりそうになる。頬に血が上る。喉がカラカラに乾く。
「これは……」
声が途切れる。これまでの撮影とは明らかに違う。めまいを覚える。
「無理にとは言わないけど……」
先輩の声は優しい。でも優しさの中に、強い期待も感じられる。手に持った紙袋が、やけに重く感じられる。
「でも、より自然なシルエットになると思うの」
シルエット、か。それなら……。でも、だからこそ、先輩のこだわりのようなものを感じる。
「それに、これは私の……」
一瞬のためらい。先輩の頬が、わずかに紅潮している。
「ずっと叶えたかった夢なの」
目を落とす先輩。いつもの凛とした姿からは想像できない弱さを感じる。この弱さを見せてくれるのは、信頼してくれているからだろうか。
「わかりました」
自分の声が遠くで響く。
「本当に?」
瞳が潤んでいるように見える。その表情に、耳の後ろが熱くなる。
「ええ。先輩に喜んでもらえるなら」
先輩の表情が輝きを取り戻す。その笑顔を見て、よかったと思った。
洗面室に向かう前、小さな声が追いかけてくる。
「これから、色んなお願いをするかもしれない。でも、全部断ってもいいからね」
声には、抑えきれない期待と、思いやりが混じっている。だからこそ、応えたいという気持ちが強くなっていく。
***
洗面室のドアを閉める。隣にはバスルーム。きれいに片付いてはいるが、ここには先輩の生活が感じられる。さらに落ち着かない気持ちになる。
紙袋の中身を確認する。手に取ろうとする指先が強張る。鏡に映る自分の表情には、期待と戸惑いがある。淡いピンク色の生地が、優しく輝いている。レースの縁取りがある繊細なデザイン。これまでの人生で一度も触れることのなかった世界が、今、目の前にある。
手に取ると、想像以上に柔らかい布地。指先に伝わる感触が新鮮だ。今までの自分からは想像もできなかった選択。でも、先輩となら挑戦できる気がする。風呂場のタオルからほのかに漂う柔軟剤の香り。それは間違いなく、先輩の私物の匂いだった。
鏡に向かいながら、ゆっくりと身につけていく。動作の一つ一つに戸惑う。身につけ終わると、鏡に映る姿に驚く。内側に施された工夫が、さりげなく体のラインを作り出している。違和感はあるものの、それは悪いものではない。
肌色に近い薄手のストッキング。布地の向こうに透ける自分の指を見つめながら、この状況の不思議さを噛みしめる。
「ゆっくりでいいからね」
ドアの外の先輩の声に導かれるように、座って足に通していく。爪を引っ掛けないよう慎重に。周りの女性たちが、毎日こんな面倒なことをしているのかと考えると、妙に感心してしまう。
ワンピースを被ると、布地が優しく肌を包み込む。慣れない手つきでファスナーを上げ、裾を整える。スラリとした上半身と控えめな膨らみがボディラインを形作る。鏡に映る姿が、変化していく。
パンプスを履く。かかとを入れた瞬間、重心が大きく変わる。バランスを取ろうとして、壁に手をつく。足首がぐらつく。そのとき、今までとは確実に違う自分を感じた。
「見せて」
ドアを開ける時、心臓の鼓動が聞こえるほどだった。先輩の目が、一瞬大きく見開かれる。見つめられ、顔が熱くなる。




