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変容

 入梅を告げる雨が、窓を叩く音で目が覚めた。六月の蒸し暑さが部屋に充満している。布団から抜け出し、窓を開けると、雨の匂いが部屋に流れ込んでくる。


 ひっそりと佇む雑居ビル。エレベーターでは、自分の呼吸の音を聞いていた。心臓の鼓動が少しずつ早くなっていく。一週間前の先輩とのメッセージのやり取りが、まだ頭の中でぐるぐると回っている。


 最上階のドアを開けた瞬間、異世界に踏み込んだような感覚。天井から吊るされた複数のスポットライト。その光が埃の舞う空気を切り裂き、白い背景布に向かって無数の光の帯を投げかける。メインライトが作り出す鋭い明部と、それを和らげるフィルライトの柔らかな光が、空間に立体的な奥行きを生み出している。


「来てくれたのね」


 振り向くと、機材の準備をする先輩の後ろ姿。黒のワンピースから覗く足首が、パンプスの締め付けで細く括られている。髪は緩く束ねられ、首筋にかかる後れ毛が、光を受けて揺らめく。カジュアルな中にも計算された、洗練された印象。


「すぐ終わるから、ちょっと待ってて」


 三脚を組み立て始める先輩。ライトの角度を微調整し、レフ板を慎重に配置していく。その手際は、まさにプロフェッショナルの確かさがあった。何か特別な雰囲気が感じられる。


「着替えは、あっちのスペースで」


 先輩が指さした場所には、簡易の仕切りカーテン。その横のハンガーラックに、何着かの衣装が掛けられていた。


「用意した衣装は、これ」


 先輩が段ボール箱から取り出したのは、白いブラウス。首元に黒いリボン、胸元には控えめなレースの装飾、袖口のフリルが、光を受けて微かに透ける。一目で、女性物とわかる服だった。


「これが、『私の好み』の服なの」


 差し出されたブラウスを受け取る。手が微かに震える。思いもしなかった展開に、言葉が見つからない。白い生地が、光を受けて柔らかく輝いている。


「え……これ……」

言葉が詰まる。頭の中が真っ白になる。心臓の鼓動が強まり、全身に響き渡る。


「だからこそ、あなたに着て欲しいの」


 先輩の声は、いつもより少し低く、でも確かな意志を感じさせた。視線を上げると、そこにはこれまで見たことのない真剣な眼差しがあった。プロとしての鋭さと、何か個人的な感情が混ざり合ったような、複雑な表情。


「イヤなら、無理しなくていいわ」

一度深く息を吐いて、先輩が続ける。

「驚いた? でも……」


 言葉を選ぶように、先輩が一瞬目を伏せる。その仕草に、普段は見せない迷いが感じられた。


「あなたには、この服が持つ繊細さが合うと思うの。貴公子や王子様のような衣装だと思って」


 また言葉が途切れる。先輩の視線が、手に抱えたブラウスに注がれている。その眼差しには、長く温めてきた想いが垣間見えるようだった。


 断りたい気持ちと、先輩を失望させたくない気持ちが交錯する。でも、それ以上に気になったのは、先輩の表情に浮かぶ僅かな不安だった。まるで、この提案が先輩自身にとっても、大きな一歩のように感じられる。


「……試してみます」


 自分の声が遠くに聞こえた。決心したというより、先輩の期待に押し出されるように言葉が出た気がする。でも不思議と、後悔はなかった。


 黒のスキニーパンツを手に、カーテンをくぐる。腕に抱えたブラウスの感触が、やけに生々しい。タグを見ると、見慣れない女性服のブランド名。真珠のような光沢を帯びた生地は想像以上に柔らかい。触れるだけで、布地が指の間でため息をつくように揺れた。


 着替えながら、鏡に映る自分の変化を見つめる。一つずつボタンを留めていくたび、少しずつ見知らぬ自分が形作られていく。スキニーパンツを履くと、意外にもすっきりとしたシルエットになった。普段のジーンズだと腰回りが気になることが多いのに。


 鏡に映る姿に戸惑いを感じる。これで本当にいいのだろうか。考えていると、また心臓の鼓動が早くなる。でも、もう引き返すことはできない。


「見せて」


 カーテンの外から聞こえる声に、我に返る。緊張なのか、期待なのか。それとも…………。考えることを放棄するように、深く息を吐く。先輩の喜ぶ顔が見たい。


 おそるおそるカーテンを開ける。先輩の目が、姿を捉えて離さない。その視線に耐えきれず、また目を伏せそうになる。床に目を落とすと、先輩のパンプスが一歩近づいてくるのが見える。


「やっぱり……」


 その声に、ゆっくりと顔を上げる。


「予感は正しかったわ」


 嬉しそうな表情を浮かべる先輩。その笑顔に、断らなくてよかったと思う。羞恥心は残ったまま、でもそれ以上に、先輩の期待に応えられた喜びが広がっていく。


「リボン、少し直すわね」


 突然の接近に、息が止まりそうになる。先輩の手が首元に伸びる。黒いリボンを結び直す指先が、時折首筋に触れる。その仕草には、どこか愛着めいたものが感じられた。


「こんなにも似合うなんて」

リボンを整えながら、先輩が囁くように続ける。

「スタイルの良さもそうだけど、なにより表情がいいわ」


 先輩の指が首筋に触れ、ブラウスの襟を整える。控えめな、でも、甘い香水の香り。女性物の服を着せられ、先輩に近づかれ、化粧品の香りに包まれる――複雑な感覚が全身を駆け巡る。


「髪の長さも、いい感じ」

先輩が前髪に手を伸ばしてくる。耳が隠れる位の黒髪を、指先で優しくとかす。その仕草に、思わずゾクりとする。


「これ……」

言葉が出かける。


「あ、はい……美容院、予約がまだ先で……」

言い訳のように言葉を濁すと、先輩が嬉しそうに微笑む。その表情に、どこか企みめいたものを感じる。


「いいと思う。長い方が似合う」

前髪を左右に分けながら、目を細める。その仕草に、何か特別な意図を感じる。


「このまま、もっと伸ばしてみない?」


 普段より近い距離。鏡越しに映る先輩の真剣な表情に、思わず目が釘付けになる。その視線の先にある未来の自分を、想像してしまう。


「少しだけ、これも使わせて」

先輩の手が、メイクポーチを取り出す。


「え……」

戸惑いの声が漏れる。


「光の反射を抑えなきゃ」


 化粧台に座ると、先輩が本格的なメイク道具を広げ始めた。柔らかなブラシが頬を撫でる。

 一つ一つの動作の意味はよくわからない。でも、その手つきは確かなものに思える。そして、時折触れる指先には、慎重さが感じられた。


「目を閉じて」


 言われるまままぶたを閉じると、さらに研ぎ澄まされる感覚。ブラシの細かな動き、先輩の吐息、化粧品の香り。閉じた目の前で、いくつもの感覚が重なり合う。


「こういう柔らかい眉の流れを活かしたいの」

先輩の声が近い。

「自然な優しさを引き出すように」


 細いブラシが、眉を整えていく。その言葉に、先輩の意図が少しずつ見えてくる。否定でも変身でもない、何か別の可能性。


「はい、目を開けて」


 鏡に映る自分に、しばし言葉を失う。大きな変化ではないのに、確実に違う表情がそこにあった。普段の自分でありながら、洗練された印象。先輩が言った「皇子」や「王子」という言葉が、少しだけ理解できる。


「さて、本番ね」


 先輩がカメラを手に取る。その仕草を見ているだけで、緊張が走る。スポットライトが温かな光を放ち、白い背景布が空間を切り取る。


「まずは、そこに立ってみて」


 先輩が三脚の高さを調整し、ライトの角度を確認する。その動きには無駄がない。


「このライティングで、輪郭が美しく出るの」

カメラを覗きながら、先輩が説明する。

「横からの光が、シャツの質感も拾ってくれるわ」


 シャッター音が響き始める。最初は緊張で体が硬くなる。でも、先輩の的確な指示が、少しずつ体をほぐしていく。


「肩の力を抜いて。そう、自然に」

「首の角度、もう少し右に」

「視線は、まっすぐ」


 一つ一つの指示に従うたび、先輩の声が満足げになっていく。それが嬉しくて、もっと応えたいと思う自分がいた。


「素晴らしい」

時折、先輩が呟く。

「予想以上の表情が撮れてるわ」


 プレビュー画面を一緒に確認する時、その言葉の意味がわかった。写真の中の自分は、確かに自分なのに、今まで見たことのない表情をしている。迷いと期待が混ざったような、でも芯のある眼差し。


 撮影が進むにつれ、不思議と心地よい緊張感が生まれていく。レンズを通して見つめる先輩の目に映る自分が、気になって仕方がない。それは恥ずかしさというより、新しい可能性への期待に近い感覚だった。


「最近、加工アプリで簡単に理想の姿に変えられるでしょ?でも私は……」

画面から目を離して、先輩がこちらを見つめる。その眼差しに、強い意志が宿っている。


「本来持っている魅力を、ありのまま写真に収めたいの。過度な加工は、不自然だし、その人らしさを裏切ることだと思うから」


 その言葉に、どきりとした。「その人らしさ」――今の自分は、本当の自分なのだろうか。でも、その問いさえも心地よく感じられる。むしろ、探求する価値のある問いのように思えた。


 ***


 帰り際、大きな紙袋を差し出される。

「次の撮影のために、少し準備しておいて欲しいの」


 紙袋の中から覗くスキンケア用品の数々。化粧水、クレンジング、クリーム──それに加えて、いくつかの小さな箱や説明書きのような紙も。その重みが、これからの変化を予感させる。


 その夜、鏡の前で立ち止まる。今日の自分は、誰のための自分だったのだろう。先輩のため?それとも自分のため?


 鏡に映る自分の姿。長めの黒髪、細身の体型、柔らかな表情。これまで気にも留めなかった特徴が、今は特別な意味を持って見える。


 スマートフォンが震える。未読の溜まったグループチャットを無視して、先輩からのメッセージを開く。


「今日は素敵な写真が撮れたわ。次はもっと素敵な姿が見られると思うの」


 お礼や謙遜を入力しようとし、思い直して途中で消す。


「頑張ります」


 シンプルな言葉の中に、様々な思いを込める。先輩の期待に応えたい。新しい自分を発見する期待。そして、少しずつ芽生えてきた、この関係を大切にしたいという感情。


 部屋の明かりを消し、ベッドに横たわる。闇の中で、今日の出来事を一つずつ思い返す。先輩の指先が首筋に触れた感覚。メイクを施される時の緊張。カメラを向けられた時の不思議な高揚感。


 それらの記憶が、期待へと変わっていく。先輩の言う「もっと素敵な姿」とは、どんなものだろう。考えているうちに、心地よい眠りに落ちていった。

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― 新着の感想 ―
いい感じに歪んできましたね。。 ヤバそうなんだけど、続きを覗いてみたくなる背徳感があります。。
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