再会
翌日、指定された時間より少し早めに到着する。窓際の席に座り、ガラスに映る自分の姿を見つめる。やはり髪がパーカーの襟元にかかっている。先輩に会うとわかってたら切っておいたのにと後悔する。
ガラス扉の開く音と共に、懐かしい声が聞こえた。
「お待たせ」
突然の声に、それまでの心の準備が崩れる。会うのは卒業以来だが、その凛とした佇まいは変わっていなかった。ベージュのニットワンピースに、首元で結ばれた細いスカーフ。黒のショートブーツ。卒業してからも、その雰囲気は薄れていない。むしろ、社会人になり、さらに魅力が増している。先輩のセンスの良い装いを見ていると、自分の何気ない格好が急に恥ずかしくなる。
「久しぶり」
穏やかな微笑みに、懐かしさを感じる。
「お久しぶりです」
緊張を紛らわすように、テーブルの上で指を絡める。先輩は、そんな仕草も温かく見守るように座る。
お互いの近況を話す。昔と声の調子は変わっていない。そして、先輩とよく、とりとめない話をした記憶が蘇ってきた。自分の表情がなめらかになるのがわかる。
注文した紅茶が運ばれてくる。湯気の向こうで、先輩が言葉を選ぶように少し間を置く。
「実は、私、写真が趣味なの」
知らなかった。サークルでも写真を撮ることはあったが、そんな趣味があったとは。
「ポートレート撮影とか」
ミルクをティースプーンに入れ、そっと沈め、かき混ぜる。優美な手つき。いつ誰に見られてもよい完璧な仕草。
「広報の仕事でも写真は撮ってるんだ」
取っ手を静かにつまむ。控えめな素爪が、カップの白い磁器に映える。その小指の関節に、なぜか目が引き寄せられる。
「でも、プライベートでの撮影の方が、もっと自由に表現できるというか」
カメラの話は、控えめだが、熱を感じさせた。聞き入りながら、なぜか緊張が増してくる。
「人物写真は難しいけど、その分やりがいがあるの。商品写真と違って、モデルの魅力を引き出せるかどうかは、その人と自分の関係も影響するし」
視線が遠くを見つめる。その表情には、純粋な情熱と、何か複雑なものが混ざっているように見えた。
「それで、男性モデルさんとの撮影もあるんだけど……」
言葉を切って、一度深いため息をつく。
「私、どうも苦手で」
その言葉に、なぜか椅子の固さを感じた。
「プロのモデルさんって、どうしてもキメようとするというか」
カップを見つめながら、言葉を探す。
「特に男性は、カッコよく見せようとしすぎて。それが写真に出てしまうの」
そう言いながら、ちらりとこちらを見る。その視線に、何か期待めいたものを感じる。昔から、この人の前では妙に落ち着かない気分になることがある。
「でもあなたなら……」
顔を上げて、まっすぐに目を合わせてくる。
「期待に応えてくれそう」
確かに、カッコつけることは苦手だ。むしろ、みっともなく見えないようにするのが精一杯かもしれない。無意識に背筋が伸びていた。だけど、期待に応えられるかという不安も込み上げてくる。
「サークルの時から、あなたのことは気になってたの」
髪を耳にかけ、先輩が続ける。
「自然な立ち居振る舞いというか、飾らない感じが。それで……」
言葉を切り、紅茶に口をつけ、ゆっくりとカップを置く。その仕草には、何か言いよどむような雰囲気が感じられた。差し込む陽射しが、先輩の横顔を優しく照らしている。
「今日、少し試し撮りしてみない?」
言葉の調子を変えて、さらりと話を進める。
「近くに、ちょうどいい場所があるんだけど」
***
カフェを出て、先輩の後を付いていく。柔らかな陽射しが、二人の影を地面に落とす。桜は散り、新緑の季節を迎えていた。少し歩くと、小さな公園が見えてきた。週末だというのに、不思議と人気は少ない。
「ここなら、ゆっくり撮影できそう」
木々の影がまだらに落ちる、レンガの古い壁。ここなら、という言葉が、急に現実味を帯びる。先輩がバッグからカメラを取り出す。レンズを確認し、設定を調整する手つきに慣れた様子が窺える。
「まずは、プロフィール的なものを」
レンズが向けられた瞬間、急に体が強張る。どう立てばいいのか、手をどう置けばいいのか、まるでわからない。視線をどこに向ければいいのかさえ、迷ってしまう。
「力が入ってる」
先輩が穏やかに微笑む。
「自然に、いつもの感じで」
自然を意識すればするほど、体が言うことを聞かない。右手で左腕を抱きかかえてしまう。緊張を隠せていないことが、余計に焦りを生む。
「男子って、写真を撮られることに慣れてないものね」
カメラを構えながら、先輩が続ける。
「自撮りもあまりしないでしょう?」
確かにその通りだった。自分の姿を意識的に撮影することなど、ほとんどない。それは、自分の姿に自信が持てなかったからかもしれない。就活用の証明写真を撮る時でさえ、自分の顔を直視するのが苦手だった。
「でも、それもいいの」
先輩の目が、ファインダー越しに輝く。
「素直な反応が出るから。その恥ずかしそうな表情もね」
その瞳には、ただ写真を撮る以上の何かが宿っているように見えた。観察するような、でも同時に包み込むような視線。その目に見つめられることで、不思議と心がざわついていく。
「壁にもたれて」
「こう……?」
「そう、自然に。その仕草、すごくいいよ」
一つ一つの指示が具体的で、従いやすい。それでも、カメラを向けられるたびに身構えてしまう。レンズの先にある先輩の視線が、急に意識される。
「表情が硬いわ」
先輩が笑う。
「私のこと、そんなに怖がらないで」
思わず吹き出してしまう。
「そう、その笑顔!」
シャッター音が響く。先輩の目が輝いている。それは、新しい発見をした時のような、喜びに満ちた輝き。その視線に見つめられるのが嬉しい。
「手を少し上げて」
「……こんな感じ?」
「ええ。でも力を入れすぎないように。柔らかくね」
一つ一つの指示に従ううちに、少しずつ体が言うことを聞くようになってきた。最初の硬直が、徐々に心地よい緊張感へと変わっていく。
「後ろ手で壁に手をついて」
「こうかな……」
「そう。でも胸を張りすぎないように。もう少し自然に、優しい気持ちで」
無意味な力みや見栄を少しずつ取り除いていくような、先輩の的確な言葉。そのたびに、新しい自分が見えてくる気がした。風が頬を撫でる。それとも先輩の視線だろうか。背中のレンガの感触が、やけに生々しい。
「こんな風に撮れるなんて」
先輩の声が、いつもと違う響きを帯びている。
「思ってたよりもずっと……」
言葉が宙に浮く。光が、レンズを伝って目元を照らす。そこに浮かぶ感情が、褒め言葉なのか、それとも別のものなのか、読み取れない。首元のスカーフが、風に揺れる。
ファインダー越しの視線に見つめられると、少し居心地の悪さを感じる。でも、その視線から逃れたいわけでもない。むしろ、もっと見つめていて欲しいような、そんな矛盾が芽生え始めている。
「もう少し、そのままで」
シャッター音が、断続的に響く。一枚、また一枚。そのたびに、自分が何かに変えられていくような、そんな不思議な感覚。怖いはずなのに、心地よい。
いつの間にか日が傾いていた。空の色が変わるのも気づかないほど、レンズの向こうの視線に吸い込まれていた。ようやく撮影が終わる。見上げると、空が茜色に染まっている。五月の風が、二人の間を優しく通り抜けていく。
「今日の写真、編集できたら送るね」
カメラをバッグにしまいながら、先輩が言う。
「きっと、いい仕上がりになると思う」
***
帰宅して数時間後、スマートフォンの通知音が鳴る。風呂上がりの軽く火照った体のまま、急いで画面を見る。それは、先輩からのメッセージだった。
「今日撮った写真、簡単に何枚か編集してみたよ」
添付された写真を開く。誰だろう。違う、自分だ。確かに自分なのに、別人のようにも見える。夕暮れの光を受けて、表情が穏やかに溶けている。力強さやカッコよさとは違う、柔らかな表情。少し長めの黒髪が風に揺れ、パーカーの襟元に影を落としている。
レンガの壁に寄りかかるショット。歩きながら振り返るカット。風で髪が揺れる瞬間。どの写真も偶然とは思えない切り取り方で、新しい自分を見せてくれている。就活用の証明写真とは、まるで異なる。そして、魅力というべきものが、そこには宿っていた。
「やっぱり、あなたにお願いしてよかった」
続くメッセージに、胸が熱くなる。
「こんないい表情を見せてくれるなんて。特にこれ、すごくいい」
最後の写真には、レンガの壁に手を突きながら、少し上目遣いで笑っている自分が写っていた。照れくさそうな表情なのに、どこか色気のようなものを感じさせる。そんな表情ができることすら、知らなかった。
「自分とは思えません」
送信した瞬間、誤解されそうだと気づく。しまった。
「自分とは思えないほどです」
そう打ち込んでいるうちに、返信が来る。
「これも、あなた自身」
「普段は見せない一面ってだけ」
その言葉に、妙に納得する。自分の中にあったものを、先輩がうまく引き出してくれたのだと。それは、送られてきた写真が、どれも緊張が取れた夕方に撮られたものであったことからも伺い知れた。
「ありがとうございます。こんなによく撮ってもらって」
「ううん、私も楽しかった」
恋愛でも就活でも、主体性が足りないと言われてきた。なのに、今日は言われるがままに身を任せた方が、うまくいった。もしかしたら、これまでの自分は、変化が怖くて動けなかっただけかもしれない。どう表現すればいいのか、言葉を迷う。でも、この感覚を伝えたくて、指が動く。
「なんだか不思議な気持ちです。うまく言えないけど、自分の知らない自分に出会えたような」
少し間が開く。先輩も言葉を選んでいるようだった。
「私にも、新しい発見があった。あなたには、まだまだ可能性があると思う」
「可能性、ですか?」
つい謙遜し、否定する言葉を打ち込もうとした時、次のメッセージが届く。
「また、お願いしてもいい?」
スマートフォンの画面に映る言葉に、ハッとする。また撮ってもらえる。でも、本当に自分なんかでいいのか、先輩の期待に応えられるだろうかと、少し不安になる。でも、先輩と会えるのは嬉しい。
「もちろんです」
送信ボタンを押した後も、しばらく写真を見つめ続けていた。これが自分かと思うと、まだ不思議な感覚が残る。そして、ファインダー越しの先輩の視線を思い出すと、落ち着かなくて仕方がない。
「来週の土曜日、時間ある?」
次のメッセージが届く。
「スタジオ、予約しようと思ってる」
「どんな格好で行けばいいですか?」
そうメッセージを送ったが、なかなか反応が返ってこない。諦めてフォンを置こうとしたそのとき、返信があった。
「今度は、私の好みの服を着てもらいたいの。用意しておくね」
少しほっとする。服選びには自信がない。けれど、先輩が選んでくれるなら。どんな衣装なのだろう。先輩のことだから、きっとセンスのいいものに違いない。わざわざ自分のために用意してくれると思うと、なんだか気恥ずかしく、そして嬉しい気持ちが広がる。一年生の初めての打ち上げで、隣に座った先輩が話しかけてくれた記憶が蘇った。
カレンダーを確認する。その日はやっと入れた美容院の予約があった。だが、キャンセルすることに、迷いはなかった。
「土曜日、大丈夫です」
返信を済ませ、鏡に映る自分を見つめる。まだ髪が濡れている。長くなった前髪が、顔にかかる。先輩の作品を見ると、これも悪くない気がする。
スマートフォンを置く。でも、また見たくなる。大きな画面で確認したい。そんな自分に気づいて、少し照れくさくなる。写真をPCに転送する。
そして、就活の話題で盛り上がるグループチャットの通知を、そっとミュートにした。スーツに袖を通すことも、面接での建前の受け答えも、今は考えたくない。
窓の外で街路樹が揺れている。夜風だろうか。風呂上がりの熱は冷めてきたが、心は落ち着かない。
先輩の最後のメッセージを、もう一度開く。
「きっと、素敵な写真が撮れると思う」
その言葉が、夜更けの部屋で、小さな希望の明かりのように、静かに灯っていた。