表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/115

人格乖離

 静子さんの事務所です。


「今日の晩御飯は私が作ったのよ。さあどうぞ、お腹いっぱい食べてね」

 静子さんが自慢げに言いました。彼女はあまり日常の食事を作っているタイプには見えませんが、こうしてたまに料理の腕を振るうのでしょう。


 事務所のデスク変わりのテーブルの横に、もうひとつちゃぶ台のようなテーブルが置かれています。

 そのテーブルに並んでいるのは、お茶碗に盛った白いご飯、豆腐の味噌汁、サバの塩焼きに大根おろしを添えたもの、あとは大皿に盛りつけたサラダと、大量の鶏の唐揚げです。


「わあ、なんだか懐かしいメニューだなあ。こういうの久しぶりです。いただきます」


 久しぶりの和食の家庭料理に舌鼓を打ちます。

 オームもなかなか慣れたもののようで、タイ人には珍しく器用に箸を使い焼き魚を食べています。


「こんな山奥でサバが食べられるとは思わなかった。脂が乗って美味いです」


「そうでしょ?タイではサバはかなり高級魚なのよ。日本料理店なら結構な値段するけど、人気料理なの」


 静子さんは満足そうに言います。

 日本米のご飯も、びっくりするほど美味しく感じます。そしてお味噌汁も。

 おそらくは大の男の食欲に配慮したと思われる唐揚げは、歯ごたえがあって味が深い。


「この唐揚げ、すごく美味しいですね。普通の唐揚げじゃないみたい」


「それはブロイラーじゃなくて、本場の軍鶏(シャモ)肉だからよ」


「なるほど!日本ならすごく贅沢な唐揚げですよね」


 日本でも闘鶏に使用されていた軍鶏(シャモ)はもともとタイが原産です。

 名前はタイの旧国名・シャムに由来しています。


 静子さんの手料理を食べながら、私はふと言いました。


「そう言えば日本の事って、もうあまり思い出さなくなりましたねえ。なんか日本の事はすべてが夢だったみたいで」


 その言葉を聞いた静子さんは、突然真顔になって私の顔を見ました。


 そして唐突ににこう言いました。


「トミーちゃん、私あなたの様子がとても気になっているの。たぶん中田もそう。それでトミーちゃんを私のところへ寄こしたんじゃないかしら」


「え、どういうことですか?」


 静子さんはかなり間を置いて・・・少し熟考したあと、ようやく口を開きました。


「サトミさんて、どういう人?」


 ・・・ん?サトミ?サトミ。サトミ!!

 ・・・あああ・・サトミ。。


 私の脳裏に、突然大量のサトミの記憶が溢れ出てきました。

 ゴールでの、インドゥルワでの、サトミと過ごしたすべての時間の記憶が。

 いわゆる走馬燈ではなく、同時に一気に・・


「あああ・・サトミは・・・サトミは・・」


 なんということでしょう。私はしばらくの間、サトミのことを完全に忘れていました。


「トミー、どうしたの?大丈夫?トミー!」

 私の動揺しての変貌ぶりに、オームが心配しています。


 しかし、しばらく溢れ出つづけた記憶の水流は、やがて落ち着きを見せ始めました。


「・・ああサトミ・・僕は・・僕はなんて弱いんだろう。。」


 しばらくの間、私を支配していた冷めた人格の私が引っ込み、本来の私が帰って来たようです。


「トミーちゃん、あなた完全に人格が乖離しているわけじゃないけど、ちょっとアブないわね」


 私は少し落ち着きを取り戻してきました。


「・・静子さん、あなたは精神科医なんですか?」


「違うわ。あくまで経験上言ってることだから、あまり酷くなったら専門の医者に行くべきよ。でもおそらくそこまで酷くはないでしょう。サトミさんのことは中田から聞いていたの。かなり辛い別れだったんでしょ?」


「はい、でも僕はさっきまでサトミの事を完全に忘れていました。そのほうが楽だったかもしれません」


「だから私も言おうかどうか迷ったの。でもサトミさんのことを忘れたトミーちゃんは、とても危険な人に見えたわ」


「危険・・・ですか?」


「本来のあなたは、臆病でそのぶん用心深い人だと思うの。自分の弱さを知っているから、その弱さを補うためにもう一人の自分を作ったのね」


 ・・・もう一人の自分。弱い私が怯えている間にいつも作戦を考えていた、冷静なもうひとりの私。


「でもそれは、もともとどっちもトミーちゃんの性質なのよ。乖離させちゃいけないの。トミーちゃんは臆病な自分を殺そうとしていたわ。そしてそれはサトミさんを愛したトミーちゃんだったの」


 そういえば、ゴールのあの宿でサトミを必死で口説き落とそうとしていたとき。

 いつも冷静に作戦を考える私は、途中でどこかに消えてしまいました。


 さらに思い出しました。オーンに迫られたあのとき、サトミの声が聞こえたような気がしました。

 あれは、臆病で用心深い私が発する警戒信号だったのでしょう。

 しかしその後の私は、その警戒信号を発する弱い自分を心の奥に封じ込めた。


 ・・・だからサトミのことを忘れてしまっていたんだ。


「冷静で怖い物を知らない、強いトミーちゃんが人格のすべてになったら、どんな危険にでも平気で飛び込むようになるでしょうね。それじゃ長生きはできないわ」


 静子さんという人はいったいどういう人なのでしょう?

 私の心の奥底にぐいぐい迫ってくる。

 そしてなぜか頼りたくなるこの感じは、まるでカッサバ先生のようです。


「トミーちゃん、あなた日本を出てからまだ1年にもならないわよね」


「はい。まだ半年そこそこだと思います」


「じゃあまだ間に合うわ。私や中田みたいになったらもう手遅れ」


 ・・・中田さんや、静子さんは手遅れってどういう意味なんだろう?


「トミーちゃん。バンコクに戻ったら、中田に暇をもらって日本に帰りなさい。日本に帰って、そうね・・最低1年くらいは外国に出ないようにしなさい。日本で何か地に足の着いた仕事をするの。日本での日常をとり戻すのよ。それであなたは救われると思うわ」


「僕は救われるんですか?」


 あはは・・・と静子さんは珍しく声を上げて笑いました。


「救われるって言っても、私はキリストやブッダじゃないもん。今の問題からだけね。人生はまだまだこれからですもの。新しい悩みはいくらでも出て来るわよ」


 静子さんはそう言いましたが、私は今この瞬間にもすでに救われたような気がしていました。

 それほど気が楽になっていたのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ