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逃走と潜伏

 それからの私は、追手に注意しながら湖周辺の林の中を歩きました。

 かなり大きな湖でしたので、このように移動すれば敵に見つかる危険が軽減されると判断したからです。


 しばらく歩くと、林の外に道路や集落がある地点に出ました。

 しかし、集落には追手がかかっている可能性がありそうなので、林の中から警戒して様子を伺います。

 やがて集落から1台のトゥクトゥクが出てきました。


 ・・・ルアンか?


 一瞬そう思いましたが、運転手は年配の男です。

 私は林から飛び出し、トゥクトゥクの前に立ちふさがって止めました。


 運転手はいきなり目の前に、水浸しで体中に草や藻屑をくっ付けた男が飛び出してきたのですから、さぞや驚いたことでしょう。


「すまん、乗せてくれ」


 私は言いましたが、なにしろこの身なりです。


「おいおい勘弁してくれよ、座席が汚れて商売にならなくなるよ」


 年配の運転手はそう言いました。まあ当然の反応でしょう。

 しかし、そもそもここがどこかも分からないし、次にタクシーが拾えるのはいつになるかも分かりません。

 とにかく食い下がります。

 私は、カーゴパンツのポケットから濡れて張り付いた札の束を取り出し、1000バーツ紙幣を慎重に引きはがすと、トゥクトゥクのフロントガラスに貼り付けました。


「これで十分だろ?この住所まで頼むよ」


 私は静子さんの名刺を運転手に手渡しました。

 ホテルに戻るのは危険だと思ったからです。

 タイ語の名刺は濡れてインクが滲んでいましたが、運転手は目を凝らして頑張ってなんとか解読したようです。


「わかった。乗れよ」

 さすが1000バーツ札の威力。


 ・・・それにしても殺されかけたうえに合わせて9000バーツの出費だよ。腹立つなあ。。


 命が助かると今度は金が惜しくなってくるのですから、人間はまさに現金なものです。


 山道を走る道々でも、他の車などが通るたびに緊張が走りました。

 しかし幸いなことに敵の車に出くわすことなく、無事に静子さんの工房に到着しました。

 トゥクトゥクを降りると、事務所に向かいます。


「あら、トミーちゃん。今日は個性的なファッションね。水も滴る良い男とか気取ってる?」


 静子さんは私を見るなり、そんな冗談を言いました。


「いや、ちょっとチンピラと揉めて湖に沈められそうになったんです」


 私がそう言うと、さすがの静子さんもちょっと驚いたようで


「あら、それは大変。オーム、トミーちゃんに何か着替えを出してあげて」


 シャワーを浴びて、オームが用意してくれた肌触りの良い手織り綿の服に着替えると、ようやく緊張がほぐれました。

 着替え終わって事務所の座布団に座って休んでいると、オームが今度はお茶を持ってきてくれました。

 暖かいお茶です。

 オームはどう見ても子供なのですが、こういう気の配りかたが並の子供ではありません。

 静子さんはいったいどういう風に教育しているんだろう?


「トミーちゃん、無茶するわねえ。そんな悪質なトゥクトゥクの誘いに乗っちゃダメよ」


 事務所で静子さんに説教されています。


「はあ、面目ないです」


「日本から来るツーリストはタイはのんびりしていて人もいいし、安全だみたいなこと言うんだけどね、殺人事件の発生件数は日本の12倍もあるのよ」


「へえ、そうなんですか」


「ここチェンマイで謎の水死体や腐乱死体になった日本人だって、ひとりやふたりじゃない。もちろん事件は未解決のまま」


「もう少しでそのひとりになるところでしたね」


 その言葉を聞くと静子さんは目を細めて、しばらく私の顔をじっと見つめてから、ふたたび口を開きました。


「・・・トミーちゃん、あなたちょっと変ね。心がどこか壊れてるんじゃない?」


 ・・・?


「アブないわよ。トミーちゃん、このままじゃあなた死んじゃうよ」


 ・・・??


「とにかく今夜はここに泊まりなさい。ホテルに戻るのは危険だわ」


「いや、でも荷物を取りに行ってチェックアウトしなきゃ」


「あなたの泊まっているホテルなら大丈夫。私が電話して荷物を届けさせるから。トミーちゃんはここで休んでなさい」


 静子さんも中田さんに劣らずあちこちにコネクションを持っているようです。


 夕食時までまだ時間があったので、私は庭に出てウロウロと歩き回ります。

 そしてふと、思いついて空手の型を演じました。バッサイ大です。


 ・・・今回は完全に空手が僕の身を守ってくれたな。なんのかんの言っても、僕の身体には空手がちゃんと息づいていたんだな。


 型をひととおり終えた私は、今度は庭の木の枝に向かって蹴りを放ちます。

 低い枝から、高い枝へ、回し蹴り、後ろ回し蹴り。連続で木の葉を蹴り落とします。


 ふと気が付くと、私の稽古をオームが興味深そうに見ていました。


「あれ、オーム。空手が面白いのかい?」


 オームはにっこり笑って答えます。


「ええ、トミー。トミーの空手はとてもきれいだわ」


「ありがとうオーム。先生には僕の空手はきれいなだけで強くないって言われてるんだけどね」


「そうなの?トミーは強くないの?」


「さあ、どうだろうね?」


 ・・・ちょっと考えてから話をつづけます。


「でも勝負には負けたことが無い。どんな恐ろしい強敵にも一度もだ。先生が間違えている。僕は強いんだ」


 すると事務所の建物の方から声がしました。


「それはどうかしらね?」静子さんです。


「トミーちゃん、晩御飯の時間よ。オームも一緒にいらっしゃい」

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― 新着の感想 ―
[一言]  危うい状態に自覚がないのですね……さんざん弱いと自覚していたトミーが強さを口にする程とは……
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