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肌寒かった朝など嘘だったかのように、太陽が照りつける中、私達の大学はいつもと違うエネルギッシュな雰囲気に包まれていた。今日は、学園祭だ。
結局私は、あの土曜日以来、乾峨玖の本が好きらしい彼とは会っていない。彼らしき人にも話しかけられていない。
大学では常に周りを意識して、彼が働いているらしいコンビニには立ち寄らないようにしていたから、正直拍子抜けしてしまった。
「あー! 未来、こんなとこにいた!!」
突然後ろから大きな声が聞こえてきて、思わず唐揚げの入った紙コップを落としそうになった。
「おー、ユキナ。どしたん?」
「どしたん? じゃないわ! もうリハの時間だよ!」
唐揚げが無事でホッとしていた私の前に現れたのは、明るい金髪を高く1つに結んだ女の子だ。
私よりも頭1つ分背が高い女の子は、私の隣で焼き鳥を食べていた河野さんに用事があったようだ。
「え、リハって13時からじゃなかった?」
「それは3年生! 私ら1年は12時半からだよ!」
「えっマジ?」
河野さんはダンスサークルに入っているらしい。今日の学園祭でもサークルの仲間とダンスを披露すると言っていた。リハーサルが13時からで、それまでは暇になるからと、私は河野さんと一緒に学園祭を回っていた。が、話を聞く限り、河野さんはリハーサルの時間を勘違いしていたようだ。
「え、待って待って待って! マジごめん! 加菜ちゃんもごめんね! 私行かなきゃ! あ、これ、あげる!」
「えっ」
「お騒がせしてすんません! ちょっとこいつ借りてきます!」
「あ、いえ」
嵐が過ぎ去った後とは、この事を言うのだろう。
慌ただしく走り去っていった2人を見送ると、途端に周囲の喧騒がはっきりと感じられる。
河野さんはサークルのリハーサル。田辺さんは、朝から実行委員会の仕事に駆り出されている。
1人残された私は、自分の唐揚げと、河野さんからもらってしまった焼き鳥を見つめて、小さく息をつく。とりあえず、どこか座れる場所に行こう。
学外からも人が訪れる学園祭の今日は、どこに行っても人でいっぱいだ。座れる場所などないだろうと思っていたけれど、飲食スペースになっている食堂は意外と空いていた。
外が見える窓際の席に座って、外を眺めながら唐揚げと焼き鳥をつまむ。
普段は学生や教授だけの学内には、目をキラキラ輝かせた高校生や、心から楽しそうに笑う地域住民が集っている。老若男女様々な人が、学内にいる。人が、たくさんいる。
もし、私1人が抜けたら、誰か気付く人はいるだろうか。誰も、気付くことはないのではないだろうか。帰っても、ばれることはないのではないか。
ああ、駄目だ。1人になると、頭の中は余計なことでいっぱいになる。
帰ることはできない。
この後は河野さんのダンスを見に行く約束をしている。15時過ぎには解放されるらしい田辺さんとは、その後一緒に回る約束をしている。
帰ることは、出来ない。
‥‥‥でも、もし、万が一に、私が帰ったとして、河野さんは私が見に行かなかったことに気付くだろうか。これ程たくさんの人で賑わう中、私ただ1人がいないことに、果たして気付くだろうか。
体調が悪くなったことにすれば、田辺さんも許してくれるのではないか。そもそも、本当に15時を過ぎれば田辺さんは解放されるのだろうか。もしかしたら彼女の友達と回る可能性もあるのではないか。
私はここにいなければならないのだろうか。いなくても、誰も困らないのではないか。それなら、帰っても何も‥‥‥。
「あれ、篠崎さん?」
低すぎず、高すぎもしない、安定した声音が、突然背中にぶつかってきて、静まりかえっていた脳内に喧騒が入り込んできた。
後ろを振り向くと、そこには紫地に白いインクで、何とも言い難い顔をした猫、のようなものが描かれたTシャツを来た男の人が立っていた。猫、のようなものの下には、これまた白いインクで何やら文字が書かれている。
「‥‥‥えい、け、ん、だよー‥‥‥?」
「はは、やっぱ変ですよね、このTシャツ」
「え‥‥‥あっ違うんです!」
文字が目に入ると読んでしまうのは、私の悪い癖だ。
1人の時間に、囚われた思考が急激に引き上げられたことで、仮面を正常に付け直すことができなかった。
「えっと、いい味が出てて、その、いいと思います!」
Tシャツのデザインは、一般的に見てどう捉えられるものなのか分からない。
咄嗟に取り繕って、仮面を無理矢理被り直してから、今の反応はおかしくなかったか気になってしまう。
「いいですよ、気を使わなくても。実際変なデザインだし。あ、隣いいですか?」
「はい」
だけど、紫色のTシャツを着た彼は、冷や汗を滲ませる私の心に気付いていない様子だった。
そっと息を吐き出して、自然な流れで私の隣に腰掛けてきた彼の顔を伺う。けれど、そうしたところで、いつもと違う結果になるわけではない。
結局隣に腰掛けた彼が誰なのか分からないまま、私は目を正面に戻す。
一旦ここで区切ります。




