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驚きに大きくさせた目を向けられた私は、必死で脳みそを動かす。でも、何が間違っていたのか、全くわからない。
ただ分かることは、間違えてしまった質問を取り消すことはできないという事だけ。
この後、名前を知らない彼が、私の仮面に気付くことになるのかわからない。だけど、私はこの時、もう仮面は気付かれてしまうものだと思っていた。
「あー、うん、そうか、そうだった」
私に向けていた目を逸らした彼は、気まずそうに右手で首を搔いて、1人何かに納得した様子だ。
「すみません。俺、乾峨玖が好きなんですけど、俺の周りで乾峨玖を読んでる奴がいないんです。本当は感想を言い合ってみたいんですけど、友人に勧めても、誰も読んでくれないんです。そもそも俺の周りで本を読む奴がいないんで、本の話をできた試しがないんですけど」
それは、私もよく分かる。
今も、高校以前も、私の周りの人も、本を読む人ではない。
だけど、私と彼では、決定的に違っていることが3つある。
1つは、彼には本を勧めることのできる友人がいること。
もう1つは、彼は読んだ本の感想を共有したいと思っているだろうこと。
そして、彼は本を読むことを、本が好きなことを、周りに隠していないこと。私と違って、ありのままの姿でいること。
きっと、私とは全く違う世界を生きてきたのだろう。
「だから、日曜に篠崎さんを書店で見た時、ちょっとびっくりしたんです。同じ学生で、新刊を何冊も抱えてレジに並んでいたんで。きっとこの人は本が好きなんだなって、その時分かったんです。勿論、乾峨玖の本を持っていることも、その時に気付きました」
「えっ」
彼が足を止めて、私の足も必然的に止まる。
「驚きました? 実は、俺も日曜にあの書店に行ったんですよ。目的は勿論、乾峨玖の新刊です」
少し高い位置から私を見下ろす彼は、何故だか申し訳なさそうな顔をしていた。
「篠崎さんが乾峨玖の本を買っていたと知ってたのは、そういうわけです。きちんと説明しないせいで、怖がらせてすみません」
「え、あの、顔を上げてください。全然、怖いとは思っていませんよ。えっと、少し驚きは、しましたけど。本当に、怖いとは思ってませんから」
怖がっている、と思われるような表情をしていたのだろうか。
なるべく普通であるように、ただ不思議そうな顔になるように意識したのに。
声も、疑問が自然と口をついて出た、と感じるように意識をしたつもりだったのに。
怖がっているではなくて、ただ不思議に思っていると、自然と疑問を持ったという印象を与えるように意識したのに。
脳内で繰り広げられる焦りを、目の前の彼に感じさせないように、一層注意して顔を作る。仮面を直す。
「そうでしたか。よかったです」
顔を上げた彼は、下げる前と似たような、あまり変わらない表情だった。彼がどう受け止めたのか、分からない。
「それで、個人的に篠崎さんのことは知っていたので、篠崎さんも乾峨玖を読まれるなら、是非話してみたいと思ってたんです」
「そうだったんですね」
彼が個人的に、ということは、私は彼を知らないということでいいのだろう。少し、心が軽くなる。
「なんで、もし良ければ、また時間がある時に話しかけてもいいですか?」
「? はい。大丈夫ですよ」
よく分からないけれど、今日は本の話をしないのだろう。
何故、彼はまた私に会うと確信しているのか分からないけれど、それは表に出さない。表に出しても大丈夫な疑問しかださない。
「それ。あまり長く持ち歩かない方がいいですよね」
「! そうですね。ありがとうございます」
今度は、正しく表情を作れていたようだ。
彼が私の荷物を指差して、理解した。さっき、私は生物があるからと、彼との話を切り上げようとしていた。
「じゃあ、俺はこっちの方なんで。また大学で会った時は、よろしくお願いします」
「あ、はい」
私は話を切り上げたくて生物があると言った。けれど、生物があるというのは嘘ではない。早く家に帰って、冷蔵庫にいれなければならない。
だから、私は少し早足になる。
心のどこかでは、彼とこれ以上会話を続けることがなくなってよかったと安心しているのに、簡単にそれを受け止めることのできない自分もいる。
数分でアパートに辿り着き、鍵を開けて中に入る。
ドアを開けた瞬間、ヒヤリとした空気が身を包む。冷房をつけたまま出掛けてしまったと、誰もいない室内で眉を寄せる。
もういいだろうと、冷房を切って、買ってきた食材を一旦冷蔵庫にしまい、洗面所で手を洗う。
いつもならそのまま食材を加工して、冷凍保存なり冷蔵保存なりするけれど、今日はその気力がない。昼ごはんも、食べる気力がない。
本棚から1冊、目についた本を取り出して、椅子に座り、本を開く。
いつもならそのまま文字の世界に入ってしまえるのに、今日は心に張った靄のようなものが邪魔をしてくる。
仕方がなく本を置いて、靄を振り払うように息を吐き出す。
「めんどくさ」
小さく溢れてしまった悪態は、誰もいないアパートの一室では誰にも聞かれることがない。
それなのに、誰かに聞かれはしなかっただろうかと、心臓が早鐘を鳴らす。
シンと静まり返った部屋からは、私以外誰の気配も感じられない。
今度はホッと小さく息を吐き、心の中でぼやく。
(面倒臭い。知らない人と、話をしなければならないなんて)
例えそれが本の話であっても、面倒なことは変わらない。
それに、少し話しただけだったのに、私は彼と合わないだろうと感じていた。彼と私は別世界に生きる住人なのだろうと感じていた。
彼は最後に、「大学で」と言っていた。
そう言うからには、同じ大学に通う学生なのだろう。
明後日から、大学に行く憂鬱が増える。
名前を知らない、顔も朧げな人間を警戒しなければならない。
(本当、面倒臭い)




