第355話 温泉計画未定
腕を組みながら感心している端鯨に、彼雁は「え?」と声を上げた。
「何言ってんですか。二年前の長期休暇で行ったときに父を紹介したでしょ?」
端鯨はきょとんとした表情になった。
数秒経過してから、ハッと目を見開く。
「そうだった、すまない、一瞬忘れてたみたいだ」
そして口元に手を添えて、「……っ!」と小さく声を上げて、苦いモノを飲んだような表情になる。
「なら今回も一緒にいきましょうよ。折角だから姉たちに相棒として紹介したいです。どうですか? 料金割引もつけますよ」
彼雁が期待した眼差しを向けると、端鯨は手を離した。少しだけ口角を上げて目を細める。
「またの機会にさせてもらおう」
「そうですか……」
ガッカリして声のトーンが下がった彼雁を視界に留めながら、端鯨は顎をゆっくりと触り、にたり、と笑った。
「温泉もいいな。実家……から一番近い場所に『若返りの泉』がある。全く行ってなかったのでこの機会に行ってみようか」
若返りの泉は温泉施設の名である。
地下から吹き出す湯に神力が溶け込んでおり、傷の治療に効果的である。特に肌艶がよくなる効果が高いため美人の湯として有名だ。そのため章都と糸崎が盛大に食いついた。
「おおお! いいな! ユッキー、今回の旅行は若返りの泉にするか?」
「そこにしましょう!」
「ん? お前さん方もくるのか? だったら現地で合流とかどうかね?」
端鯨が意気揚々と二人の話題に割り込んだ。
普段ならあり得ないセリフなので彼雁が驚きすぎて口を開ける。
「端鯨さんに教えるの嫌だけど」
糸崎が表情を歪めると、端鯨は「それもそうか」とあっさりと引き下がった。そして口元を手で隠しながら「残念」と呟き、目を閉じて無表情になる。
「日程は未定だし、ユッキーが嫌がってるから約束できねぇぜ。だが万が一にあっちで会えたら、一緒に酒盛りくらいならしてやるよ!」
章都が提案すると、端鯨は手で眉間を押さえて渋い表情をしていた。嫌がっていると感じた章都は、眉間にしわを寄せて不満を表す。
「なんだよ。ワタシと酒飲めないってことか?」
「いえ……すみません。少し前から頭痛がしていて……話が途切れ途切れで。その、なんでしたっけ」
端鯨の顔色が悪くなっていた。息も荒く、このまま倒れてしまうのではないかと思えるほど体が揺れていた。先ほどの明るさとは打って変わっているため、三人は唖然とする。
「おい端鯨、アンタは若返りじゃなくて健やかな方にいけ!」
章都がビシッと端鯨を指差ししながら促すと、糸崎がすぐに同意する。
「そうね。ずっと体調悪いようだし、リフレッシュしてきたら?」
端鯨はゆっくりと頷いた。ふらつきは収まっているが、頭が痛いのか手で片目を押えている。
「……温泉。そうだ、温泉の話でした。えーと、健やかな泉は彼雁と行ったのが最後だった。そうだ彼雁、折角だから休暇中に一緒に行ってみるか?」
先ほど断ったにも関わらず彼雁を誘ったので、章都が「おいおい、心変わりが早いな」と笑い飛ばす。
端鯨は「え?」と不思議そうに声を上げたものの、「それはすまなかった」と彼雁に頭を下げた。
彼雁は奇妙な引っ掛かりを覚えて表情を曇らせる。
「あの……会話はどこまで覚えていますか?」
「ん? 彼雁の父親が亡くなった話と、健やかな泉の経営をしているのが姉たちという話だったかな」
「おい、あとワタシたちの温泉旅行についていこうとしたことも言えよ」
悪い顔をしながら章都が付け加えると、端鯨がビクッと肩を揺らして恐れおののいたような顔になる。
「いや無理です」
「なんだよー。さっきはノリノリだったくせに」
「絶対に無理です」
今度は顔色を青くして、首を左右に振って拒否する端鯨。
いつもの光景を眺めながら、彼雁は先ほどの違和感は気のせいだと思い直した。
「端鯨さん、温泉旅行に行きましょう。若返りの泉だけではなく他も寄って。有名温泉巡りとかどうでしょう」
有名な温泉地として挙げられる場所は、以下の四つだ。
真北にある知識の泉。疲労回復に絶大な効果があるため幅広い年齢に好まれる温泉である。
真南にある徳水八選。お湯の色が八種類あり、香りや効能が違うため、特に家族連れに人気がある。
東方にあるおちみず。若返りに効果があるとされる炭酸温泉で、くすみや皺が薄くなり肌艶が良くなることから、女性に絶大な人気を誇る。
西方にあるステュクスの泉。疲労回復と頑丈な体にしてくれる効果をもち、頭皮にも良いとされているため、男性に人気である。
端鯨は苦笑して「どれも名湯だから迷う」と呟くと、彼雁が「ですね」と頷いた。
「だったら有名どころは一つにして、あとは有名じゃない温泉巡りとかどうですか? 名湯の周囲には小さな温泉町が沢山ありますから」
「その流れも良いな!」
「ええ、いいわね」
章都と糸崎が好反応を示した。
彼雁は端鯨の反応を確認するため目を向けると、彼は再び険しい表情をして手で頭を押えていた。激しい頭痛が発生しているのかと心配になって声をかける。
「端鯨さん大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫、だ……」
「そう言いますが、調子の悪い時が増えている気がします。何か病があるんじゃ……」
端鯨が手を下ろして「心配させてすまない」と謝った。
「一応、病院にはかかっているが原因不明で……。肉体に問題はないから、精神的なものだろうと言われている」
「そっかー。繊細なんだなぁ。じゃあ酒に逃げようぜ! 飲んでる間は嫌なこと忘れてハッピーになればいいさ」
章都が適当なことを言い始めると、三人はスンとした顔になった。
「一番駄目なやつじゃない」
「自分もそう思います」
「俺も酒はダメだと思います」
全員から反論を受けた章都がムッとした顔で黙る。
会話が無くなるとオフィスが静かになった。紙をめくる音やキーボードを打つ音が響く。
一度会話が止まると、各々が再び仕事に戻る。
糸崎は椅子に座り直し、彼雁は端鯨に向き直る。
作業を再開した矢先、ガチャリ、とドアが開いて磐倉が入ってきた。
彼は折襟のチェスターコートに黒いスキニージーンズ姿。左肩にボディショルダーバックをかけて、手には大きな土産袋を握りしめている。
職員たちが驚いて目を丸くすると、磐倉はオフィスを見渡した。
「ただいま戻りました」
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次回は10/22更新です
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