第36話 いろんな意味で恐怖を覚える
「鍵あったーーー! 財布合ったーーー! これで家に帰れる!」
きっとスマホは家に忘れてきたのだろう。
「これは、また今度」
整えた書類を、スペースの開いた引き出しに丁寧に入れた。
そしてくるっと玉谷に向き直ると、ぺこっとお辞儀をする。
「じゃぁ部長、また明日……明後日かな! 何時までに入ったらいいですか?」
「朝の八時半だ」
「了解です! ではお先に失礼します! そちらの方々もお先に失礼します!」
「!?」
彼雁と端鯨にお辞儀をしたらドン引きされたが、息吹戸はルンルン気分で職場を後にした。
いつの世でも、仕事が終わるとテンションがあがるものだ。
息吹戸の足音が遠ざかって、「やれやれ……」と、玉谷が頭を掻きながら自分のデスクに戻る。
部下たちは今見た事が信じられないのか、頬をつまんだり叩いたりして現実かどうか確認している。
「幻じゃない!」
現実だと分かった彼雁は、滑りそうな勢いで玉谷の傍に寄ってきた。恐れてビクビクしながらドアを指し示す。
「ああああ、あの、部長。息吹戸さんの様子、凄く変じゃ……」
その声が気つけになったのか、端鯨が勢いよく玉谷に振り返った。極寒の地から生還した人のように顎を小刻みに動かしている。
「どどどど怒鳴らないししししなな殴ってこないししししい、息吹戸、ですよねねねあれ」
どんな凶悪な禍神と対じしても決して怯まない部下たちが、ここまで挙動不審になるとは。と玉谷は呆れた様に交互に二人に視線を向ける。
「息吹戸は記憶喪失になっとる」
二人は「はあ!?」と戸惑いと驚きの声をあげた。
「いやでも、彼女は記憶喪失何回かやってますけど、あんなに大人しいことなかったじゃないですか!!? 根本的性格はそのままでしたよ!?」
と、直ぐに否定する彼雁。
そのとおりだったので、玉谷も「それは……そうだが」と口ごもる。
「本人はなんて言っていますか?」
若干落ち着きを取り戻した端鯨が口を開いた。
呪詛の影響で記憶が欠落することは多々ある。討伐対策部に所属する者は強力な力の直撃を受け、記憶を失ってしまう経験が何度かある。
息吹戸の記憶喪失頻度は多いが、それでも『~が欠けてしまった』とか『その辺の事が抜け落ちている』程度である。思い出せない苛立ちを他者にぶつけていたが、隠すことはしなかった。
今回もそのパターンだと思い、端鯨は訊ねたのだが、玉谷が困った様に腕を組んだので、二人は眉を潜める。
「息吹戸ではない。別人だ。と言っていたが」
「別人……。誰かの魂が息吹戸の体に宿ったということでしょうか? でもそれは……」
端鯨の考えは最悪のパターンであった。玉谷はすぐに一蹴する。
「いや、それはないだろう。オーラは息吹戸そのものだ」
溢れだす生命エネルギーは彼女特有の力強さと癖があり、偽物ではないと確信できる。
「確かにそうですね。息吹戸さんで間違いないと断言できます」
彼雁は自信をもって玉谷に同意してから、それに、と続ける。
「別人だとすると、息吹戸さんの魂が消滅したって言ってるようなもんですし。彼女をどうにか出来るなんて、禍神でも困難ですよね!」
端鯨はポンと手を打った。
「それもそうだ! カミナシで最強女王様に敵はなし!」
あはははと二人の笑う姿をみた玉谷は、綻んだ表情を浮かべた。
笑い終わった端鯨は額に手を当てる。
「しかし。あの様子だと業務に支障がでるのでは?」
「それもそうですね。女王様の抱えている案件は俺らの実力じゃ足元にも及ばないし。部長、いつ頃記憶が戻るのか予想出来ますか?」
「ううむ。見ての通り、あれは強力な呪詛だろう。西側の部署にいる磐倉を呼ぼうとは思っているが……、あっちの案件が済み次第だから、一か月以上はかかるのお」
端鯨が「ん?」と声をだす。
「磐倉さんに頼むという事は、もしや魂が別人とお考えで?」
玉谷の眉間に深い皺が寄った。
「念のためだ。磐倉ならば、息吹戸がどのような状態になっているか、正しく『知る』事が出来る」
「そうですね。自然に解除されるのを待つよりも、磐倉先輩に頼む方が早いかもしれません」
彼雁がそう進言する。
磐倉は過去が見える能力を持っている。生まれてから今に至る時間から前世の状態も見通せる上、過去に通っていない道筋の先も見る事が出来る菩総日神の血を濃く受け継ぐ一人でもあった。
記憶喪失・魂欠如の回復、転化解除とといった特殊技能にも特化しており、カミナシだけではなく、アメミットですら引っ張りだこになっている。常に転勤状態なので、所属地が本部だということも忘れそうなほどだ。
端鯨は「そうだな!」と相槌を打つ。
玉谷は彼らを見つめた。
「今回は本部一課のメンバー以外に、息吹戸の状態を漏らさないようにしろ。変な輩にそそのかされて、敵に回ってしまう可能性がある」
と注意事項が付け加えられた。
重々しい口調から、彼が楽観視していないと感じ取る。デスクの行動を思い出し、端鯨と彼雁は「承知しました」と頷いた。
玉谷はついでにと、もう一つ念を押す。
「息吹戸は一般常識すら忘れているから、聞かれたら教えてやってほしい」
「ん!」
「うえ……」
二人同時に拒否反応を示した。
心底彼女に関わりたくない彼らは「精励します」と渋々承諾した。
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