長男と次男の、はた迷惑な兄弟喧嘩15
「若、大丈夫ですか?」
部下の男に肩を揺さぶられ、次男は目を覚ました。
「う、みんな無事か?」
次男にいつものような元気はなく、声に覇気もない。
ひどい状態になった車内に横たわりながら、次男は集まった部下たちを見回す。
「はい、我々は体が丈夫なことが取り柄ですから」
運転手の部下が茶化すように言う。
「そのために雇われているのですからね」
助手席にいた部下が合いの手入れる。
すり傷こそあるものの、にっこりと笑う部下達を見て、次男は胸をなで下ろす。
「そうか。それは良かった」
深緑の目を細める。
頭を持ち上げようとすると、鈍い痛みが走る。
思わず次男は頭を押さえ、シートに倒れる。
「若、頭を怪我していらっしゃるんですから、大人しくしていないと駄目ですよ」
「大丈夫です。追手は駆けつけた我々が仕留めましたから」
「若はもう何も心配することはないのです」
「だからどうか今は安静にしていて下さい」
「もうすぐ医者が到着するはずですから」
部下達の元気づけるような言葉に、次男は包帯が巻かれ鈍く痛む頭を押さえたまま応じる。
「それで、彼女は、オリガはどこにいるんだい? 彼女は怪我は大丈夫かい?」
次男が尋ねると、部下は一様に黙り込む。
気まずげに目配せをする。
「オリガ様のことは、私からお話ししましょう」
部下達の取りまとめ役である中年の男が次男の前に進み出る。
「イーゴリか。おれが気を失っている間、何があった? オリガに何かあったのか?」
次男は車のシートの上に起き上がり、真っ直ぐに中年の男を見据える。
中年の男は声を落とし、答える。
「まことに申しあげにくいのですが、オリガ様は」
「まさか、兄貴に連れ去られた、とかはないよな」
次男は笑おうとした。
しかしそんな元気はなかった。
中年の男はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。オリガ様は、我らが目を離した隙に、車内へ逃げ出されたのです。けれど、目が不自由のため、河が流れていることに気付かれなかったのでしょう。そのまま足を滑らせて、河に落ちてしまわれたのです。上流の気温が高かったために、河は増水していて、流れは速かったのです。助けようとしたのですが、それは叶いませんでした。オリガ様はそのまま河に流されてしまいました」
中年の男は淡々と話す。
次男は額に手を当てる。
「そうか」
絞り出すような声でつぶやく。
「河の周囲を引き続き捜索させていますが、オリガ様の行方は依然わかっていません」
「うん、わかった。ご苦労だったね」
次男は努めて平静に答える。シートに横たわる。
「この件と、事故の処理は頼む。あと、今回の件に関わった人物の割り出しも頼めるかい?」
シートに仰向けに横たわり、顔に手を当てながら言う。
「承知いたしました」
中年の男は一礼する。
部下の男たちを伴って離れる。
小声でつぶやく。
「若は今お一人になりたいそうだ。そっとして差し上げよう」
部下の男たちが同情の視線を送り、去っていく。
シートにもたれながら、次男は壊れた車の天井を見上げる。
震える声でささやく。
「ごめん、伯父さん、伯母さん。おれは伯父さんたちに受けた恩を返せなかった。オリガだけは助けられると思ったのに、駄目だった。おれが不甲斐ないばかりに、ごめん」
熱い涙が一筋頬を伝った。
壊れた車の天井から見える灰色の空からは、雪が降り続いていた。
*
姉は深い雪の中を歩いていた。
どのくらい歩いているのかわからなくなるくらいずっと、姉は歩き続けている。
あの時、遠くからは姉が雪ごと河に滑り落ちたように見えただろう。
現にあの時は姉も雪の塊と一緒に河に落ちた。
河の冷たい水に膝までつかりながらも、浅瀬に落ちた姉は河に流されることなく川岸に戻ることが出来た。
それは幸運と言っていいことだった。
それから姉はずっと河に添った道を歩き続けている。
道と言っても雪に埋もれ、道などとはとても言えないものだったが。
人の声が聞こえたら、河原に身をひそめやり過ごし、周りに神経を集中させ、慎重に進んでいた。
身を切るような寒さが体の芯まで冷やし、足が鉛のように重く感じられる。
歩くのをやめたら、そのまま眠ってしまいそうだった。
眠れば凍死してしまうことくらい、姉にもわかっていた。
歩き続ける以外、姉が生き残る方法はない。
辺りは雪が絶え間なく降り続き、音もなく静まり返っている。
姉は無心に足を動かし、自分の足音と河の音だけを頼りに歩いている。
ついには足を上げることも出来ないくらい疲れ果て、雪の上にしゃがみ込む。
深い雪の中に埋まりながら、口からは氷のように冷たい吐息しか出て来ない。
姉の脳裏には、弟と別れた時の言葉がよぎる。
弟の悲しげな声が胸を締め付ける。
――ごめんね、デニス。折角あなたが逃がしてくれたのに。
最早声を上げる気力も、泣く力も残っていない。
姉は弟のことを思い、力なく笑う。
そして姉を助けてくれた次男とその部下たちのことを思った。
――こうなるとわかっていれば、あの人にもう少し親切にしてあげれば良かった。あの人はわたしを助けようとしてくれたのだもの。アレクセイさんには悪いことをしてしまったわ。
姉は次男やその部下たちの無事を心の中で祈る。
長い息を吐き出し、雪の中に倒れる。
もう冷たさも何も感じず、体も動かない。
姉は雪の中で意識を手放した。