秋夜の訪れと、語られぬ優しさ
新入隊員の歓迎会が荒唐無稽な形で徹底的に台無しになった後、伊織は鉛を流し込まれたかのような重い身体を引きずり、保護施設に割り当てられた自身の個室へと戻った。
部屋はだだっ広く、殺風景で、昭和の時代を思わせる古びた木造建築の佇まいを残していた。
彼女は手短にシャワーを浴びて、全身に染み付いた油煙と硝煙の疲労を洗い流し、だぶだぶとした灰色の部屋着へと身を包んだ。
髪を乾かした後、その華奢な身体を柔らかな布団へと沈め、冷たく細い指先で、先ほど冷やしてもらったばかりの愛らしい舌先を、どこか名残惜しそうにそっと確かめた。
そこにはまだ、白峰凛花の指先が残した極めて微かな氷霜の冷たさと……そして、密かに舌先で舐め上げたときの触感が、確かに残っているようだった。
あの高嶺の花のような女性から向けられた一度きりの優しさ。たとえそれがほんの数秒のことだったとしても、その甘やかさは、伊織が無辺の悪夢の中で生き延びるための確かな糧となる。
もっとも、彼女自身が誰よりも分かっていた――今の白峰凛花は自分のことなど覚えておらず、かつて自分が一方的に心に刻んだあの一筋の慈雨も、こうして自らの魂の最深部に永遠に沈め、決して答えを求めてはならない秘密にするしかないのだと。
彷徨う思考を引き戻し、少女の瞳の奥に冷徹な警戒が戻る。
片思いの苦さよりも、彼女が今気に留めているのは、あのそばかすの少女が危険を冒してまで自分に近づいてきた真の目的だった。あれほど恐ろしい龍息を突きつけられてなお、奴らは本気で諦めてなどいない。
自分がこの巨大な陰謀の網の中で、是が非でも手に入れるべき獲物として狙われていることなど、伊織にとっては想定外ですら何でもなかった。
なぜなら、『栄光の帳簿』に刻み込まれた記録のすべては、白骨を筆として記された紛れもない鉄の証拠なのだから。
その数字が平和な後方から見ればどれほど荒唐無稽であろうと、血に飢えた凄惨な武勲が今のこの華奢で病弱な白い肢体といかに掛け離れていようと、軍の上層部はその冷酷な帳簿のデータだけを頼りに、覚醒者や溺亡者がいかほどの過酷な任務に耐えうるかを値踏みしているのだ。
煎じ詰めれば、いわゆる『栄光の帳簿』など、鮮血とホルマリンに漬け込まれた巨大なデータベースに過ぎない。
数多の人間たちの生死と戦果を克明に記録し、表向きは国を守るための「栄光」などと美名で飾られてはいるが、その行間の一文字一文字には、前線で無念のうちに散っていった無数の孤魂の怨念が滲み出ている。
そして、その怨嗟が積み上がった骸骨の頂において、伊織だけが唯一の異端だった。
人類の防衛線が総崩れとなり、彼岸の住民たちによって一方的な虐殺が行われていたあの暗黒の時代。全軍の先頭に立ち塞がったのは、未成熟な龍人の肉体を持ち、理外の蛮勇を振るう一人の少女だった。
それは決して再現することのできぬ狂瀾怒濤――黒髪に金の瞳を宿した少女は、素手で魔神や異界の精霊の分厚い肉体を幾度となく引き裂き、敵の黒い返り血を浴びながら、人類の戦士たちの絶望と怒りをその背に背負い、現世が運命に抗う最初の反撃の角笛を吹き鳴らした。
奪われた領土を一寸ずつ奪還し、彼岸の黒水が逆巻く次元の境界を跨ぎ越えて、人類の要塞を彼岸の焦土へと突き立ててみせたのだ。
だが、運命を覆した代償として、体内に巣食う二頭の凶暴な龍血は容赦なく彼女を蝕んだ。
繰り返された反撃は彼女の生命の根幹を底まで削り取り、神経回路と臓腑は龍血によって焼き焦がされては再生し、彼女を生きたまま廃棄寸前の崖っぷちへと追いやった。
いまの彼女の戦闘能力など、全盛期と比べれば天と地ほどの開きがある。
だが、たとえ赤く錆びついた凶刃であろうとも、その価値には依然として病的なまでの期待が注がれていた。
何より彼女は成長型の生体兵器であり、いつか体内の沈降率が完全に暴走したその時、遺伝子の崩壊によって果てるのか、それとも万物を統べる真の龍神へと羽化登仙を遂げるのか、誰にも予測がつかないのだから。
その底知れぬ潜在能力ゆえに、彼岸の前線において、深淵の奥底に君臨する魔神王からすら直々に手が差し伸べられたことすらあった――体内の龍血を解き放ち、完全に彼岸の神へと堕ちるならば、至高の玉座を分け与えよう、と。
だがその時、伊織は迷うことなく魔神王の軍勢を引き裂いてそれを拒絶した。理由はあまりにも他愛なく、純粋なものだった。
この現世の側に、たとえ生と死の次元を隔てようとも忘れられず、決して手放すことのできない一人の女性がいたからだ。
白峰凛花と同じ視線の高さに立ち、並んでこの世界を見渡す日を迎えるためだけに。彼女は狂犬のように戦場を駆け、命を捨てて敵を屠り、人類が奴隷へと成り果てるはずだった破滅の結末を強引に塗り替えた。
しかし、現実は息が詰まるほどに皮肉だった。
途方もない武勲を打ち立てた英雄は、肉体の酷使によって軍の上層部から「減価償却の終わった、高強度戦闘に耐えられない廃棄資材」として見限られたのだ。
一枚の辞令によって、用済みとばかりに実戦のない治安維持の小隊へと左遷された。
想い焦がれたあの人を間近で見つめられる日々を手に入れたとはいえ、本質において、彼女はただ捨てられたに過ぎなかった。
伊織は首を巡らせ、窓の外にそびえる巨大な金木犀の大樹をぼんやりと見つめた。
それはこの保護施設が建てられた当初、李先生が孤児たちのために植えてくれた、ささやかな希望の木だった。
ずっと昔、秋の気配が深まる頃になると、穏やかな方言の訛りを持つあの優しい男は、新鮮な黄金色の小花を自らの手で摘み取り、丹念に蒸し上げて甘く柔らかい桂花糕を作ったり、草木の香りを湛えた化粧水を蒸留して子どもたちに配りながら、故郷の祭りの味なのだと笑って語り聞かせてくれたものだった。
だが、生体兵器として造られた子どもたちが前線で次々と肉片となって散っていくにつれ、厨房を取り囲んで笑い合っていたあの子らは、一人、また一人と冷たい泥の中に消えていった。
いまも伊織の窓辺に届く金木犀の香りは変わらないというのに、それを小麦粉に練り込んで温かな甘味へと仕立ててくれる人は、もう誰もいなかった。
伊織は身を縮こまらせ、広々とした布団の真ん中に力なく横たわった。細い両腕で抱き枕をぎゅっと抱きしめ、布地の中に顎を埋めて、自らの置かれた境遇を麻痺した心で反芻する。
世界はいつだって理不尽なまでに残酷だ。
どれほど多くの苦難を舐め、どれほど痛めつけられてきたからといって、運命が情けをかけて一度でも勝利を恵んでくれることなどありはしない。
それどころか、呪われた現実において、あらゆる地獄を耐え忍んだ者の大半は何の救いも得られず、報われぬ絶望の果てにただ狂気に堕ちていくだけなのだ。
抱き枕から漂う清潔で乾いた香りに包まれ、少女は静かに瞳を閉じた。
……あのそばかすの少女と、一度個人的に言葉を交わすべきなのだろうか。
血脈と定義において、彼女たちは確かに同じ呪いを背負わされ、人間の社会から化け物として爪弾きにされた「同胞」なのだから。
いま自分がこの擦り切れそうな人間性の縁で踏み止まっていられるのは、凛花への細い執着という錨があるからに過ぎない。もしもその執着が砕け散ったとき、自分は本当に彼岸の龍神へと堕ちずにいられると断言できるだろうか。
その答えは、自分自身にすら分からなかった。
夜風が微かに吹き込み、窓辺の薄いレースのカーテンを揺らす。
少女は抱き枕を抱えたまま目を開けることすらせず、頬を枕へと擦り付けながら、誰もいないはずの虚空に向かって平然と言い放った。
「入りなさいよ。秋の夜風は冷えるわ。窓枠に立っていて寒くないの?」
そよ風が吹き抜け、窓辺の空気が微かに揺らぎを見せた。
次の瞬間、窓枠がかすかに軋み、ボロボロのトレンチコートを羽織った小柄な人影が、音もなく室内へと身を滑り込ませた。
「先輩は相変わらず鋭いですね……それに、意外と優しい」
そばかすの少女はフードを下ろし、パサついた赤褐色の短い髪を露わにした。黒ずんだ鼻の頭を指で擦りながら、冷や汗を拭うように舌を出す。
「さっきの龍息、魂ごと消し炭にされるかと思いましたよ。でも……先輩が土壇場で射線を外してくれたおかげで、本気で殺す気がなかったって分かりましたから」
月明かりの下、そばかすの少女の瞳は、奇妙な薄緑色のスリット状の角膜を覗かせていた。カーテンの影に触れた肌の表面には、細やかな変色角質層が微かに浮かび上がっている。
彼女に組み込まれた彼岸のキメラ遺伝子が、擬態と絶対的な隠蔽を得意とする爬虫類型魔獣に由来していることは明白だった。
伊織は布団の上に横たわったまま、起き上がろうともせず、身構えることすらしなかった。
ただ伏せた睫毛をかすかに持ち上げ、月光を反射するその緋色の瞳で、億劫そうに視線を向けた。
「あんたの背後にいる組織、今はどれほどの規模に膨れ上がっているの?」
いきなり核心を突かれたそばかすの少女は、爬虫類の瞳を警戒心に細め、探るように問い返した。
「もし私が正直に答えたら……先輩は明日の朝、あの白峰のお嬢様に私を売り渡したりしませんか?」
静まり返った寝室の空気は、数時間前の女子トイレで見せた一触即発の殺気とはまるで異なっていた。
一方は温もりを求める子猫のように気だるげに身を丸めて抱き枕を抱き込み、もう一方は刺客としての気負いをかなぐり捨てて、冷たい板張りの床の上に大股で胡坐をかいている。
世界から化け物として疎外された二人の少女は、いまやひどく無気力で、退廃的な空気を漂わせていた。
「上に報告するかどうかは、私の気分次第よ」
伊織は顔の半分を抱き枕の柔らかい綿の中に埋めたまま、抑揚のない声で呟く。
「あんたたちの組織が掲げるご立派な理念とやらも、そこにどんな正当性があるのかも、私には見当もつかないもの」
「正当性?」
そばかすの少女は口元を歪め、嘲笑を帯びた自嘲の笑みを漏らした。
「先輩は疑ってるんですね……ドブ底で息を潜めてる私たちの同胞が、自由を騙るただの犯罪者集団なんじゃないかって」
伊織はすぐには反論せず、ただ静かに彼女を見つめていた。
だが、その幼げな緋色の双眸の奥底には、百戦錬磨の果てに培われた、人間の悪意に対する透徹した洞察が宿っていた。
歴史の筋書きなど、いつの時代も使い古されたものばかりだ。
まずは「私たちは虐げられた同胞だ」と被害者意識を共有して絆を結び、絶望した者たちを同じ船に乗せる。
次いで組織的なテロや破壊活動へと駆り立て、その蛮行に「尊厳の奪還」や「正当な抵抗」という大義名分のラベルを貼る。
最後には狂信的な集団催眠に身を委ね、無関係な者たちに刃を向けることにすら歪んだ万能感を覚えていくのだ。
旧時代の文献を紐解けば、神や信仰の名を騙って聖戦を叫んだ狂信者たちが、略奪と殺戮を聖なる義務だと信じ込んでいた記録などいくらでもある。
だが結局のところ、彼らは信仰の原点など歯牙にもかけていなかった。ただ鬱屈した私欲と憎悪を撒き散らしていただけに過ぎない。
伊織は彼岸の最も凄惨な屍の山から這い上がってきた生き残りだ。
魔神の剥き出しの残虐さも、極限状態に置かれた軍上層部や人間たちが剥き出しにする醜悪なエゴも、嫌というほど見届けてきた。
安っぽい同胞意識と熱狂的なスローガンを二言三言並べ立てただけで、自分の脳髄を洗えると思っているのか。
暗がりに潜む亡命者どもは、彼女が地獄で刻んできた八年間の傷痕を、あまりにも侮りすぎていた。
「あんたの名前すら知らないのに、私が疑ったからってそんなに傷ついた顔をされても、滑稽なだけじゃない」
伊織の辛辣な突っ込みを受け、床に座っていた少女はハッと虚を突かれたように固まり、きまり悪そうに頭を掻いた――警戒のあまり、名乗りすら忘れていたのだ。
だが喉元まで出かかった言葉を飲み込み、ここで素性を明かしすぎれば治安隊の指名手配リストに載るのではないかという本能的な恐怖に囚われる。
「安心しなさい。今の私はただの伊織よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
伊織は抱き枕の上に小さく顎を乗せ、投げやりに言った。
今の彼女は、戦場を支配した生体兵器の殻を脱ぎ捨てている。軍が神経を尖らせる天災の核でもなければ、『栄光の帳簿』の天辺に君臨する死神でもない。
ただ抱き枕を抱えてベッドの上でだらしなく寝転がり、歴史の本が好きなくせにうっかり数学科の願書を出して零点を取り、机に突っ伏して途方に暮れる不器用な少女。
遠い昔から焦がれ続けた女性の面影を思い浮かべては、深夜にぼんやりと物思いに耽る、ただの女の子なのだ。
それだけのことだった。
伊織の瞳から一切の刺々しさと険が抜け落ち、純粋な疲労だけが漂っているのを悟ったのか、そばかすの少女の強張っていた肩がようやくすとんと落ちた。
薄暗い月明かりの下で逡巡を重ねた末、彼女は自嘲気味に唇を綻ばせ、ぽつりと口を開いた。
「……私のコードネームは『翠花』。中華の昔、雑用を押し付けられる下働きの女中がつけられた名前ですよ。私の戦闘適性が低すぎて、隠蔽ランクも上がらないものだから、上の連中が適当にそんな名前を宛てがったんです」
翠花も伊織と同じく、本名すら持たない孤児だった。
彼女の生きる世界は白と黒だけで塗り分けられている――人間は自分たちを奴隷にし、覚醒者たちは高みから自分たちを蔑む。
だからこそ彼女には理解できなかった。軍から非人道的な実験と冷遇を受け続けてきた伊織が、なぜ覚醒者側の体制に留まり、同じ苦痛を分かち合う「同胞」に身を投じようとしないのかが。
だが翠花は知らないのだ。泥濘の深淵にあった伊織の幼少期に、李先生という存在から注がれた、一片の濁りもない無償の温もりがあったことを。
本物の善意を知っているからこそ、伊織は誰よりも冷徹に理解していた。この世界には悪意に満ちた略奪者もいれば、胸に確かな優しさを秘めた人間も必ず存在するのだと。
口では悪態をつき、化け物と蔑みながらも、日々の生活では嫌そうな顔をしながら時間通りに飯を食わせ、本を広げて読み書きを教えてくれ、いざ死線に立てばボロボロの肉体を盾にして自分の前に立ち塞がってくれた……そんな戦友たちの姿を、彼女は確かに知っていた。
人間とは、酷く複雑で、矛盾に満ち、移ろいやすい生き物だ。
完璧な聖人もいなければ、一片の情もない純粋な悪人もいない。
口当たりのいいスローガンに踊らされる盲信者だけが、この多面的な世界を敵と味方の二つに乱暴に切り分けてしまうのだ。
「ねえ翠花、あんたの目には……普通の人や覚醒者が、私たち溺亡者と根本から違う生き物に見えているの?」
伊織は身を翻し、抱き枕に横顔を埋めながら、静かにその視線を投げかけた。
「同じように人間の母親の胎内で数ヶ月を過ごし、涙と陣痛の中で産み落とされた命だというのに、それでも越えられない貴賤があるっていうの?」
その淡々とした問いかけは、赤く焼けた針のように、翠花の最も脆い逆鱗を容赦なく貫いた。
「――私たちを人間じゃないって線引きしたのは、私たち溺亡者の方じゃないでしょッ!!」
最後のプライドを踏みにじられたかのように、翠花は血走った瞳を見開き、抑圧と屈辱に任せて絶叫した!
金切り声のような悲鳴が静寂な深夜の空気を切り裂き、保護施設を包んでいた死せる静けさを一瞬にして粉々に粉砕した。
しまっ……!
伊織の顔色が変わる。
案の定、その怨嗟と殺意に満ちた叫び声は、数十メートル離れた書房で古書を紐解いていた李先生の耳へと、寸分の狂いもなく届いてしまった。
普段は柔らかな笑顔を浮かべ、穏やかな方言で語りかけるあの儒雅な中年の男。
だが院長という肩書きの裏に隠された正体は、かつて焦土の上でその素手の一撃によって幾重もの巨人を粉砕してきた、歴戦の覚醒武者なのだ。
前線で数多の惨劇を目の当たりにし、精神の防壁が擦り切れていなければ、このような僻地の施設で隠居を余儀なくされるはずもない傑物だった。
だがそれは、眠れる雄獅が牙を失ったことを意味するものでは決してない。
自らが慈しんできた唯一の我が子が危機に瀕していると察知した瞬間、雄獅の逆鱗はコンマ数秒で爆発した!
ドォォンッ――!!
建物全体が激震に見舞われ、走走る廊下の奥から、山崩れのごとき圧倒的な気息の重圧が津波となって炸裂した。
金属の床板が次々と軋み砕ける轟音とともに、雷霆の勢いを纏った巨躯が、肉眼では捉えきれぬ猛烈な速度で伊織の寝室へと突進してくる!
伊織の背筋に冷汗が走る。
李先生の気性を知る彼女には容易に想像がついた。もしこの部屋に見知らぬ侵入者――それも反乱の毒気を放つ溺亡者の姿を見咎められれば、あの男は弁明の余地すら与えず、一瞬にして翠花を肉片ごと蒸発させてしまうだろう!
李先生は、あまりにも多くの子どもたちを失いすぎてきた。
かつて千人以上を収容できたこの巨大な施設の中で、無慈悲な出撃と戦死の果てに、名簿に残された名はわずか十六名。
そして今夜、他の十五名はすべて外郭の哨戒任務へと駆り出されており、この広大な施設の中で、実際に布団に身を横たえている孤児は……伊織ただ一人なのだ。
伊織は、彼がすべての温もりを注ぎ込み、これ以上決して傷つけさせまいと心血を注ぐ、最後の宝物だった。
「チッ……!」
部屋の木製ドアが打ち砕かれるわずかコンマ五秒前、伊織の瞳に決断が宿った。
彼女はベッドを蹴って跳ね起きると、白く細かった右腕を瞬時にして冷たく強固な白金色の龍鱗で覆い尽くし、筋肉を隆起させて、禍々しくも美しい巨大な龍爪へと変貌させた!
五指を鋼の万力のように動かし、恐怖に竦む翠花の上半身を鷲掴みにすると、しなやかな腰のバネを利かせて空気を引き裂く残像を描き、大開きになった窓の外へと力任せに投げ飛ばした!
「逃げなさい!」
シュッ――ドガァン!
翠花の小柄な身体は砲弾のように夜空を飛び、庭の金木犀の梢へと激突した。枝葉に衝撃を殺された彼女は、驚いたトカゲのように無我夢中で路地の暗がりへと転がり込み、一目散に夜の帳へと消え去っていった。
翠花が投げ出されたのと、まさに刹那を同じくして。
ドガァァンッッ!!!
合金で補強されていた頑丈な木製ドアが、理不尽なまでの剛力によって内側へと粉砕された!
爆ぜ散る木片と粉塵を突き破り、屈強な巨躯を誇る中年の男が、修羅の形相で部屋へと踏み込んできた。
その両拳には実体化した武道の剛気が陽炎のように渦巻き、眼底にはいまだ冷めやらぬ凄まじい殺意が爛々と滾っている。
だが、李先生の視界に飛び込んできたのは、夜風に激しく揺れるカーテン、全開になった窓枠、そしてベッドの脇にただ一人立ち尽くす、いまだ人間の姿に戻りきらず微かな龍気を纏わせた凶悪な龍爪を持つ伊織の姿だけだった。
窓の外の暗がりには、夜風に溶けるように遠ざかっていく、微かな逃亡者の残影が一つ。
「……ごめんなさい、李先生」
伊織は首をすくめ、ばつの悪そうに視線を逸らすと、その巨大な龍爪をおずおずと自らの背後へと隠しながら、消え入りそうな声で呟いた。
「さっき……通りすがりの友だちとおしゃべりしていたら、驚かせちゃったみたいで……」
荒れ狂っていた室内の暴風が、ゆっくりと凪いでいく。
部屋の中央に仁王立ちする李先生は、鷹のように鋭い眼光で、部屋に残る見知らぬ侵入者の残滓と、窓枠に刻まれた僅かな擦り傷を見据えていた。
彼はすぐには口を開かなかった。
数十年を修羅場で生き抜いてきた老練な直感が、少女の吐いた綻びだらけの拙い嘘を見破れないはずがなかった。
真夜中に窓から侵入した何者かと、感情を爆発させた絶叫……それがただの友人との談笑などであるはずがない。
だが、男の視線が、少女の白くやつれた顔――嘘がバレて怯え、おずおずとこちらの顔色を窺うその痛々しい表情へと向けられた瞬間。
巨人をすら粉砕するはずだった眼底の荒れ狂う煞気は、温かな湯に浸された氷のように、跡形もなく崩れ去っていった。
この子が嘘をついていることなど分かっていた。
この背負い込んだ重荷のあまりの重さに、父親代わりの自分ですら触れさせまいとしていることも。
けれど彼は、伊織の抱える脆くも頑なな矜持を何よりも尊重していた。
自らの身を挺して侵入者を逃がし、全てを隠そうとしたのは、傷だらけの幼獣が自らのやり方で、いまあるささやかな平穏を必死に守り抜こうとした証なのだから。
やがて、李先生の口から漏れ出たのは、長くて深い、切なさに満ちた吐息だけだった。
龍化を解き、居心地悪そうに身を縮こまらせる伊織を見つめる。
殺意も警戒もすべて空気の中に融解し、男は重く、しかし極めて足音を忍ばせて歩み寄った。外へ逃げた侵入者を追うことも、あの凶悪な龍爪を問い詰めることもしない。
ただ、呆然と見上げる伊織の華奢な身体の下へと、数多の強敵を引き裂いてきたタコだらけの大きな両腕を滑り込ませると、驚くほど軽やかに、壊れ物を扱うように抱き上げた。
まるで何年も前、雨の夜の泥濘の中で、血まみれになって息絶えかけていた赤ん坊の彼女を拾い上げた、あの日のように。
男は静かに踵を返し、乱れた寝台へとゆっくり歩み寄ると、柔らかな温もりの中へと伊織をそっと横たえ、毛布の端を丁寧に引き上げてその肩へと掛けた。
薄暗い明かりの下、李先生の風雪に晒され深い溝の刻まれた顔には、深く窪んだ目元に隠しようのない疲労と痛ましい色合いが滲んでいた。
けれど、伊織を見つめるその口元には、いつものように温厚で、我が子のすべてを許すような、限りない包容力に満ちた笑みが浮かんでいた。
「……夜は冷える。窓を開けっぱなしにしてたら、風邪を引いちまうぞ」
男のがっしりとした掌が、黒髪に覆われた少女の頭を優しく、慈しむように撫でた。その声は低く、どこまでも温かい。
「もう寝なさい、伊織。俺がいる限り……空が落ちてくるような真似はさせやしないからな」




