第96話「帝室の病」
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【皇太子の苦悩】
「父上はお前の存在に気づいているぞ」
ギュイは「導師」と呼ぶ異国の魔術師に向かって、悲痛な面持ちで訴えていた。
「お前の献策でミレンデに圧力をかけたせいで、私の立場が危うくなったのだ。あれは越権行為だ」
自分でも卑怯な言い草だとは思ったが、それほどに父グスコフ二世は恐ろしかった。
実の息子だろうが皇太子だろうが、そんなものは父には関係ない。次期皇帝にふさわしくないと判断されれば、容赦なく失脚させられるだろう。
「帝位継承権の剥奪で済めば、まだいい方だ。下手をすれば辺境の直轄領に追放……いや、幽閉もありうる」
さすがに命までは取られないだろうが、とにかく政治には二度と携わらせてもらえないだろう。
すると導師は穏やかに笑う。
「ご心配には及びますまい。皇帝陛下御自身も、幇間のような連中を多数召し抱えておいでではありませんか」
しかしギュイは即座に反論する。
「確かに父上も、ボーゲネル大神官やニルベン宮中伯のような軽薄な輩を側近として召し抱えておられる。おべっかとごますりしかできん無能たちだ。だが父上は彼らに裁量権は与えていないし、軍を預けたこともない」
だが導師は動じず、穏やかに微笑み続ける。
「では私も問題ないでしょう。私は無位無官ですし、指揮する軍も役人もおりません」
「それはまあ……そうだが……」
導師は魔術で問題を解決し、助言を与えてくれるだけの存在だ。
逆に言えば、全ての決定はギュイ皇太子自身がしていることになる。導師の責任にはできない。
ギュイはそこに危うさを感じていた。
「導師殿は私に粉を挽かせる気か」
ギュイが「他人に苦労を押しつける」という意味の慣用句を口にすると、導師は首を横に振る。
「私こそが殿下の粉挽き水車です。良いように御利用なさいませ」
恭しく頭を下げる導師に、ギュイは質問を投げかける。
最初に会ったときにもした質問だ。
「……貴殿は何が望みなのだ」
すると導師はにっこり笑う。
「忌まわしき三賢者を滅ぼし、我が師の名誉を回復することが我が唯一の望みにございます。異界より来たりし大賢者の正当な弟子は我が師ラルカンのみ」
ギュイには導師の言っていることが半分も理解できなかったが、それでもこの人物の言葉に嘘がないことだけは確信を抱いた。
嘘の理由で皇太子に取り入るつもりなら、もっとマシな理由を考えるだろう。
「貴殿は狂人か」
「さて、どうでしょうな。私は自身が正気だと思っておりますが、狂人は己が狂人だとは気づかぬでしょう」
「確かに」
受け答えはしごくまともだ。
導師の知識は深く、沈着冷静で、魔術に長け、常に忠義を尽くす。そして行動原理は一貫しており、一切ブレない。
(危険な気はするが、やはり使える人物か)
ギュイは導師の危険性に気づきつつも、改めて思う。
(危険な人材すら使いこなしてこその皇帝だ。父上にできて私にできないはずはない)
ギュイは覚悟を決め、導師に相談を持ちかける。
「では貴殿を信用して相談がある。この帝国は征服された属州の集まりであり、気を緩めれば一瞬で瓦解する。グスコフ二世の治世でそれを防げようか?」
導師の答えは簡潔だった。
「まず無理でしょうな。この折れ線グラフを御覧ください」
折れ線グラフなどという不思議な図を初めて見せてくれたのは、他ならぬこの導師だ。
幸いにもギュイの数学的素養と知性は、この図形を理解することができた。
「税収と耕作面積のグラフか。定期的に耕作面積が一気に増えているのは、征服によって得た土地だな」
「はい。しかしこれだけの農地を抱えていても、税収はさほど伸びておりません。征服と同時に、過去の征服地の税を減免するからです」
内政に携わるギュイは、そのことの深刻さを理解していた。
「確かにこれでは足りんな。治水にも街道の維持にも金がかかるというのに」
「左様にございます」
導師は深くうなずく。
「今さらサフィーデを支配して重税を課したところで、帝国全土を潤すほどの収入はもはや得られません。建国当初のシステムは既に疲労しています。この国は大きくなりすぎました。他にも資料がございます」
続けて出されたグラフは、いずれも帝国の暗い未来を示唆していた。
軍事費や公共事業費の増大。
増えすぎた属州で頻発する反乱。その鎮圧にかかる費用と人的損失。
一方で税収は伸び悩み、交易による収益も頭打ちになっている。
「やはり父上のやり方ではもはや通用せんか……」
ギュイはグラフの数字をひとつひとつ確かめたが、彼の記憶にある数字と完全に一致している。刻まれた目盛にも嘘はない。認めたくはないが、導師の言葉は真実だった。
「帝国は転換期に来ているということだな。私が帝位に就かねば、この国は緩やかに衰退していくだろう。いずれは属州が帝国から離脱し、せっかくひとつにまとまった国がバラバラになってしまう」
ギュイにとっては帝国の支配こそが正義であり、属州の独立志向など郷愁にしか思えない。
「教えてくれ、導師殿。私が帝位に就くにはどうすればいい?」
「簡単なことです」
導師は全く変わらず、穏やかに言う。
「皇帝を排除なさればよい」
「ち、父上を……!? そんな短絡的な方法があるものか!」
思わず大声が出てしまった。
「父親殺しの皇太子になど、誰も従いはせんぞ! 血迷ったか!?」
「私は最も合理的で犠牲の少ない方法を提案したまでです。考えてもごらんなさい」
導師は静かに、だが揺るぎない口調で言った。
「このままではサフィーデに対して無駄な外交努力を続け、時間と国費を無駄に投じることになりましょう。かといって戦を仕掛ければ、あの『雷帝』が出てきます。今度は何万人が殺されるかわかりませんぞ」
導師はゆっくりと立ち上がる。
「皇帝といえどもただの人間、それもたった一人の人間です。それを排除することで帝国兵数万の命を救えるのなら、迷う理由がありますか?」
「そ、それは……」
「たった一人を犠牲にする覚悟すらなくて、大陸随一の大帝国を治められますかな?」
その言葉にギュイはとうとう叫んだ。
「そうは言っても実の父だぞ! 尊敬する父上だ! 殺せるものか! それにさっきも言っただろう!? もし父を殺したことが発覚すれば、誰も私に従わないぞ!」
「私は一度も『殺せ』とは申しておりません」
導師はあくまでも穏やかに続ける。
「ところで亡くなられた伯父上の病気を私なりに調べましたが、どうやら遺伝病のようです。同じ病で亡くなられた男性親族が他にもおられるのではありませんか?」
「む? あの病……。そうだな、私の知る限りでは曾祖父も同じ病で亡くなっている。分家筋の男子にも何人かいるな。女子は聞いたことがない」
「なるほど。であれば……」
導師は懐から粉薬の小瓶を取り出した。
「これを陛下の食事に混ぜるのです。ほどなくして陛下の玉体は衰え、床に臥せることになりましょう」
「私に毒を盛れというのか!?」
「いえいえ」
導師は首を横に振る。
「これは市場でも手に入る、ごくありふれた香辛料です。これ自体には何の毒性もありません。ただ、ある病気の因子を持つ人間にとっては毒となります。病気を発症させるのです」
「ただの香辛料がか?」
「おそらく殿下の伯父上も、これがお好きだったのでしょう。食事の記録を調べてみればわかります。伯父上は当時皇太子でしたから、いつ何を食べたかは材料に至るまで克明に記録されているはずです」
「ううむ……だがこれで父上を死なせる訳には……」
ギュイは唸ったが、導師は首を横に振る。
「摂取を控えれば病状は落ち着きます。さじ加減は私がお教えしましょう。私とて陛下に死なれる訳にはいかないのです。帝位が穏当に継承されねば、殿下が皇帝になった後に余計な問題が生じますので」
それでもギュイは迷ったが、とうとう最後には覚悟を決める。
「本当に父を死なせたりはせんのだろうな?」
「学問に身を捧げた者として、それはお約束します」
ギュイは恐怖を押し殺し、導師から小瓶を受け取った。
「ではこれを使って父上には退位していただく」
* * *
マリエがファルファリエ皇女に念を押していた。
「あなたは構わないけど、あなたに男の子が生まれたら『黒竜椒』を食べさせないように気をつけてね」
ファルファリエが首を傾げる。
「お父様が好きだった香辛料ですけど、いけないんですか?」
「あなたの家系には特有の病気があるの。女子はまず発症しないけど、男子は『黒竜椒』の摂取で発症率が急激に高まるわ」
マリエはそう言ってほっと溜息をつく。
「あなたのお父様の話を聞いたときに、もしかしたらと思ったのよ。調べてよかったわ」
「そうですか……。マリエさん、ありがとうございます。もっと早くわかっていれば、お父様は……」
寂しそうな顔をするファルファリエの肩に、マリエがそっと手を置いた。
「そうね。でも過去は変えられなくとも、未来は変えられるわ。あなたの子孫に伝えて未来を守りなさい。代替品には『白花椒』を使うといいわ。あっちの方が安いし」
マリエは料理にも精通していた。三百年生きてるババアだから何でも知っている。
『そこ、失礼なことを考えないで』
念話で釘を刺されてしまった。本当に何でも知っているな……。