第94話「ナーシアとファルファリエ」
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ファルファリエ皇女が少しずつ学院に馴染んできたことで、俺の心理的な負担はかなり軽くなった。
「最近は顔色が良いわね、シュバルディン」
寮の自室に勝手に遊びに来ているマリエが、心なしかホッとしたような顔をしている。
どうやら彼女にも心配をかけていたらしい。口は悪いし態度も悪い妹弟子だが、根は優しいヤツだ。
俺は椅子にもたれながら苦笑する。
「ファルファリエ皇女は依然として俺たちの敵だが、『話の通じる敵』になりつつある……と思う」
「そうね。彼女自身、そうありたいと考えている節があるから」
ベオグランツ帝国がサフィーデ人を皆殺しにするつもりでなければ、どこかでサフィーデ王室と交渉して戦争を終わらせる必要が出てくる。
サフィーデを属国か属州にして、王室に統治を委託するのが帝国にとっては一番楽だろう。
「帝国がサフィーデ侵攻を考えている以上、その成否にかかわらず交渉役が必要になる。それは俺たちも同じだ」
「そのときにあの子が交渉役として出てくる訳ね」
「あるいは交渉の仲介者としてかな」
最近の彼女の動きを見ていると、裏方に徹している印象がある。おそらく手柄は皇帝に譲るつもりだろう。
なんせ皇帝は一度、サフィーデへの武力侵攻に失敗している。失地回復が必要だ。
「そんなこんなで彼女の意図もだんだん見えてきた。スパイとして本国に情報を送りつつ、サフィーデ王室とのパイプ役になるつもりだ」
「なんだか物騒ね」
マリエが溜息をついたので、俺も真面目な顔でうなずいた。
「ああ、物騒な任務だ。ファルファリエ皇女は物理的にも政治的にも危険な状況にある。俺たちが守ってやらないと」
「そうじゃなくてね」
マリエがまた溜息をつく。何か違うらしい。
「あなた本当にお人好しね。まるで師匠が乗り移ったみたいよ?」
「そいつは嬉しいな」
この世で俺が最も尊敬する人物は三人いる。両親と師匠だ。
「はあああ……」
とうとうマリエに特大の溜息をつかれた。
「あの子は敵よ?」
「だが子供だ」
マリエとのこのやりとり、もう何度目になるだろう。
「子供には甘いのね」
「ああ。そのぶん大人には厳しいぞ」
ファルファリエ皇女が大人になったら容赦はしない。
だが人というものは何歳ぐらいから大人なんだろうか……。俺なんか三百年も生きてきたが、まだ大人になりきれていない気がする。
マリエは俺の顔をじっと見ていたが、俺の枕にぱたりと顔を埋めた。
「もういいわ……あなたの好きにして」
なんなんだこいつは。
俺は窓の外の景色を見る。男子寮と女子寮の間にある中庭で、ファルファリエ皇女がボール遊びをしている。師匠の『書庫』から発掘した「ドッジボール」とかいう球技だ。
書庫の情報によると、「ドッジ」とは「回避」を意味する言葉らしい。飛び道具を回避する技術は魔術師にも必要なので、とりあえず運動実習の科目に入れてみた。
「行きますよ!」
ファルファリエ皇女が奇麗なフォームでボールを構える。ゴムの類はサフィーデでは採れないらしく、麓の村で革製のボールを作ってもらった。
「おわあああ!」
情けない悲鳴をあげて逃げているのがトッシュだ。それをかばうように立つのがアジュラとスピネドール。
「本当に世話が焼けるんだから、もう!」
「俺の後ろに隠れていろ、トッシュ!」
情けないお調子者に見えるが、やはりトッシュのあれは人徳だなあ。
「ふんっ!」
お姫様らしくない掛け声と共にファルファリエ皇女がボールを投げる。投擲のフォームは球技ではなく槍投げやナイフ投げに近い。「投げる」というより「打つ」といった感じだ。
飛距離は伸びないが猛烈な威力のある投球を、スピネドールが胸板で苦もなく受け止める。
威力があるといってもファルファリエ皇女は女の子。剣術やレスリングで鍛えているスピネドールには余裕のようだ。
「ははっ、サフィーデ魂を見たか!」
あいつの頭の中では国威を賭けた大勝負になっているようだ。王子様だから無理もない。
「だが勝負とはいえ、俺は女性に物を投げつけるなどできん! ということで任せた」
そう言ってアジュラにボールを渡すスピネドール。
お前は何がやりたいんだよ。
アジュラはしばらく目をパチパチさせていたが、やや遅れてうなずく。
「そ、そう? じゃあ遠慮無くいくわね」
ニヤリと笑ってボールを振りかぶったアジュラ。実習で練習した通りの奇麗なフォームだ。
「炎の闘神よ、我が身に宿れ! 必殺……」
アジュラが叫んだとき、女子寮からナーシアが駆けてきた。
運動嫌いでドッジボールにも参加しないあの子が、あんなに必死に走ってくるのは珍しい。
「ファルファリエ!」
すっかり仲良くなって呼び捨てにするようになったナーシアが、皇女の名を叫ぶ。
「なんだなんだ?」
トッシュがアジュラとスピネドールの隙間から顔を出して、すぐみんなに言った。
「おいみんな、試合は一時中断だ」
どうも問題が起きたようだな。
俺は窓から飛び降りると、「落下制御」の術でフワリと中庭に降り立った。
間近で見ると、ナーシアの顔は真っ赤だ。目もなんだか潤んでいる。これは珍しい。
俺が声をかけるより早く、ナーシアがファルファリエ皇女に叫ぶ。
「どうしてミレンデを攻めるの!?」
ミレンデはナーシアの祖国だが、それはどういうことだ? 穏やかじゃないな。
「ちょっと待てナーシア、ファルファリエは外交官じゃないぞ」
俺がそう言って間に入ると、ファルファリエ皇女も困惑した表情で俺を見つめてきた。
「スバル殿、私にも事情がわかりません」
「偽証」の術に反応がないので、どうやら嘘ではなさそうだ。少なくとも彼女の主観ではそうなる。
ファルファリエ皇女に聞いても仕方なさそうなので、俺はナーシアに向き直った。
「帝国がミレンデ連合を攻めるというのは本当なのか?」
「さっき実家から手紙が来たんだよ! ほら!」
ナーシアが差し出したのは、上質な羊皮紙の便箋だ。流麗な筆致のミレンデ文字が記されている。
ミレンデ語もサフィーデ語も似たようなものなので、読むのは簡単だ。
そこにトッシュが首を突っ込んでくる。
「なあジン、なんて書いてあるんだ?」
「帝国がミレンデ連合の港を二つ、百年間の期限つきで借り上げたいと申し入れてきたらしい。港の借料は十分に支払うと言ってるそうだ」
首を傾げるトッシュ。
「ならいいじゃないか。ミレンデを攻めるって話じゃないし。借りるだけだろ?」
「海のないベオグランツ帝国にとって、港は漁業や交易よりも軍事的な価値が特に高い。自前の海軍を持てるようになる」
帝国が海軍を持てば、ミレンデの全ての港が海上からの侵攻を受ける可能性が出てくる。
俺がそう説明すると、ナーシアが言葉を補う。
「もし断れば戦争になるだろうって、お父さんが言ってるの。ミレンデ評議会に密使が何度も来て脅してるんだって」
俺には事態の重大さがわかったが、トッシュやアジュラたちには今ひとつ伝わっていないようだ。
俺はなるべく噛み砕いて説明する。
「ミレンデは有力な交易商たちによる連合国家だが、帝国と国境が接している。ミレンデが独立を保ってこられたのは港のおかげだ」
港は海上交易によって莫大な富を生む。
帝国としても港は欲しいが、海上交易のルートや利権はミレンデが完全に掌握していた。
帝国が海の向こうの国々と交易しようにも、どこの国も「ミレンデを通してくれ」と言う。ミレンデに嫌われたら交易ができなくなるからだ。
そんなリスクを冒してまで、新参者の内陸国と取引するメリットはない。
だから帝国は内心苦々しく思いつつ、ミレンデに対しては不可侵の姿勢を堅持してきた。ミレンデに侵攻して港だけ奪っても、交易はおろか海軍も保持できない。帝国には造船や航海術の技術者がいないからだ。
俺も深い事情は知らなかったが、ナーシアの説明によるとそういうことらしい。
「うまいこと立ち回ってたもんだな」
トッシュが感心したようにうなずくが、今はそれどころじゃない。
どうもややこしいことになってきたぞ……。