第61話「魔女の追跡」
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* * *
【魔女の追跡】
(妙ね)
トッシュの後を追いかけて走りながら、マリエは疑問を感じていた。
「待てーっ!」
トッシュは鉈を抜いて走りながら、雑木林の中を全力疾走している。その少し先を駆けているのが、農民風の怪しい男だ。
(あの手の連中が魔術師見習の坊やを振り切れないなんて)
すかさず兄弟子から頼もしい助言が入る。
『罠かもしれん。トッシュを退かせてくれ』
『そうしたいのはやまやまだけれども、あの子はあなたの言うことしか聞かないわ』
本当に男の子ってバカなんだからと、マリエは溜息をつく。
するとジンはふと、マリエに確認してきた。
『その様子だと、息は切らしていないな?』
『魔術師が息を切らしてたら丸腰同然でしょう。それに生命現象を司る魔術は私の専門。呼吸器系の強化は忘れていないわ』
兄弟子はいつまで経っても未熟者扱いするから嫌いだった。
(本当にバカなんだから……)
少し嬉しい気分になり、心にポッと火が灯ったように感じる。
マリエの後方からはスピネドールが駆けてくる。
「トッシュ、待て! 勝手な行動をするな!」
「でもスピ先輩、あいつきっと帝国の密偵ですよ! 捕まえなきゃっ! ジンがっ、いないときはっ、俺たちがっ、な、何とかしないと!」
「お前にあいつの代わりは無理だろう! おい、息が上がってるぞ!」
呆れたように叫ぶスピネドール。
おそらく彼の護衛もいっしょに走っているところだろう。
しかしスピネドールは息を切らさないよう慎重に走っているので、みるみるうちに距離を離されていく。
しばらく走るうちに、マリエたちは完全に孤立していた。後続のスピネドールたちはこちらを完全に見失ったようだ。
マリエは目印になるよう、木々に『光明』の術をかけて淡く光らせる。
そして念話でこうつぶやいた。
『本気で走ればトッシュより速そうなのに、ちょうどいい距離を保ち続けているのが嫌よねえ』
『そうだな、警戒しておいてくれ』
兄弟子の返答はいつもそっけない。
「はあっ……はぁ……」
トッシュはもう完全に息が上がっている。走る速度もだいぶ落ちてきた。
しかし男との距離は変わらない。案の定、速度を落としている。
(やるしかなさそうね)
マリエは事前詠唱しておいた術をいくつか使うことにして、そのままトッシュを追いかけ続けた。
『シュバルディン、こちらは特に問題ないわ。どうも荒事になりそうだけど』
そう報告しつつ、マリエは内心で溜息をつく。
どうせこの心配性の兄弟子のことだ。あれこれ口うるさく言ってくるのだろう。
だがそれが少し楽しみでもある。
ところが兄弟子は予想外の返答をしてきた。
『ちゃんと手加減しろよ』
『私を何だと思っているの……』
妹弟子をもう少し労ってほしい。
マリエはそう思ったが、とにかく今は追跡と護衛が最優先だと考え直す。
逃げる男を捕まえるだけなら造作もない。今すぐにでも可能だ。
しかしそれはできない。
(シュバルディンと違って、私は生徒たちから魔術の使い手だとは思われていない。派手な術を使えば、シュバルディン以上に怪しまれるわね)
それにこれ以上、子供たちを陰謀の渦中に近づけたくないという思いもあった。特にシュバルディンがそれを嫌がっている。兄弟子の思いは大事にしたい。
『私、これでも良い妹弟子のつもりなんだけど』
『うん?』
生返事のシュバルディン。おそらく向こうで交渉に熱中しているのだろう。一度集中し始めると、他の全てを置き去りにしてしまうのが彼だ。
『あなたって、いつもそうよね……』
『ううん?』
仕方ない。そんなところも嫌いではないのだから。
マリエは悩むのをやめて、このまま走り続けることにする。
先行するトッシュが、とうとうよろめき始めた。
「はあっ、はあっ……ま、待て……」
「待つ訳がないでしょう」
思わずそう言ったとき、逃げていた男が急反転した。
「えっ!?」
そう叫んだのはマリエではない、トッシュだ。不意をつかれて一瞬棒立ちになる。
その瞬間、男が体当たりでトッシュをひっくり返した。手慣れた体術だ。
「うわっ!?」
ひっくり返ったトッシュの腕を取ると、男は関節技をかけて身動きを封じた。手には鎌が握られ、マリエを威嚇している。
「あら」
マリエは立ち止まって身構えたが、彼女が行動を起こすよりも早くトッシュが叫んだ。
「地素解放!」
トッシュの放った術によって、雑木林の柔らかい黒土が噴水のように男の顔を襲った。
「むわっ!?」
殺傷力はないものの、男は怯む。
マリエは念話で兄弟子に報告した。
『あの子、なかなかやるわね。走りながら詠唱してたんだわ。最後の一節だけ唱えずに置いといて』
『荒っぽいやり方ではあるが、事前詠唱の基本原理だな。大したもんだ』
シュバルディンが愉快そうに応じたので、マリエは溜息をつく。
『組み上げた術式をそのまま持ち運んでいたのよ。危険でしょう?』
『ところでそいつ、息が上がっていたんじゃないのか?』
シュバルディンの問いに、マリエはトッシュを見る。少年はガッツポーズを取っていた。
『それも演技だったんでしょうね』
さすがに走りながらでは十分な魔力を集められなかったのか、トッシュの放った術に殺傷力はなかった。
それに密偵や暗殺者にとって、砂や土は目潰しの道具だ。こんなものには慣れているだろう。
それでも至近距離からの不意打ちで、男はとっさに手を離す。トッシュはどうにか関節技から逃れたが、男の足下に倒れたままだ。
「トッシュ、どこだ!」
スピネドールの声が近づいてくる。彼の護衛たちもすぐ近くだろう。
しかし男はまだ鎌を握ったままで、戦意を失ってはいない。
「てめえ!」
鎌が振り上げられた。
「うわぁ!?」
トッシュは四つん這いになって逃げようとする。
(世話が焼けるわね)
マリエは事前詠唱していた術を解放する。
「そこまでよ」
マリエの放った術は静かに、だが確実に男を捉える。
「うっ!?」
鎌を振り上げた男はそのまま、ぐらりとバランスを崩して倒れ込んだ。
シュバルディンが尋ねてくる。
『今なにか術を解放したな。どうした?』
『別に。全身麻酔の術をかけただけよ』
医療用の魔術を操るマリエにとって、魔術師でもない普通の人間1人など生かすも殺すも自由自在だ。
だがシュバルディンは心配そうだ。
『トッシュに気づかれてないか?』
『もちろん』
『呼吸器は麻痺させてないだろうな?』
『私がそんな初歩的なことを忘れるはずがないでしょ……』
シュバルディンの若返りの儀式も、施術を担当したのはマリエだ。過去には大怪我をした彼を全身麻酔で手術したこともある。
『治癒魔法の使い手として、もう少し信用してくれてもいいんじゃない?』
『技術的な面では一度も心配したことはないんだが、お前の容赦ない性格が心配なんだ』
失礼な兄弟子に対して、マリエは日頃の不満をぶつける。
『常日頃から、あなた以外には優しくしているわよ』
『俺にも優しくしろよ』
それができたら苦労はしない。
マリエは自分の難儀な性格に溜息をつくと、こう答えた。
『努力するわ』
兄弟子が妙に疲れた声で応じる。
『努力しないと無理なのか……』
そういう意味ではないのだが、マリエはうまく答えられなかった。
一方、トッシュは尻餅をついたまま驚いている。
「え……? あれ? なんだ?」
襲ってきた男が急に倒れたのだから無理もない。
しかしトッシュはすぐにベルトで男の手首を拘束すると、男の救護措置を始めた。
「息はあるな。脈もある。マリエ、こいつの様子が変なんだ」
(非常時に素早く動けるタイプなのね)
マリエは少し感心しながら、ゆっくり歩いていく。
「どうしたのかしら?」
わざとらしく不思議そうにしていると、スピネドールが葉っぱだらけになりながら茂みから飛び出してきた。
「トッシュ、いい加減にしろよ!」
「うわぁ、スピ先輩ちょっと待って! ほら、こいつ捕まえましたから!」
「ん?」
葉っぱだらけのスピネドールは足早に男に近寄ると、全員に念話を送る。
『全員に通達、トッシュを確保した。逃げた男はトッシュが拘束したようだ。ただどういう訳か、男は意識がない。ディハルト参謀の兵を借りて運ばせよう』
てきぱきと報告をして、スピネドールはトッシュに向き直る。
「無茶をするな、俺たちは魔術師だぞ!?」
「いやでも相手は1人だし、全員で捕まえたら何とかなるかなって……」
マリエは魔法を使い、周辺の人間の気配を探る。それから守秘回線を使ってシュバルディンに報告した。
『周囲に敵はいないようね』
『単独の斥候だったか。トッシュに見破られるとは未熟だな』
だがマリエはこう返す。
『敵の斥候が未熟だったというよりは、トッシュの洞察力が鋭かったんでしょう。この子、意外とやるわよ。やり方がメチャクチャだけど』
『お前がそこまで認めるとは意外だな』
『生まれる時代と場所が違えば、この子も私たちの同門だったかもね』
『ああ、俺もそう思うよ』
兄弟子の声はどこか嬉しそうだった。