第106話「潜伏皇女」
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いつまでも帰ってこないジロ・カジャを心配しながら、ファルファリエは息を潜めていた。
すぐ近くに山狩りの農民たちがいる。
「そっち、何かいるかー!?」
「いや何にもおらんぞう!」
「本当にこんな森に若い娘の盗賊が逃げ込んだのか?」
「わからんが領主様の御命令だ」
どうやらファルファリエは盗賊ということになっているらしい。
(なるほど、所持品で身分を証明しても盗品扱いされて終わりか)
敵もなかなか周到だ。そしてかなり陰湿だった。
(しかしそれならそれで、やりようはいくらでもある)
岩陰の茂みに身を潜めつつ、ファルファリエは農民が近づくのを静かに待つ。
農民たちは一列になって茂みを叩きながら歩いていたが、隊列はあまり揃っていない。訓練された戦列歩兵とは訳が違う。
「ファッゴ、そんなに前に出るな」
「そうだ、危ないぞ」
「ははは大丈夫大丈夫。盗賊といっても小娘だろ? 領主様からの褒美は俺が頂くぜ」
そんなことを言ってずいぶん先行している農民がいたので、ファルファリエは彼に狙いを定めた。茂みの中からそっと近づく。
ファルファリエは一瞬の隙を突いて、ファッゴと呼ばれていた農民に茂みから騎兵銃を向けた。
「静かに、ファッゴさん。騒げば撃ちます」
「んぁっ!?」
着剣した騎兵銃を向けられて、痩せた中年男が硬直する。彼が手にしているのは山歩きの杖だ。腰には鉈を差しているが、抜く前に撃ち殺せる。
ファルファリエは他の者に聞こえないよう、声を潜めて続けた。
「私は盗賊ではありません。名は明かせませんがこれでも貴族の子です。私に危害を加えれば死罪ですよ」
「嘘だろ!?」
「静かに」
銃剣を突きつけて黙らせる。
ここで相手が騒げば、ファルファリエは逃げるしかない。撃てば銃剣しか武器がなくなる。
だからファルファリエはこの交渉に己の命を賭けた。
たっぷり脅しておいてから、ファルファリエは大粒の宝石を見せる。
「私を見逃してくれれば、このプラユイエ産の緑鳳玉をあげます。都市の宝石組合に持ち込みなさい。一生遊んで暮らせます」
「ほ、本当か!?」
「静かに」
そのとき、後方から他の農民たちが大声を出した。
「おーい、ファッゴ! どうした?」
「そこに何かいるのか?」
するとファッゴは慌てて声を張り上げる。
「何でもねえ! いや、毒蛇が出やがった!」
「マジかよ!? どこだ!?」
ファッゴはさらに叫ぶ。
「わかんねえ! 踏もうとしたら逃げやがった! そっち行ったかもな!」
「冗談じゃねえぞ、おい避けろ避けろ」
「このへんは探さなくていいだろ……」
「そうだな、噛まれて死んだら褒美もクソもねえや」
農民たちはファッゴとファルファリエのいる辺りを避け、捜索を続けていく。山狩りの隊列が通り過ぎて行った後、ファルファリエは彼に宝石を手渡した。
「ありがとう、助かりました」
「いや……うん」
仲間を騙したのが気まずいのか、ファッゴはおずおずと宝石を受け取る。
ファルファリエは彼が裏切らないよう、こう付け加えた。
「変な気は起こさないでください。この銃口は用心深いですし、私が捕まればあなたが賄賂を受け取ったことを暴露しますよ」
「だ、大丈夫だから。ほらもう早く逃げちまってくれ」
ファッゴは仲間を追って、慌てて森の中に消えていった。
「ふう……」
腰が抜けるほど安堵したファルファリエだったが、すぐに移動を開始した。ここが安全とは限らない。そのまま南へ向かう。敵の魔術師はジロ・カジャを追って北に向かったはずだ。
必死に歩き続け、ときおり休息しては砂糖を舐める。野外活動には行動食が不可欠だと、マルデガル魔術学院で教わっていた。
(甘いものは良いと、スバル殿が言っていたな)
彼の顔を思い出し、ふと心細くなる。
水を持ち出す余裕はなかったので、ジロ・カジャが事前に調べておいてくれた沢で喉を潤した。安全な水場だという。
そして砂糖壺が空になる頃、ようやく日没が訪れた。
(ここからが勝負か)
実はファルファリエはまだ窮地を切り抜けられていない。ジロ・カジャがいない今、ファルファリエの居場所は学院側にもわからないからだ。
(どうにかして念話を成功させないと……)
隠れていてもどうにもならない。救援が引き揚げてしまったらファルファリエは終わりだ。
だから敵に居場所がバレることは覚悟の上で、救援側に自分の居場所を知らせる必要がある。
ただ、ファルファリエは念話を成功させたことが一度もなかった。
(大丈夫、ジロ・カジャさんがコツを教えてくれた)
ファルファリエは白猫との会話を思い出す。
『心の壁……ですか?』
『はい! ファルファリエ様は本音と建前をかなり明確に区別してますよね?』
『それはまあ、認めますけれど』
『念話初心者は本音の方がうまく伝えられるんです! 心の壁が心の声を遮断してしまうって、マスターが言ってました!』
(本音かあ)
ファルファリエは額を押さえる。過去の練習では、本音を念話にして伝えようともした。だがうまくいかなかった。
それもジロ・カジャによると「本音を心の壁越しに伝えようとしたから」だという。
(難しい……)
そもそも帝室の人間が本音を口にすることなどありえない。全ては周到な配慮と計算によってなされるものだ。皇女の発言にはそれだけの重みがある。
(本音……本音……)
沢の水を水筒に詰めながらぼんやりと考える。
不意にスバル・ジンの顔が脳裏をちらついた。
身だしなみにはまるで無頓着そうな黒い髪。実用一辺倒の鞄やブーツ。
愛想が悪いかと思えば、意外なぐらい親切にしてくれる。
戦えば恐ろしく強いのに、笑うとまるで無垢な子供のようだ。
彼の顔を思い浮かべると、なんだか安心する。
(これはまさか恋? いえ、彼と結ばれたいという願望は全く……いやほとんど……まあ、そんなにはない気がする)
スバル・ジンは、どことなく亡父を思い出させる。全面的に信じても大丈夫だという不思議な安心感。
この感情が何なのか自分でもわからなかったが、これは嘘偽りない「本音」だろう。建前でこんなことは言えない。
(いやいや、これを念話にして飛ばすのは無理だろう。無理、無理)
頬をパンパンと叩く。
と同時に、ジロ・カジャの言葉をまた思い出した。
『ファルファリエ様の場合、恥ずかしくて絶対言えないようなのが本音ですからね! 本音を言うんですよ!』
『わ、わかりました』
『命がかかってるんですからね! 恥ずかしがって死んだらバカみたいですよ!』
『わかりましたから!』
囮になって決死の陽動作戦を展開してくれているジロ・カジャ。
さっき出会ったばかりだが、あの白猫の献身に報いねば皇女として、いや人間として失格だろう。
とはいえさすがに言えないものは言えないので、違う本音を言わせてもらう。
(ありがとう、ジロ・カジャさん)
念話になった感じはしない。
もう一度。
(あなたは命の恩人です、ジロ・カジャさん)
これも本音とは少し違うようだ。
(恥ずかしくて絶対に言えない……)
改めて考えたとき、ファルファリエはハッと気づいた。
自分の本心に。
少し迷ったが、覚悟を決めてそれを叫ぶ。
『ジロ・カジャさん、死なないで! 帰ってきて! 不安なんです! あともっと撫でたい! ふわふわ可愛い! だからお願い、帰ってきて!』
念話が成功した気がする。確信はないが、そんな気がした。
(猛烈に恥ずかしい! いや、今はそれよりも臨戦態勢を)
念話が成功したのなら、ファルファリエの居場所は敵味方に知られているはずだ。すぐにどちらかが現れる。
魔術学院の救援が先か。それとも刺客の魔術師が先か。
そして答えはすぐに判明した。
「そこにおいででしたか、ファルファリエ殿下」
皇帝直属の近衛兵四人を引き連れた少女が、森の暗闇から現れた。見知らぬ顔だ。
ファルファリエは騎兵銃を構える。
「あなたは味方ではありませんね。何者です?」
「神学生のサーリヤと申す者ですよ。殿下をお迎えに上がりました」
言葉遣いは丁寧だが、明らかに敵意を感じる。
近衛兵たちの様子もおかしい。あれは魔法で操られているようにしか見えない。しかも死体のようだ。
ファルファリエは躊躇わなかった。
「あなたを敵と認識しました。降伏しなさい。さもなければ撃ちます」
「ははっ」
彼女が笑った瞬間、ファルファリエはサーリヤの胸を狙って発砲した。
だが銃弾はサーリヤの手前で止まり、衝撃でぐにゃりと潰れて地面に落ちた。
「ふむ。即座に殺しに来るところは先帝と同じですな。野蛮人の王に相応しいというか」
「叔父上に何をしたのです!?」
「それが知りたければ、これからあなたに同じことをしてあげますよ」
サーリヤが唇を歪めて笑う。あんなにおぞましい笑い方をする人間を、ファルファリエはまだ見たことがなかった。
騎兵銃の弾は撃ってしまったが、まだ着剣した銃剣がある。
踏み込んで刺突しようとすると、サッと近衛兵たちが立ちはだかった。短槍をデタラメに振り回し、ファルファリエを力任せに殴り倒す。
「うぐっ!?」
「おとなしくなさい。悪い話ではありません。あなたを皇帝にしてあげましょう。ギュイはどうにも役に立ちませんから」
「どういう……?」
するとサーリヤは面倒臭そうに溜息をつく。
「察しの悪い小娘ですね。あなたの脳をいじくって私の操り人形にするんですよ。その上で帝国の全権を掌握します」
「ならばここで自害するまでです」
「いけませんよ、すぐに死ぬだの殺すだのと。命を粗末にすると罰が当たります」
サーリヤがそう言ったとき、頭上から懐かしい声がした。
「同感だな」
次の瞬間、青白い稲妻が近衛兵たちの体に絡みついた。頭が次々に弾け飛ぶ。
「うわっ!?」
サーリヤだけはかろうじて魔法の壁で防いだが、衝撃は凄まじく尻餅をついてひっくり返る。
轟く雷鳴と共に、放電する槍を携えた少年がふわりと舞い降りた。
「ファルファリエ殿とジロ・カジャの勝利だ。ジロ・カジャが稼げたのはたった一手だが、その一手の差で間に合った」
ファルファリエは思わず叫ぶ。
「スバル殿!?」
「ジンでいい。そういう約束だろう?」
ジンはそう言って笑ってみせた。
そしてジンはサーリヤに向き直ると、放電する槍を構えた。真っ暗な森の中で、青白い光に照らされたジンの表情は恐ろしいほどに険しい。
「お前、俺たちの学友を酷い目に遭わせたな?」
雷光が森を青白く照らした。