01
私の両親は政略結婚による仮面夫婦だった。
いつだって家の中は冷え切っていて、人前以外で二人が仲良くしているのを見たことはなかった。
そんな中である日伝えられた王太子殿下との婚約話に私は目の前が真っ暗になるのを感じた。
こんな時だけ共に舞い上がっている両親とは反対に私の心はただただ沈んでいく。
そして感じるのは嫌悪。吐き気すらした。
何が光栄なことなのか。一度も話したことすらない相手がある日婚約者になったなどと聞かされ、政略結婚で冷え切った仲の両親の姿を散々見てきて、一体誰が喜べるというのだ。
それだけでなく、今まで如何に勉学などを頑張ったところで褒めてくれなかった両親が私の意思ではない婚約で「よくやった」なんて……両親を憎いとすら思った。
望むものは何一つ与えられず、望まないものばかりが与えられる。
殿下との婚約が決まった日の夜、私は自室で嗚咽を堪えながらひたすら泣いた。
貴族の家になんて生まれなければと、どうにもならない現実に打ちひしがれた。
あの日、レオ様に出会うまでは………。
□
「ん…」
初めに感じたのは眩しさ。それに続いて感じたのは肌寒さだった。
閉じていた目をゆっくり開けるものの、光の眩しさに緩慢な動作で腕を持ち上げ光を遮った。
暫くしてから横たえていた身体をそっと起こす。すると被っていた筈の掛布が少し捲れていることが確認でき、感じた肌寒さはこのせいかと理解した。
夢見が悪かったせいで寝相が荒れていたのだろうかと未だ覚醒しきらない頭で考える。
どうせ時間が戻るなら殿下の婚約者になるより前に戻りたかった。そうなれば何が何でも婚約者にならないで済むように振る舞ったのに。
両親から叱責されようが勘当されようが何だってしたのに。
そうすればレオ様に出会うこともきっとなかったのに…。
数日前、死んだはずなのにと自室のベッドで目を覚ました時は酷い混乱に襲われた。
確かに首を切って死んだはずなのにと己の首に手を這わせてもそこには何の違和感もなく、それならば自分はただ夢を見ていただけなのかと考えた。
夢にしては何もかもが現実味を帯びすぎており、とても夢だなどとは思えなかった。
そして夢ではなかったのだと理解したのは、私の自室のテーブル上にあった見覚えのあるナイフを見た時だった。これは私の私物ではなく学園の調理室に常備されているものだ。
シルヴィーの件で殿下に呼び出されたあの日、私はレオ様の反応次第では自決でもしようかなどと考えていた。それはぼんやりしたもので、手首を切ってみようかくらいのものだったのを覚えている。
首を切ることはあの時あの瞬間に思いついたことだった。そうすれば私は確実に命を落としレオ様の記憶にも刻まれるだろうと、悪魔が囁いたような気がしたのだ。
今思うとそれは狂気的で何て傲慢な考えだったのだろうかと、じわりじわりと後悔が押し寄せてくる。
私は自分勝手な思いからあの場にいた全員にトラウマのようなものを植え付けただけだったのではないだろうかと。
最後に見たレオ様の顔を思い出し、喜んだあの時とは反対に胸が痛み苦しくなった。
そう考えながら、ふとあれが夢でないのだとしたら私はどうして自室で無傷で寝ていたのだろうか。
それが時間が戻っているからだとわかったのは私を起こしにきたメイドとの会話でだった。
普段と様子の変わらないメイドが困惑している私を余所に「今日から十二年生ですね」と何気なく言ったのだ。
私がシルヴィーに嫌がらせを始めたのは十二年生になり少し経った頃だ。だから私は既に十二年生になっていないとおかしい。
混乱しながらも必死に平静を装い「今日は何日だったかしら」と尋ねた私に返ってきたメイドの言葉は衝撃的なものだった。それは私が死んだはずの日から半年以上も前の日付だったからだ。
そんなこと俄かには信じられるはずもなかった私が信じざるを得なくなったのは、その日からの出来事が全て記憶に残る出来事と寸分違わず同じだったからだ。
何が起こったのかはわからない。けれど何故か時間は巻き戻っている。
その現実を受け入れたときに思ったのは、“どうすればいいのかわからない”だった。
このまま同じことを繰り返し、またあのような心が抉られる程の絶望を感じたくはない。
私の願いも祈りも何も叶えられはしなかった。絶望以外なかったのだ。
それに後悔の押し寄せる今、もうあのような暴挙にでることもできないし、したくない。
そしてふと思うのはレオ様から憎しみではない感情をもらうことはできないのだろうかということ。
何度振り返っても何かもっと他に出来ることがあったのではないだろうかと思わずにはいられない。
ただ、シルヴィーに優しく接するレオ様を見てしまうとどうしても心が折れてしまいそうになるのだ。
あの子がいる限りレオ様が私をあのような顔で見てくれることはないのではないだろうかと。
そうして私は結局何もできなくなってしまうのだ。
更に気になるのは殿下だ。殿下がシルヴィーに好意を持っていることは間違いない。しかし殿下は私と婚約している。そのあたりをどう考えているのかがわからなかった。
それはシルヴィーに対してもだ。彼女の気持ちは誰にあるのだろうか。
考えれば考えるほど時間が戻る前の私は何も見えていなかったのだと認識する。全てレオ様を中心に私の一方的な思いだけで動いていたのだと。
それは何て愚かなことだったのだろう。
……ああ…だから私の願いも祈りも何も叶わなかったのか…。
私は酷く泣きたい気持ちで眩しいばかりの窓の外を見つめた。