影女(かげおんな)3
「好きです。付き合って下さい」
冬の気配が近づきつつある、とある日の放課後。誠は同学年の女生徒に告白された。肩ほどで切りそろえられている黒い髪をふわりと揺らし、頭を下げてくる少女。黒目がちの瞳を潤ませ、頬を紅潮させているそれを見遣りながら、しかし誠は心の中で溜息をついた。
またか。
誠はそれどころではないのだ。彼女をつくって遊び歩く時間があるなら、自分がこの町から出る準備を整えたかったし、そもそもこの地で誰かの記憶に強く残ることを避けていた。そんな面倒なことは御免だ。
だから、彼の中の定型文を持ち出す。
「ごめんね。誰かと付き合うとか、今はまだいいかなって思ってるんだ」
健全な男子中学生として異性の少女に興味がないはずもなく、誠もその点では女の子を嫌っているというわけではなかった。もし、幸せな普通の家庭のままでいられたなら、憧れと優越を感じて、とりあえず付き合ってみようという気持ちぐらいにはなったのかもしれない。
けれど、現実は違う。誠の家は普通の幸せを持ち得ているとは言い難かったし、身近な異性は幼少の彼に裏切りという概念を叩きこんでくれた。
「私、本当に及川くんのことが好きなのよ」
誠の中で女というものはどこか享楽的で刹那的で、一か所に留まらない幽鬼のような存在だった。何かの犠牲の上にしかその身を確立できない、厄介なもの。大人になってさえそうなのだ、未完成の少女が違うと言い切れる要素はどこにもなかった。
「ほんとうに、すき?」
それは何を以てして言い切っているのだろう? 『本当に好き』だというのなら、今すぐ彼を忘れてくれるのか。及川誠なんて存在しなかったかのように振る舞えるというのか。ふつふつと湧きおこる疑念。けれど。
「でも、ごめん。俺はそれには応えられないよ」
彼の問いは、音にはならずに消えていく。
泣き出されるか心配だったが、それも杞憂に終わった。なかなか成熟した少女だったらしく、それ以上食い下がりもせずに彼女は「時間を取ってくれてありがとう」と言い残して去って行った。
そういう意味では、誠好みの女の子だった。えげつないことを思いながら溜め息を吐く。すると。
「かわいい子だったじゃない。どうして振っちゃったの?」
「長谷川先輩……」
不意に学園の女王の声が聞こえてきた。驚いて辺りを見回せば、校舎の陰から凛とした姿がするりと現れる。
「いつからそこに?」
「告白を断っている辺りから」
「どうして」
「生徒会であなたを探していて。立ち聞きするつもりはなかったのよ、ごめんなさい」
潔く頭を下げる彼女に、盗み聞きされたという苛立ちは端から湧き起こらなかった。もしかしたら誠が告白を受けた側だからかもしれないが。
「言った通りですよ。付き合ったりするのは今じゃなくていいかな、って」
花純からの問いに誠が笑顔で答えると、ふうん、という気の抜けた返事が返ってきた。気が抜けているはずなのに、心の底を見透かすような返事。誠は場の雰囲気を変えようと、彼女の用事を問うた。
「ああ、生徒会室に備品が届いたのよ。それを仕分けしてほしくて探していたの」
「他の人たちは?」
「全員、今度ある学校説明会の準備にまわってもらってるわ」
生徒会は万年人手不足だ。ただでさえやることが山積みだというのに、冬になると入学式の準備などで教員からもお呼びがかかる。しかし3年は受験が迫っているため、必然的に2年生である誠は毎日のように何かしらの仕事に取り組んでいた。
「わかりました」
「私も手伝うわ」
「でも、先輩は……」
例に漏れず花純も受験生だ。生徒会長という役職は卒業まで担うため、仕事をすること自体に異議はない。しかし、流石にそろそろ勉強を優先した方がいいのではないのだろうか。
そんな誠の心の内を読み取ったのか、女王は艶やかに微笑みながら、言った。
「大丈夫よ。それに、ちょうど及川くんと話したいこともあったから」
生徒会室に辿り着くと、これでもかとばかりに積み上げられた段ボール箱が迎えてくれた。生徒会長曰く、これがすべて備品らしい。一番近くに置いてあった箱を開けると、なぜかコピー用紙が入っている。
「これ、生徒会じゃ使いませんよね」
「ああ、職員室から発注された備品も混ざっているみたい。後で持っていかなくちゃね」
飄々と言い放つ花純を見ながら、誠は安堵の息を漏らした。手伝ってくれて助かった。とてもじゃないが、誠一人でこの量の備品整理をするのは気が滅入る。
「さ、やっちゃいましょう」
「はい」
コピー用紙が入った箱は置いておいて、他のものにとりかかる。次は色とりどりの画用紙で、花純曰くそれは生徒会のものらしい。誠は箱ごと持ち上げて、画用紙を入れる棚まで運んだ。黄色、オレンジ、ピンク、赤、緑、青。そのどれもが学生生活でよく見かける色なのに、彼にはどこか縁遠いものに感じる。きっと釦に言ったら同じような返事がくるのだろう。最近は生徒会が忙しくて碌に図書館に行けていないから、余計に彼女の反応を知りたくなってしまう。
この仕事が早めに終わったら、久しぶりにあの秘密の空間に行ってみようか。長谷川は今頃、何の本を読んでいるのだろう。
「釦が、ね」
ドキッとした。突如として放たれた音は、紛れもなく釦の姉のもので。考えが読まれているのかと思い、咄嗟に彼女の方を見る。しかし当の本人は無心に鋏とのりを所定の棚に放り投げていて、誠の挙動に気付いた様子ではない。
「最近、雰囲気が変わったのよ」
「変わった?」
「そう。今までは、なんていうか……自分の感情を見せない子だったんだけどね。近頃は、本当に稀だけど意見を言うようになって。何があったのかしらね」
そう言って、誠の方を見遣る。少しだけ吊り上った赤々とした口端は、すべてを見通しているとでも言いたげで。彼はいたたまれなくなって目線を逸らした。
「さあ、俺には」
釦と誠が話すようになったのは、確かに最近のことだ。しかし、だからといって彼女に影響を及ぼしたのが誠の功績だと言い切れるはずもない。もしかしたら誰も知らないところで、彼女の内面を変化させる事象があったのかもしれないのだから。
けれど、尚も花純は言い募る。
「及川くん。私はね、人間が変化するには他者の存在が不可欠だと思うの」
随分と遠回しな言い方だ。女王らしくないその言い方に、誠は意図せず眉根を寄せる。
「色々な人と関わってこそ、成長するってこと。ずっと一人で部屋の中に籠ってたら、誰の影響も受けずにただ無駄に時間が過ぎていくだけよ。一人でいることほど無意味なことはない」
それは、どうなのだろうか。確かに部屋に閉じこもっているだけで成長できるとは思わないが、そこまで全否定するのには違和感を覚える。
しかし、花純は滔々と続ける。
「だからね、あの子が変わったのは誰かと接するようになったからだと思うの――例えば及川くんとか」
「確かに、俺は妹さんと挨拶くらいはしますが……それだけです」
ほんの少し、嘘を吐く。
仮に釦の変化の原因が誠にあったとしても、彼は釦と図書室で時々話していることを、誰かに知ってほしいとは思わなかった。誠としては釦が特別な人間だと思われるのが嫌だったし、それは彼女も同じだろう。
釦は誠の内面に踏み込まない。というより、恐らく興味がない。だからこそ本音を言うことができるのだし、上辺だけの無意味な話をする必要もないのだ。彼女は誠の精神世界にほど近い存在で、それを現実の薄汚れた場所に引きずり出すつもりは毛頭なかった。「女」などという下賤な括りに彼女を入れたくなどなかったのだ。
そんな誠を生徒会長はどう思ったのか。形の整った眉を少しだけ上げて、そう、と呟く。そうなの。
「それなら、どうでもいい話をしたわ」
「いえ」
うまく話を終えられたことに安堵しながら、誠は再び目の前の画用紙を持ち上げた。今日中に終わらなかったら、明日も黙々と作業をしなくてはならない。受験生を明日も駆りだすのは気が引けるし、他のメンバーと一緒にやるとなると騒がしくなるだろう。
そんな誠に、美しい女帝は再び声をかける。
「及川くん」
「はい、なんですか」
「私と付き合いましょう」
間。誠の双眸が開かれる。
「そ、れは」
「釦と仲がいいなら、こんな話はしなかったけれど。彼女とは別に何でもないんでしょう?」
「確かに……そう、ですが」
「だったら、私と付き合わない?」
冗談だと思った。月並みな言い方だが、彼女の口ぶりは職員室に行かない、というのと同じくらいに気軽で気さくで、先刻告白してきた少女のような緊張感は微塵も感じられない。表情に変化はなく、ただ一か所、瞳だけが面白そうに揺らめいている。そんな誠の内心を見透かしたのか、彼女は再び口を開く。
「嘘でも、気まぐれでもないわ。本気よ」
「それにしては、唐突ですね」
ようやく頭が状況に追いついてきて、誠も普段のペースを取り戻す。
「だって、私たち、とっても似ていると思わない?」
似ている。それはかつて誠も同じことを思った。
「平等で公正で、人望がある。完璧な生徒でしょう」
「それを自分で言ってしまっては、いけないような気もしますが」
苦笑いをするが、実のところ同意見だ。二人とも、優秀な子供として周囲から認知されている。教師は生徒会長が子供のように喚きたてるなんて想像だにしていないだろうし、誠が誰かを憎んでいるなんて思いつくことさえないだろう。
なるほど、これは協定だ。口元に薄い笑みが広がる。
「わかってくれたみたいね」
「俺と先輩が付き合えば、完璧さはいっそう磨かれる、誰も文句など言えなくなるでしょう。それに、恋愛の面倒事にも巻き込まれなくて済むってことですね」
「そういうことよ。付き合うって言っても、及川くんが望まないならデートも何もしなくていいわ。学校内の都合のいい時だけお互いの名前を使うってことで。どう?」
魅力的な提案だ。特に綻びも見えないし、面倒事はすべて省略してくれるという。彼女は誠のことが好きなわけではないだろうし、もうすぐ卒業で顔を合わせることもほとんどなくなる。記憶にだって残らないだろう。
いいですね、と喉元まで出かかって、はたと気付く。
釦が知ったらどうなるだろう。
後になって、ここでどうして長谷川釦のことを気にかけたのか、及川誠は何度も自問したが、結局のところ答えは出なかった。けれど彼女の姿が脳裏をよぎったことによって、寸でのところで言葉を飲み込んだ。
「俺は、名目上だけだとしても、誰かと付き合うつもりはまだないです」
完璧な女王と付き合えば、誠の評価は何の憂いもなくなるだろう。お似合いの二人。
でも、誠と似ているのは、それだけではない。彼女は釦を軽蔑している。誠が樹里を軽蔑しているように。無力な人間を自分の都合で虐げているところまでそっくりだ。まるで鏡のように。
誠が丁重に断ると、花純はくすりと笑う。「残念」と。さして残念な様子も見せずに、笑いながら言った。
そうして何事もなかったかのようにてきぱきと備品整理をし、時に冗談を言って笑わせ、普段通りの支配者らしさを見せつけた彼女は、活動終了時刻になるまでに粗方の品物を片付けてしまった。
「これでほとんど終わったわね。あとは及川くんだけでできるかしら」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
誠が頭を下げると、花純は艶のある髪を耳にかけながら、それって、と続ける。
「手伝いのことかしら。それとも告白のこと?」
ここでわざわざ「告白」という単語を使うのは、罪悪感を持たせようとしてのことなのか。誠が少し困った表情をすると、「冗談よ」という返事が返ってきた。
「協定を結ぶ気になったら、いつでも言って頂戴。それじゃあね」
そうして、いつかの時のように彼女はくるりと踵を返した。女王らしく、凛とした姿で。小さくなっていく背中を見送りながら、誠はぼんやりと考えた。
釦と話すようになって、いつの間にか彼女に対して悪い印象がついてしまっていたが、実際に話してみれば、そんなことはない。花純は完璧で公平な素晴らしい人間だ。釦が思っているより、ずっといい人なのだと。怖がる必要なんてないのだと。
けれど、同時に、思う。完全無欠な支配者ではなく、誰とも話さず意見もいえない一般生徒。彼女に。
釦に会いたい、と。
大変遅くなりました。すみません……。




