第24話 人間界帰還申請書
両親を知っているはずなのに、居場所が分からないという目の前の男を、流生は見つめた。
「二人は、お前が生まれたころに、この学園を離れた。それ以来、少なくとも俺は会っていない。」
男の言葉を確かめるように流生がぬらりひょんを見ると、ぬらりひょんは机の書類へ目を落としたまま、静かにうなずいた。
「学園に残されている正式な出入りの記録にも、お二人が戻られた記録はございません。」
「でも……。」
流生はサッカーボールを抱える腕に力を込めた。
「だったら、このボールは何なんですか。これは、この学園から送られてきたんです。」
その言葉で男の視線が、流生の腕の中にあるサッカーボールへ移る。
「箱についていた荷札に、差出人の名前は書かれていたか?」
「名前……?」
流生は誕生日に届いた箱を思い出した。
何度も見返した荷札に書かれていたのは、北海道摩周湖一ノ一という住所だった。父親や母親の名前を見た覚えはない。
「……書いてなかったと思います。でも、おばさんが、父さんと母さんからだって。」
じゃあ、おばさんが嘘をついたってこと?
男が、流生の顔へ視線を戻した。
「また顔に出ているぞ。俺は、お前のおばが、嘘をついたと疑っているわけじゃない。」
頭の中を言い当てられ、流生はとっさに口をつぐんだ。
「で、でも荷札はスマホで写真に撮りました! それを見れば、もしかしたら……。」
流生はサッカーボールを片腕で抱え、椅子の脇に置いたリュックへ手を伸ばした。
「この学園では、人間界の電子機器は妖気と相性が悪いため使えません。」
ぬらりひょんの落ち着いた声を聞き、流生は自分のスマホが使えなくなっていたことを思い出した。
「荷札に学園の住所があったからといって、お前の両親が送ったとは限らない。今、分かっているのは、何者かがお前にこのボールと白札を送ったということだ。」
「何者かって……。」
両親が送ってくれたのだという流生の確信が、初めて揺らぐ。その瞬間、流生の腕の中で、サッカーボールが急に重くなったように感じられた。
「じゃあ、誰が送ったというんですか?」
得体の知れない不安をぬぐい去るかのように、思わず声が大きくなった。
「それをこれから調べる。」
男は、机の上の白札を親指で示した。
「この白札が、偶然、そのボールと一緒に入っていたとは考えにくい。お前をここへ呼ぶためだった可能性はある。だが、誰が、何のために送ったのか。お前の両親と関係があるのか。それは、まだ分からない。」
「調べたら、父さんと母さんの居場所も分かりますか?」
男はうなずかなかった。
「分かるとは約束できない。」
流生の胸が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。
「だが、何も調べずに、お前を人間界へ追い返すつもりもない。」
流生は驚いて、男の顔を見つめた。厳しい表情は少しも変わらず、優しそうにも、味方になってくれそうにも見えない。
それでも男は、流生が泣いても、話を途中でやめさせなかった。分からないことは分からないと言い、これから調べるとも言ってくれた。
怖い人だけど、ちゃんと聞いてはくれるんだ。
ガラガラ。
ぬらりひょんが机の下の引き出しを開けると、古い家の戸を閉めたときのような、木のきしむ大きな音が面談室に響く。
ぬらりひょんが中から二枚の紙を取り出し、机の上の白札を挟むように、一枚ずつ並べた。
一枚には、
『人間界帰還申請書』
もう一枚には、
『妖怪学園仮入学届』
そう書かれていた。
「流生さんには、これからのことを決めていただかなければなりません。」
ぬらりひょんは、『人間界帰還申請書』を指し示した。
「こちらは、人間界へ帰るための書類です。帰ることを選ばれるなら、ご家族に連絡を取り、ご自宅へ戻れるよう手配いたします。」
次に、『妖怪学園仮入学届』へ指を移す。
「こちらは、この学園にしばらく残るための書類です。寮で暮らし、授業を受けながら、白札とご両親の手がかりを調べることになります。」
流生は腕の中のサッカーボールを抱えたまま、二枚の紙を見比べた。
それはただの書類ではなく、流生の前で分かれた道のように見える。二枚の紙を見つめたまま、流生は動けなかった。
帰る方を選べば、茨城の家へ戻れるようにしてもらえる。おじさんとおばさん、結人もいる。空手の道場へ通って、黒帯の試験を目指す生活に戻れるのかもしれない。
もう一枚を選べば、妖怪ばかりのこの学園で、授業を受けて、寮で暮らすことになる。
スマホも使えない。校舎を一人で歩けば迷うかもしれない。人間の流生にとっては怖いし、何もかも分からないことだらけだ。しかも肝心の父親と母親の居場所が分かる保証さえなかった。
流生は二枚の紙の間で、何度も視線を行き来させた。
「……どっちにしたらいいと思いますか?」
流生は、向かい側に座る男へたずねた。
「俺に決めさせるのか?」
男は流生の問いに対して、さも馬鹿にしたように聞き返した。
「だって、先生なんですよね。」
「くだらない。」
男は流生の前に並ぶ二枚の書類へ目を向けた。
「人間界へ帰ることも、ここに残ることも、お前自身のことだ。俺がお前の代わりに決めるつもりはない。」
冷たい言い方だった。
流生は膝の上でサッカーボールを抱え直した。けれど、突き放されたようには感じなかった。
帰れとも、残れとも言わない。自分で決めろって、言われてるんだ。
「残れと言われて残ったのでは、お前はまた、誰かに決められたと思うだろう。」
流生はハッとして、男の顔を見た。この男は、どうしてそんなことまで分かるのだろう。
親がいないことも、茨城のおじさんとおばさんに育てられたことも、流生が決めたわけではない。十二歳の誕生日に、突然サッカーボールが送られてきたこともそうだ。
全部、勝手に決められてきた。けれど、北海道まで来ると決めたのは俺だ。
一人で飛行機に乗り、知らない駅の地下へ降り、0番線の列車に乗った。怖くても、逃げずにここまで来た。
誰かに連れてこられたわけではない。俺が来たくて、来たんだ。
流生は、二枚の書類の間に置かれた白札を見た。この札を送ったのは誰なのか。なぜ自分を妖怪学園へ呼んだのか。父親と母親は、今どこにいるのか。
何も分からないまま帰ったら、きっとずっと後悔する。
流生は男から借りた手ぬぐいで、頬に残っていた涙と鼻の下をぬぐった。
「俺……ここに残ります。」
男は何も言わず、流生を見つめている。
「ご両親が見つかる保証がなくても、ですか?」
ぬらりひょんが確かめるようにたずねた。流生は一瞬だけ迷い、それから、はっきりとうなずいた。
「それでも調べたいです。このボールを送ったのが誰なのかも、白札のことも、自分で確かめたい。」
言葉にすると、流生の胸の中にあった迷いが、少しだけ小さくなった気がした。
「あの……おじさんとおばさんには、俺がここにいることを伝えられますか?」
「人間界への連絡については、学園から手配いたします。」
ぬらりひょんは答えると、書類へ向かって、ふっと息を吹きかけた。
すると、『妖怪学園仮入学届』がひらひらと宙に浮かび、流生の前まで飛んでいく。それと同時に、小さな足の生えた硯が、細い筆を背負って流生のところまで歩いてきた。
「それでは、こちらの書類へお名前を。」
流生はサッカーボールを膝の間に挟み、慣れない筆を握った。紙の上に構えた筆先で、墨のしずくが小さく震える。
できるだけ慎重に書き始めたが、最初の「流」は少しだけにじんだ。それでも、「生」の最後の横線は、迷わずまっすぐに引いた。
ぬらりひょんが指で合図をすると、仮入学届がふわふわと浮かび、ぬらりひょんの手元へ戻っていく。流生の名前の下へ、朱色の判がひとりでに押された。
ポンッ。
静かな面談室に、乾いた音が響いた。
「確かに受理いたしました。これより流生さんを、妖怪学園の仮入学生としてお預かりいたします。」
ぬらりひょんが静かに言った。流生は肩の力を抜いて筆を置き、こっそり小さく息を吐いた。
本当に、決めてしまった。
急に心配になって男の方を見ると、向かい側の椅子は、いつの間にか空になっていた。
「あれ?」
名前を書くことに夢中で、男が席を立ったことにも気づかなかった。
「さっきの先生は?」
「必要なお話が済みましたので、戻られたのでしょう。」
ぬらりひょんは、男がいつの間にか席を立っていたことなど、何でもないように答えた。流生は手元に残った紺色の手ぬぐいを見る。
まだ返していないのに。
流生は手ぬぐいを膝に置き、机の白札をポケットへしまった。それからリュックを背負い、ボールと手ぬぐいを持って立ち上がった。
ぬらりひょんが面談室の扉を開けると、そのすぐ横の長椅子から、豆ノ介が勢いよく立ち上がった。事務机の方にいた赤い前掛けの老人も、流生へ顔を向ける。
豆ノ介は、目を真っ赤にした流生の顔を見て、あからさまに心配そうな表情を浮かべた。しかし、何があったのかは聞かずに、さっきまでと同じ口調で流生に声をかける。
「終わった?」
「うん。」
「人間界に帰るの?」
流生は首を横に振った。
「俺、しばらく、この学園に残ることになった。」
豆ノ介の顔が、パッと明るくなる。けれど喜んではいけないと思ったのか、すぐに口元を引き締めた。
「そっか。」
それでも、うれしそうな声までは隠せていなかった。
「じゃあ、夕飯、一緒に食べられるね。今日の夕食には、うちの豆腐が使われてるから美味しいよ。」
「あ……楽しみだな。」
流生は腕の中のサッカーボールを見た。
父親と母親には会えなかった。
荷物を送ったのが誰なのかも、まだ分からない。
それなのに、今日会ったばかりの豆ノ介の一言で、流生の胸にあった不安が少しだけ軽くなった。
「豆ノ介さん。」
ぬらりひょんが穏やかに呼びかける。
「流生さんを食堂まで案内していただけますか。その後の寮への案内は、こちらから係の者へ伝えておきます。」
「はい!」
豆ノ介は今度こそ、うれしそうに返事をした。
流生は一度だけ振り返った。開いたままの面談室の扉の向こうに、名前を書かなかった『人間界帰還申請書』が見えた。
大丈夫だよな……?
どちらを選んでも、後悔は残るのかもしれない。
それでも、これは流生が自分で選んだ道だった。流生はサッカーボールを抱え直し、借りたままの紺色の手ぬぐいを手に、豆ノ介と一緒に職員室を出た。
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