プロローグ:虐殺の夜
エクロニアの世界 ―― 堕ちた七英雄
真夜中。エクロニア王国。
鉄の臭いが空気に満ちていた。降り出しそうな雨のせいではない。王宮の中庭に溜まった血の臭いだった。
マヤは侍女のローブをきつく握りしめ、廊下を駆け抜けた。心臓が激しく打っている。走っているからではない。息の詰まるような静寂のせいだった。衛兵たちはどこにいるのか。夜通し響いているはずの足音は、どこへ消えたのか。
中庭に辿り着いた瞬間、彼女の足は凍りついた。
死体が散乱していた。王国最精鋭の衛兵数十名が、不自然な姿勢で倒れている。半ば抜きかけた剣を握ったままの者もいた。反応するよりも早く、死が訪れたかのように。
そして、その惨状の中心に、一つの人影が立っていた。
背の高い男。風になびく黒い外套をまとい、暗い金属の仮面で顔を覆っている。目も口もない、のっぺりとした面が、淡い月光をかすかに反射していた。剣の切っ先からは、鮮血がまだ滴り落ちている。
マヤは叫ぼうとしたが、喉が干からびて声が出なかった。人影は振り向きもしない。彼女の存在など、影ほどの価値もないと言わんばかりに。
そのとき、渦巻く風の音が静寂を破った。
大気がうねる。枯れ葉が完璧な旋律を描いて舞い上がり、空から一人の男が、制御された嵐のように舞い降りた。
風の英雄ロイド。エクロニア七英雄の一人である。
銀髪をなびかせ、鋭い青の瞳で辺りを見渡す。その視線が凍りついた。唇がわずかに開く。目の前の光景が信じられないようだった。
「これは……」彼は囁いた。「精鋭の衛兵が全員……わずか数分で?」
その目が仮面の人影に向く。「お前がやったのか?」
返事はない。
ロイドはにやりと笑ったが、その奥には迷いが忍び寄っていた。「英雄を騙る殺人者、ってわけか。お前みたいな手合いには、もううんざりなんだ」
優雅に手を振ると、風が彼の周囲で渦を巻いた。旋風は凝縮し、音速で飛ぶ見えない刃となる。王宮の壁に亀裂が走り、木々がへし折れ、大地が爆発に遭ったかのように抉れた。
土煙が舞い上がる。
視界が晴れたとき、人影はまだそこに立っていた。微動だにせず、ほんのかすり傷を負っただけで。
「ありえない」ロイドが吐き捨てた。
次の瞬間、仮面の人影は姿を消した。
マヤが瞬きする間もなかった。人影はロイドの背後に現れ、完璧な影の動きで、剣を英雄の首へと振り下ろしていた。
ロイドの本能が反応した。背後に風の壁が立ち上がる。
ガキィン!
剣は、鋼のように硬い風の壁に受け止められた。だが、そこで恐ろしいことが起きた。
赤い炎が刃に絡みついたのだ。焼くのではなく、吸い取る炎。ロイドの風の壁にひびが入り、やがてガラスのように砕け散った。
剣が突き抜ける。
ロイドには反応する暇がなかった。刃が肩を裂き、致命的な傷を刻む。血が噴き出した。
彼はよろめき、膝をついて、荒い息を吐いた。「何者だ……お前は……」
仮面の人影が一歩ずつ近づく。その声は低く響いた。まるで底知れぬ暗い穴の奥から届くかのように。
「ロイド。風の英雄。正義の守護者」
周囲の風が静かに吹いた。
「お前はただの嘘つきだ」
マヤは、ロイドの体がこわばるのを見た。
「十年前の『掃討作戦』で、お前は数十の家族から子供たちを奪った。犠牲と呼んでいたが、お前が殺したのは、死ぬべきではなかった子供と老人だ」
「それは……それは……」
「正義か? 法か? 犠牲か?」人影は剣を掲げた。「偽りの善の名のもとに、あと何人殺すつもりだ?」
ロイドは立ち上がろうとし、力のかぎり風を呼んだ。だが、力は消えていく。肩の傷は普通の傷ではなかった。何かが、内側から彼の力を蝕んでいた。
剣の先に炎が灯る。
「もう終わりだ」
シュッ。
――
マヤは固く目を閉じた。
勇気を振り絞って目を開けたとき、ロイドはもう動かなかった。王国中があがめた七人の守護者の一人、風の英雄は、衛兵たちの亡骸と共に横たわっていた。
仮面の人影はしばらくそこに立ち、やがて背を向けた。その足取りは静かだった。今起きたことが、ただの夜の日課であるかのように。
マヤは願った。このまま去ってほしい。この悪夢が終わってほしい、と。
だが、人影は足を止めた。その頭が、彼女のほうへ向く。
仮面に目はないのに、マヤは確かに視線を感じた。
「王宮の侍女」
その声に、骨まで震えた。
「他の者たちに、私の伝言を伝えろ」
マヤは無意識のうちに頷いていた。
人影は影の中へと歩み入り、一瞬で姿を消した。初めから存在しなかったかのように。
残されたのは、鉄の臭いと、静寂と、王国全土を震撼させることになる一つの名だけだった。
その者は、ラクシャと呼ばれた。
英雄ではない。
悪人でもない。
悪を正義と呼ぶ者たちにとっての、生ける地獄。
――つづく。




