第30話「はじめの一歩」
火曜日の夕方。
澪の家に、ひよりがやってきました。
新しいエプロンを持って、目をキラキラさせて。
今日は、料理教室の日。
二人のキッチンに、笑顔が溢れます。
それでは、第30話、どうぞ。
火曜日の夕方。仕事を終えて、会社を出た。
今日は、いつもより早く帰らないと。ひよりが来る。
駅前のスーパーに寄った。今日、ひよりに教える料理の材料。
卵焼きと、味噌汁。
シンプルだけど、基本が詰まっている。
卵も1パック買い足した。
失敗することも考えて、多めに用意しとかないと。
それから、豆腐、わかめ、長ネギ。
味噌汁の材料だ。
レジを済ませて、マンションに向かった。
部屋に着いて、エプロンをつける。
時計を見ると、六時半。
ひよりが来るまで、あと三十分。
キッチンを片付けて、調理器具を準備する。
フライパン、ボウル、菜箸、まな板、包丁。
ひよりが使いやすいように、並べておいた。
六時五十分。
インターホンが鳴った。
早い。
ドアを開けると、ひよりが立っていた。
大きなバッグを抱えて、満面の笑み。
「澪さーん! 来たよ!」
「早いわね」
「うん、楽しみで楽しみで! 仕事終わってすぐ来ちゃった!」
ひよりは、靴を脱いで上がってきた。
「これ、エプロン買ってきた!」
バッグから、真新しいエプロンを取り出す。
ピンク色に、小さな花柄。
ひよりらしい、明るいデザインだ。
「可愛いじゃない」
「でしょ! 今日、お昼休みに買ったの! これで料理するんだって思ったら、ワクワクしちゃって!」
ひよりは、目を輝かせていた。
その顔を見て、私も嬉しくなった。
「じゃあ、早速始めましょうか」
「はい!」
ひよりは、エプロンをつけた。
私も、自分のエプロンをつける。
二人で、キッチンに立った。
「今日は、卵焼きと味噌汁を作るわ」
「卵焼き……日曜日に失敗したやつだ」
ひよりは、少し苦笑いをした。
「大丈夫。今日は、ちゃんと教えるから」
「うん! お願いします!」
まず、卵焼きから。
私は、卵をボウルに割った。
「まず、卵を割る時はね、平らなところで割るといいわ」
「平らなところ?」
「ええ。ボウルの縁とかじゃなくて、テーブルとかまな板とか」
私は、もう一個、実演して見せた。
コツン、と軽く卵をテーブルに打ち付けて、ヒビを入れる。
そして、両手で開く。
殻が入ることなく、綺麗に割れた。
「おお……」
ひよりは、感心したように見ていた。
「じゃあ、ひよりもやってみて」
「はい!」
ひよりは、卵を手に取った。
少し緊張した顔。
コツン。
テーブルに打ち付けた。
でも、力が弱かったのか、ヒビが入らない。
「もう少し、強くていいわよ」
「こ、こう?」
コツン。
今度は、少し強すぎた。
卵が割れて、黄身が流れ出た。
「あっ!」
「大丈夫、大丈夫。慌てなくていいから」
私は、流れ出た卵をボウルに入れた。
ひよりは、もう一個挑戦する。
今度は、ちょうどいい力加減。
綺麗にヒビが入って、割れた。
「できた!」
「上手よ」
ひよりは、嬉しそうに笑った。
残りの卵も、ひよりが割った。
少しずつ、慣れてきたみたいだ。
「じゃあ、次は混ぜるわね」
私は、菜箸を手に取った。
「卵を混ぜる時は、白身を切るように混ぜるの。あまり泡立てないように」
私は、ゆっくりと混ぜて見せた。
「こんな感じ」
「はい」
ひよりは、真剣な顔で見ていた。
「じゃあ、砂糖と塩を入れるわね」
私は、小さじで砂糖を計った。
「砂糖は、小さじ一杯。塩は、ひとつまみ」
「計るんだ……」
ひよりは、呟いた。
「日曜日、適当に入れちゃった」
「料理は、基本的には計った方がいいわ。慣れたら目分量でもいいけど、最初はちゃんと計る方が失敗しないから」
「なるほど……」
ひよりは、真剣にメモを取り始めた。
スマホで、写真も撮っている。
「じゃあ、混ぜて」
ひよりは、菜箸を受け取って、混ぜた。
少し力が入りすぎている。
「もっと優しく、ね」
「はい」
ひよりは、力を抜いて、ゆっくり混ぜた。
「そう、それでいいわ」
卵液ができた。
次は、焼く。
「じゃあ、フライパンを火にかけるわね」
私は、卵焼き用のフライパンを火にかけた。
「油を入れて、温める。煙が出るくらいまで」
フライパンから、煙が立ち上ってきた。
「よし、じゃあ卵液を入れるわよ」
私は、お玉で卵液をすくって、フライパンに流し込んだ。
ジュワーッという音。
卵が広がっていく。
「少し固まってきたら、奥から手前に巻いていくの」
私は、菜箸で卵を巻いた。
くるん、くるん、と。
ひよりは、じっと見ていた。
「おお……」
「これを何回か繰り返すの」
また卵液を流し込んで、巻く。
三回繰り返して、卵焼きが完成した。
まな板に移して、切る。
断面は、綺麗な層になっている。
「すごい……」
ひよりは、感動したような顔をしていた。
「じゃあ、次はひよりがやってみて」
「え、私?」
「そうよ。見てるだけじゃ、できるようにならないから」
「う、うん……」
ひよりは、少し緊張した顔になった。
フライパンを洗って、もう一度火にかける。
「油、入れて」
「はい」
ひよりは、油を入れた。
少し多い。
「もう少し少なくていいわよ。大さじ一杯くらい」
「あ、こんなもの?」
「ええ。じゃあ、温めて」
煙が出てきた。
「卵液、入れて」
ひよりは、お玉で卵液をすくった。
手が少し震えている。
フライパンに流し込む。
ジュワーッ。
「おお、いい音!」
ひよりは、嬉しそうだった。
「少し固まってきたら、巻いて」
「う、うん……」
ひよりは、菜箸を持った。
でも、どう巻いていいか分からない様子。
「奥から手前に、ね」
私は、ひよりの後ろに立って、手を添えた。
「こう、ゆっくりと」
一緒に、卵を巻いた。
「あ、巻けた!」
「そう、その調子」
ひよりは、一人で巻き続けた。
少し不格好だけど、ちゃんと巻けている。
「次の卵液、入れて」
「はい!」
また流し込んで、巻く。
二回目は、少しスムーズになった。
三回目。
もう、ひよりは一人でできている。
「できた!」
ひよりは、満面の笑みだった。
まな板に移して、切る。
断面は、私のよりは不揃いだけど、ちゃんと卵焼きになっている。
「できたよ、澪さん! 卵焼き、できた!」
ひよりは、子供のように喜んでいた。
その顔を見て、私も嬉しくなった。
「上手よ。初めてにしては、すごくいい」
「本当?」
「ええ。じゃあ、味見してみましょう」
二人で、卵焼きを食べた。
私のと、ひよりのと。
「美味しい……自分で作った卵焼き、美味しい!」
ひよりは、目を輝かせていた。
「これ、本当に私が作ったの?」
「そうよ」
「すごい……なんか、感動しちゃった」
ひよりは、もう一切れ食べた。
本当に、嬉しそうだ。
「じゃあ、次は味噌汁ね」
「はい!」
味噌汁は、もっと簡単だ。
鍋に水を入れて、火にかける。
豆腐を切って、わかめを水で戻す。
長ネギも、小口切り。
「包丁は、こう持つのよ」
私は、包丁の持ち方を教えた。
ひよりは、真剣に聞いている。
「反対の手は、猫の手ね。指を丸めて」
「猫の手……」
ひよりは、手を丸めた。
ちょっと不格好だけど、大丈夫。
「じゃあ、切ってみて」
ひよりは、ゆっくりと長ネギを切った。
少し太さがバラバラだけど、ちゃんと切れている。
「いいわよ。その調子」
「うん!」
鍋のお湯が沸いてきた。
豆腐とわかめを入れる。
「味噌は、お玉に取って、少しずつ溶かすの」
私は、実演して見せた。
「こうすると、ダマにならないから」
「なるほど……」
ひよりは、また写真を撮っていた。
「じゃあ、ひより、やってみて」
「はい!」
ひよりは、お玉に味噌を取った。
お湯に浸けて、菜箸で溶かす。
「そう、それでいいわ」
味噌汁が完成した。
最後に、長ネギを散らす。
「できた!」
「お疲れさま」
二人で、テーブルに料理を並べた。
卵焼きと、味噌汁。
シンプルだけど、温かい食卓。
「いただきます!」
ひよりは、嬉しそうに手を合わせた。
まず、味噌汁を一口。
「美味しい……自分で作った味噌汁、すっごく美味しい!」
ひよりは、目を細めた。
「なんか、泣きそう」
「大げさね」
「違うよ! 本当に感動してるんだよ!」
ひよりは、卵焼きも食べた。
「これも美味しい……日曜日のは、なんだったんだろう」
ひよりは、笑った。
「でも、分かった。ちゃんと計って、ちゃんと手順を守れば、ちゃんとできるんだね」
「そうよ。料理は、基本が大事なの」
「うん。今日、よく分かった」
ひよりは、また味噌汁を飲んだ。
「澪さん、ありがとう。教えてくれて」
「どういたしまして」
「これから、ちょっとずつ練習するね。で、いつか澪さんに美味しいごはん作ってあげる!」
「楽しみにしてるわ」
私は、微笑んだ。
ひよりの、その前向きな姿勢。
一度失敗しても、すぐに立ち上がって、また挑戦する。
その強さが、ひよりの魅力だ。
そして、私はそんなひよりの力になれた。
それが、嬉しい。
食べ終わって、二人で片付けをした。
ひよりは、洗い物を手伝ってくれた。
「今日、すっごく楽しかった」
ひよりは、皿を拭きながら言った。
「料理って、楽しいんだね」
「そうね。私も、好きよ」
「うん。なんか、分かった気がする」
ひよりは、にっこり笑った。
「これから、いろいろ作れるようになりたいな」
「少しずつ、ね」
「うん!」
片付けが終わって、二人でソファに座った。
お茶を淹れて、ゆっくりする。
「そういえば、金曜日もまた来ていい?」
ひよりは、聞いてきた。
「もちろん」
「やった! じゃあ、金曜日は何作るの?」
「それは、金曜日のお楽しみ」
「えー、教えてよー」
ひよりは、甘えるように言った。
私は、少し笑った。
「じゃあ、ヒントだけ。秋の味覚よ」
「秋の味覚! さんま? きのこ? 栗?」
「金曜日まで、楽しみにしてて」
「もう、意地悪!」
ひよりは、笑った。
窓の外を見ると、もう真っ暗だった。
秋の夜。
二人でお茶を飲みながら、他愛もない話をする。
料理のこと。
仕事のこと。
週末のこと。
そんな、何気ない時間。
でも、この時間が、私は好きだ。
ひよりがいる時間。
賑やかで、楽しくて、温かい。
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。
「そろそろ、帰らないと」
ひよりは、立ち上がった。
「ありがとう、澪さん。今日、本当に楽しかった」
「こちらこそ。また金曜日ね」
「うん! 楽しみにしてる!」
ひよりは、エプロンをバッグにしまった。
玄関まで見送る。
「じゃあね、澪さん!」
「気をつけて帰ってね」
「うん! おやすみなさい!」
ひよりは、手を振って階段を降りていった。
ドアを閉めて、部屋に戻る。
静かになった部屋。
でも、さっきまでのひよりの笑顔が、まだ残っている気がした。
私は、キッチンに立った。
綺麗に片付いたキッチン。
でも、さっきまでここで、ひよりと一緒に料理をしていた。
その時間が、温かい。
ソファに座って、お茶を飲んだ。
今日は、特別な火曜日だった。
いつもは金曜日にしか来ないひより。
でも、今日は火曜日に来た。
そして、一緒に料理をした。
ひよりの、あの嬉しそうな顔。
「できた!」って喜ぶ顔。
自分で作った料理を食べて、感動する顔。
その全部が、私も嬉しかった。
これから、ひよりは少しずつ料理を覚えていく。
そして、いつか本当に美味しいごはんを作れるようになる。
その成長を、見守っていけたらいいな。
私は、窓の外を見た。
秋の夜空。
星が、綺麗に見えた。
もうすぐ冬が来る。
季節は、どんどん変わっていく。
でも、ひよりとの時間は、変わらない。
これからも、ずっと続いていく。
そう思うと、なんだか安心した。
私には、ひよりがいる。
ひよりには、私がいる。
お互いに、足りないところを補い合いながら。
一緒に、成長していける。
そんな関係が、私は好きだ。
大切にしたい。
これからも、ずっと。
私は、お茶を飲み干した。
明日も、仕事。
水曜日、木曜日。
そして、また金曜日が来る。
ひよりが来る。
次は、何を作ろうか。
秋刀魚がいいかな。
それとも、きのこご飯?
考えるのが、楽しい。
ひよりの喜ぶ顔を想像するのが、楽しい。
私は、ベッドに向かった。
布団に入って、目を閉じる。
今日は、いい日だった。
特別な、火曜日。
そして、これからも続いていく日々。
ひよりと一緒の、温かい日々。
それを楽しみに、私は眠りについた。
静かな夜。
でも、心は温かい。
ひよりがくれた、温かさ。
それを胸に、私は夢の中へと落ちていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
ひよりの料理チャレンジ、成功しましたね。
卵焼きができた時の「できた!」という喜び。
自分で作った料理を食べて感動する姿。
読んでいて、こちらまで嬉しくなりました。
澪も、ひよりに教えることで喜びを感じている。
二人の関係が、また一歩深まった回でした。
次回は水曜日。
また日常が続いていきます。
それでは、また次回お会いしましょう。




