11-28 バターと喧騒
今しばらく話し込んでいる内に、またゴォン、ゴォンと、遠くから鐘の音が聞こえ始めた。
皇宮では夕三つ半の閉門の後に鐘を鳴らすことは無いのだが、夕三つの鐘は先程鳴ったはずだから、これは夕四つの鐘だ。時計のない空間に閉じこもって過ごす選議卿達のために、この五日間だけ特別に鳴らされている鐘なのかもしれない。
それを機に養父も「そろそろ人も減っただろう」と言い、食事のために席を立った。
十分に空腹を感じてもいい時間だろうにあまりそんな気がしないのは、それなりに一日緊張感に包まれていたせいであろうか。それでも何も食べないというわけにはいかないので仕方なく席を立ち、食堂へ向かった。
東棟の食堂は一階の北西。サリニャック侯らの部屋がある並びの二階下になる。外に面する部屋がほとんどないこの禁事棟にあって、ほぼ唯一と言っていい大きな窓と小さなバルコニーが付随した開放的な部屋だ。
一階といっても下に半地下の地階があるので、高さもある。またすべての選議卿とその近侍だなんだが一堂に会してもまったく狭苦しくないほどの広々とした部屋なので、多少薄暗さは際立つものの、そんなに重苦しい部屋でもない。おかげで共用の食堂で食事をするだなんていう気の乗らない状況も、思ったほど気鬱にはならずに済んだ。
今ほどに広々と開放的な窓のありがたみを感じたことは無いと思う。
「ガラスというのは偉大な発明だわ」
「平常時なら何を言ってるのと突っ込むところだけど、さすがに同意見だなぁ」
どうやらリディアーヌの思ったことは皆も思ったことだったようで、肩を揺らして笑ったマクシミリアンしかり、閉鎖的な部屋が似合うフィリックすらも、「否定はできませんね」などと言った。
せめて部屋や廊下の灯りがもっと眩いくらいであればこんな気分にもならなかっただろうに。
リディアーヌ達が思わず食堂の解放感に安堵をしたのと同様に、どうやらこの解放感から離れがたい心地を抱く人は多かったようで、食事が済んでもこの場に残っている人達が多くいた。わざわざ遅い時間にずらしたのに未だに人が沢山いることに養父は口を曲げていたけれど、彼らの気持ちも分かる。
そんな中でもひときわ賑やかなのは、辟易した様子のヘイツブルグ大公をとっつかまえて上機嫌に話しかけているダグナブリク公であろう。あの人の怖いもの知らずさは、まったく驚嘆を通り越して称賛に値する。あのヘイツブルグ大公相手に肩に手をまわして笑えるだなんて、相当である。
食堂の食事は基本的にすべてビュッフェ形式だ。毒や混入物が怖い皇帝戦という時分、全員が等しく同じ器から目の前で料理を盛られて食するというスタイルをとることで、少しでも危険性を減らす配慮なのだろう。
勿論、王侯ともあろうものが自ら食器を手にうろうろと料理を物色はしない。きちんと整えられたテーブルを前に腰を下ろせば禁事棟付の侍従が飲み物を運んできてくれるし、近侍の侍従達が慣れた手つきでお皿に料理を取り運んできてくれる。元々そうした配膳は侍従の仕事なので皆手慣れたものである。
養父はパトリックやケーリックにも座るようにと促したので、ランデル卿とクラウス卿が皆の分の配膳に立ち、フランカが手伝いに着いて行った。日頃侍従達は一人で複数人の配膳を担当するものなので、三人もいれば十分である。それにフランカはリディアーヌのことを分かってくれているので、今の気分にちょうどいい、重たくない小ぶりで食べやすい物をチョイスしてくれた。
選議卿達はみな思い思い、バラバラの時間に食事をするため、並んでいる料理はほとんどが冷めても食べられるものだ。スープだけは軽く温めてあったが、冷たく硬さのあるパンがなんともわびしい。
皇宮の料理人が作っているのだから味は悪くないのだろうが、あまり舌に刺激を感じないのは致し方のない事なのだろう。
まぁどうせたったの五日間だ。不味くなくてお腹が満たされるならうるさいことは言わない。
ただし、パンのために沿え置かれたバターだけは絶品だった。
まるでバタークリームのような滑らかな食感とチーズのような豊潤さに、ほのかな木の香り。脂っこさはないがずっしりと舌へのインパクトは大きく、後味に爽やかな酸味を感じる。
「おいしい……」
思わず呟いてしまったところで、「これ、どこのだろう?」とマクシミリアンもしきりに首を傾げていた。ただ少し物申しにくそうに困った顔をしたフランカを見ると、嫌な予感もする。
「はぁ……そういえばクロイツェン北部は乳製品が著名な大牧草地帯だったわね……」
「えっと。はい……」
苦笑したフランカに、やっぱりか、と思う。
つまりこの大変美味なバターはクロイツェン産で、フランカもそうと知りながら供したわけだ。
そりゃあまぁ、クロイツェンは直轄領と国境も面しているし、ここ何代もクロイツェンから皇帝が立っているのだから、クロイツェンとの交易が盛んになっていたってちっともおかしくない。この皇帝戦に最中によりにもよってクロイツェン産のバターに一番気を取られたというのは悔しいが、生憎とそうときいても手が止まらない美味しさである。これは致し方ない。
そんなことに少し憮然とした心地を抱きつつ食事を半ば消費したところで、どこからか甲高い女性の金切り声のようなものが聞こえてきて視線をさまよわせた。
はて、気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。確かにどこからか、ひどく憤慨したようなきつい女性の声がする。
そう思ってすぐに思いついたのは三人しかいない女性の選議卿の中の一人、カーシアン女伯だったが、生憎とその女伯はこの食堂の離れた場所でティーカップを片手にラルカンジュ侯らと話し込んでおり、彼女も声に気が付いた様子できょろきょろと視線を巡らせていた。
だとしたら……。
「コランティーヌ夫人?」
あの闊達だが上品な夫人がまくし立てるように声を張り上げているところなんてあまり想像できない。だから何かの間違いかとも思ったのだが、つられるようにざわざわと食堂の周囲がざわめきだすと、何やらのっぴきならない空気が漂い始めた。
すぐに察しよく外に様子を伺いに行ったのはエリオットで、そのエリオットが廊下に顔を出しほどなくチラと振り返るのを見ると、今度はフィリックが席を立った。どうやらエリオット一人では判断できない何かが起きているようだ。
「皆様はお席をお立ちにならず、お待ちいただきますように」
すかさずクルシュ副騎士長が今にも席を立ちそうなリディアーヌを見ながら口を挟むものだから、「そのくらいの我慢は持ちあわせているわよ」と口を尖らせながら、パンにバターをたっぷりと乗せた。うむ、おいしい。
その内にエリオットに何か指示しながらフィリックが戻ってくると、席には付かず、養父の傍に立って隣のリディアーヌにも聞こえるよう、声を潜めつつ報告してくれる。
「北棟で、セトーナのアブラーン殿下を狙った毒の混入事件があったようです」
「ふぅ……」
よりにもよってこの食事時に、毒物混入の話題とは。
一気に食欲が失せた。
「詳細は?」
「生憎と夜間は北棟との通路が閉ざされますから、情報が行き交っていないようです。そのせいもあってセトーナ派のコランティーヌ夫人が騎士に『せめて状況をきちんと説明しなさい』とまくし立てておいでです。ひとまず耳にする限りアブラーン殿下自身に変事は無かったようですが、所属医務官だけでなく聖職者が呼ばれたようですから、周囲に被害はあったのではないかと」
確かに、医師ではなく聖職者が呼ばれたということは毒に対する薬の知識が必要とされたのだろう。あちらでも毒味の類は徹底していたはずなので、その手の役を担っていたアブラーン王子に近しい誰かが代わりに被害を受けた可能性はある。
これを耳にしてすぐ、被害を受けたのがアルトゥールやリュシアンの周囲でないならいいや、などと思ってしまったことは我ながらに薄情で、それどころか動揺して騒いでいるセトーナ派を見て、この騒ぎでセトーナの不安定さが浮き彫りになりアブラーン王子の求心力が低下したりしないかしら、なんて考えが過ってしまったことについては、さすがに自分で自分に『いや、それは無いわ』とどん引いたものである。
そのせいもあってすっかり食事の手が止まってしまったのだが、あろうことかうちの朴念仁な鬼畜文官は、「あの調子で大騒ぎしていただけると、セトーナ派の票を削りやすくなりますね」と、誰もが胸の中に潜めた言葉を堂々発言してくださった。
「……」
「……」
「……えぇ。まぁ……ええ……」
思わずシンと場が静まり返り、誰もが手を止めてしまったのは致し方のない事である。ただ一人、弟の情のなさと歯に物着せない物言いに、実の兄パトリックだけが深いため息を吐き、「末っ子の育て方を誤りましたことを父に代わり謝罪いたします」と呟いた。
薄暗く閉鎖的な禁事棟。虫の声もせぬ閑散とした空間に響き渡る心配と焦燥が入り混じったどこか遠くの叫び声。慌ただしさと冷静さが壁一枚を隔てて混在する、なんとも奇妙で独特な空間。
これが禁事棟。これが、選帝議会――。
「食欲が失せたわ。部屋に帰ってもいいかしら?」
「よその騒ぎをツマミにのんびり談笑できるくらい図太くなければ、五日も持ちませんよ、姫様」
「必要ない図太さだと思うのだけれど……」
「ですがそこで図太く居座り、情報を収集することもまた姫様の仕事です」
「たまには自分から、『私に任せてどうぞお休みください』って労わってくれてもいいのよ?」
「そうしても構いませんが、今お部屋に帰ったところで何がどうなったのか気になって休めない姫様の姿が簡単に目に浮かびます」
「……」
私よりも私を分かっているこの側近は、何故リディアーヌに関する理解力だけは高いのだろう。その他人に対する理解力を、もう少しだけ余所に向けてくれてもいいものを。
でもおっしゃる通り。早く部屋に帰ってしまいたい気持ちと、この場の成り行きがどうなるのかを見ていたい気持ちが混在し、結局観念して深く椅子に腰を沈めたまま、バターを乗せたパンだけをぼそぼそと頬張った。
あぁ、バターがおいしい。
「ひとまず落ち着きましょう、夫人」
「この状況で落ち着いていられますかっ、ノヴェール伯! とにかく殿下に会わせてくださいな。ひと目見てご無事を確認できれば私もこれ以上うるさく騒ぎは致しません!」
「ですが……その。規則ですので。それに王子殿下には何ら問題はなく……」
「その言葉がどこまで信用できるのかと言っているのです!」
あぁ……折角のバターが残念になるくらいの固いパン。
あとはヴァレンティンのすっきり辛めの林檎酒と、干した果物。それにパンを温める火鉢があればいいのだけれど。
皇帝戦最初の被害は北棟、セトーナで起きた。
今の皇帝候補達の状況を考えても皇帝候補同士でつぶし合おうとしたとは考えにくいから、あるいはこの機に乗じたセトーナ内部の問題かなと思わないでもないのだが、しかしこうして当たり前のように何かが起き、なのにそれを確認することも情報を交わすこともできず、ただひたすら閉ざされ、我慢を強いられ、待つことしかできないのが禁事棟らしい。
ある人はそれにやきもきし、またある人はほくそ笑み、そしてまたある人はこんなに近くで騒動が起きながらもまったく無関心のまま、パンを頬張りバターを楽しむ。
情にも欠けるこの混沌とした状況に身を置けば、自然と誰しも思考は鈍り、ねじれ、思いがけない行動に出てしまうこともあるだろう。それもこれも、この禁事棟という独特で閉鎖的な空間が、私達の何かを強く抑圧しているからなのかもしれない。
現に私は、人の命にかかわるこの騒動をバックミュージックにして、平然とバターに舌鼓を打てているのだから。なるほど、これは確かに魔のはびこりそうな五日間だ。
選帝議会はまだ、始まったばかりである――。




