1 アルトの日常
突進してくる大型オークの巨体を前に、俺は半歩だけ左足を引いた。
それだけでいい。
真正面から受け止める必要はない。奴の突進は速いが、直線的だ。肩の入り方を見れば、どちらの足で踏み切るかは分かる。
「三番、下がれ。二歩でいい」
短く言うと、若い隊員が慌てて後退した。その空いた場所へ、俺は体を滑り込ませる。
大型オーク――体高四メートルはある上位種だ。ただの膂力自慢ではない。土魔術を使う。厄介な個体だった。
『グオオオオッ!』
丸太のような腕が振り下ろされる。
受けない。刃を斜めに合わせ、力の方向を横へ流す。腕の重みが刃の上を滑り、俺の右脇を通り過ぎて地面を抉った。土砂が跳ね、頬をかすめる。
衝撃を受け流した分だけ、俺の体勢は崩れない。崩れないから、次が見える。
「詠唱、続けてください。あと十二秒は保たせます」
背後へ声を投げた。
振り返らなくても分かる。第五小隊長クライヴは今、魔剣《炎牙》の奥義を溜めている。刀身に魔力を練り込む間、あの人は動けない。完全な無防備だ。
魔剣の大技には、長い溜めがいる。
それは魔剣騎士団では誰もが知っていて、誰もが軽視している事実だった。
地面が揺れた。
オークの足元から土の槍が生える。狙いはクライヴ――ではなく、その右斜め後ろの詠唱補助についた魔術兵だ。賢い。頭のいい個体は、必ず柔らかいところから潰しにくる。
間に合うか、ではない。間に合わせる。
俺は踏み込んだ。土槍が地面を割って伸び上がる、その根元。魔術というものは、発動の瞬間に必ず力の中心が生まれる。土がせり上がる位置、空気の張り詰め、地面を走る細かなひび。それらが「ここだ」と教えてくれる。
刃筋を立て、力の中心を斜めに斬る。
土槍は伸びきる前に崩れ、ただの土くれになって散った。
「な、なんで土魔術が……」
「偶然だろ。土が脆かったんだ」
魔術兵たちが何か言っているが、聞いている暇はない。オークの配下、小型の魔物が三体、右翼から回り込んでいる。狙いはやはりクライヴの死角だ。
走る。
速く走るコツは、速く動こうとしないことだ。無駄な上下動を消し、地面を蹴らず、押す。ガルド式でも何でもない、王国式基礎剣術の歩法・第二型。誰でも習う。誰も極めようとしないだけで。
一体目。飛びかかってきた顎の下を潜り、すれ違いざまに首筋へ一閃。
二体目。着地の瞬間を狙って足を払い、転がったところへ切っ先を落とす。
三体目は、俺の足元へ潜り込もうとして――俺がそこにいないことに気づいた時には、もう斬られていた。
三体で四秒。上出来ではない。理想は三秒だった。
「――終わりだ、雑魚どもがァ!」
背後で、世界が赤く染まった。
クライヴの《炎牙》が解き放たれる。刀身から噴き上がった炎が巨大な牙の形を成し、大型オークへ襲いかかった。溜めに溜めた奥義《焔咬》。直撃を受けたオークの上半身が炎に呑まれ、断末魔さえ焼き尽くされて崩れ落ちる。
凄まじい火力だ。それは認める。
魔剣《炎牙》は、王国に現存する魔剣の中でも五指に入る業物だという。
――ただし。
その火力が着弾するまでの十二秒間、誰が敵の突進を逸らし、誰が土魔術を潰し、誰が死角の三体を処理したのか。
それを覚えている者は、この戦場に一人もいなかった。
「見たか、今の一撃! さすがクライヴ隊長だ!」
「これで大型オークの討伐は五体目ですね。昇進は間違いないですよ」
「《炎牙》の炎は今日も美しい……」
隊員たちがクライヴを囲んで沸き立つ。
クライヴは魔剣を掲げ、当然のようにその称賛を受け取っていた。長身に白銀の鎧。赤茶の髪が炎の残光に照れば、なるほど、絵物語の英雄のように見える。
「フン、この程度の相手に手間取らせおって。……おいアルト、残党の確認と装備の回収。それからお前の剣、刃こぼれしているぞ。みっともない」
「……はい、隊長」
俺は頭を下げ、戦場の後始末へ向かった。
刃こぼれは、オークの腕を受け流した時のものだ。量産品の鋼剣に、上位種の膂力は少し荷が重い。それでも折れずに保ってくれた。良い剣だ。
夕日の下、一人で砥石を出し、刃を整える。
シュ、と規則正しい音が響く。
十年前からずっと変わらない、俺の一日の終わり方だった。
◇
王都の騎士団本部、報告室。
「――以上、大型オーク一体および配下十七体の討伐を完了。我が《炎牙》の焔咬をもって、被害なく任務を終えた」
クライヴの声が、堂々と部屋に響いていた。
報告担当官が羊皮紙にペンを走らせる。
「お見事です、バルゼン卿。しかし配下十七体もとなると、詠唱中の護衛はさぞ大変だったのでは」
「無論、俺の指揮によるものだ。隊員を適切に配置し、敵を寄せつけなかった」
よどみのない答えだった。
「アルト補助剣士の働きは……ええと、どう記載しましょう」
「周辺の雑兵を処理した。それだけ書けば十分だろう」
担当官が、ちらりと俺を見た。
確認を求める目だった。この人は多分、何かに気づいている。討伐の数字と隊の編成を突き合わせれば、計算の合わない部分が出てくるからだ。
俺は、何も言わなかった。
言えば、どうなる。クライヴの報告が虚偽だと指摘すれば、小隊は割れる。隊長の面子は潰れ、隊員は俺と隊長のどちらかを選ばされる。次の任務に、その亀裂を抱えたまま出ることになる。
戦場で隊が割れれば、人が死ぬ。
なら、黙っている方がいい。功績など、誰のものでもいい。部隊が回って、誰も死なないなら、それで。
「……記載は以上で結構です」
俺がそう言うと、担当官は小さく息を吐き、ペンを走らせた。
――アルト。周辺の雑兵を処理。
俺の十年は、いつもその一行に収まる。
報告を終えて武具庫へ戻ると、クライヴが待っていた。壁に立てかけられた量産品の剣槍を、つまらなそうに眺めている。
「アルト。明日の選剣式のことは聞いているな」
「はい。新しい志願者の選剣だと」
「ラウル・フェンという。伯爵家の三男でな、剣の筋がいい。魔剣に選ばれるのはまず間違いないと言われている」
クライヴは俺へ視線を寄越した。値踏みするような目だった。
「お前も今年で……何度目だ、選剣は」
「七度目です」
「七度目か」
クライヴは笑わなかった。笑わないことが、嘲笑よりも雄弁だった。
「魔剣はな、アルト。持ち主を選ぶ。血筋、魔力の器、そして才能。剣を素振りした回数で選ぶわけではない」
「……承知しています」
「まあ、明日こそ、お前にも相応の結果が出るといいな」
肩を軽く叩いて、クライヴは去っていった。
相応の結果。
その言葉の意味を、翌日の俺は、嫌というほど知ることになる。




