闇に潜む者
草原の民の軍を率いる総司令官たるバトゥは馬に跨り、見晴らしの良い丘の上にいた。
彼は、夜の静けさの中を愛馬とともに歩くのが好きだった。
あいにく今は周りに部下が大勢いたが。
流石にこのような場所で一人で出歩くことは止められたのだ
愛馬との静かな時間を楽しみたかったというのに、なんとも無粋なことだ。
そばには副官と、護衛として八人の兵を供として連れていた。
いずれも腕の立つ精兵達だ。
甲冑を身に着け、護衛を連れてはいるのだが、何者かに襲われる可能性などほぼ無いと思っていた。
せいぜい、狼などの獣に対する用心程度のものだ。
仕方なく大勢を引き連れて、少し走った後に彼はこの場所へとやってきた。
その場所からはオステンブルクの城壁が見えた。
じきに戦いになる。
その前に町を見に来たのだ。
遠くない未来に自分の支配下に入るであろう町を。
あいにく今宵は新月でぼんやりとした町の影が微かに判断できるだけだが、それでも彼は満足していた。
バトゥはこの国の騎士たちを侮っていた。
奴らは名誉を重んじ、暗殺などと言う手段を嫌う。
暗殺を生業とするような者達がこの近辺には存在しないことも確認してある。
皆イノシシのように突撃することしか知らない連中ばかりだ
それ故にまともに戦えば相当な脅威となるだろうが、馬鹿正直に真正面からぶつかるつもりなど無い。
そうして、しばらく丘の上から街の影を眺めて、充分に満足したバトゥが陣へと引き返そうとしたときだった。
突然、護衛の一人が馬上で体勢を崩した。
皆、何が起きたのかとその護衛の兵士に視線を集中させる。
兵士から何か棒のようなものが生えているのが見えた。
それが矢である事に気づいた時には二人目の護衛が射ち倒され、馬から転げ落ちていた。
「バトゥ様をお守りせよ!」
副官がそう叫び、バトゥをかばうように身を乗り出した直後に、その首を矢が貫いた。
今宵は新月。
辺りは闇に包まれている。
その闇の中にあって、彼らの掲げた松明だけが煌々と輝いていた。
それは弓の射手からすれば、とても良い的に見えることだろう。
「クソ! たいまつを消せ! 急げ!」
そう叫びながら、バトゥは馬の上で身を伏せ、馬の体が盾となるように左側に体を傾けた。
その体勢のまま、彼は馬を走らせた。
だがすぐに馬がバランスを崩す。
馬が射られたのだととっさに判断したバトゥは飛び降り、地面を転がる。
倒れた馬に駆け寄り、その体の陰に身を隠した。
この馬以外に周りに障害物は存在しない。
隠れる場所などどこにも無い。
それは相手も同じである筈だが、敵の姿はどこにも見当たらなかった。
バトゥが馬の影に隠れた直後に松明を持っていた二人の兵が続けざまに射抜かれ、落馬した。
残るのはバトゥ一人だ。
いったい何者なのか?
騎士という、あの馬鹿正直な連中が、暗殺などと言う手段を取る可能性は低いと思っていた。
さらにこの地方に暗殺を生業とするような者は存在しなかったはずだ。
だが、現実にこのような危機的状態に陥っている。
バトゥは自分の浅はかさを呪っていた。
部下は皆、ただの一矢で射落とされている。
新月のこの闇の中でだ。
松明の明かりを目印にしたとはいえ簡単なことではない。
敵の弓の腕は相当なものであると思われた。
そうやって、どれほど時間が過ぎただろう?
弓の軋む音が聞こえた。
斜め後方からだ。かなり近い。
さすがにこの暗さではそれなりの距離まで近づかなければ矢は放てないのだろう。
バトゥは腰をかがめ身構えた。
あの弓の腕だ。
相手は確実に急所を狙ってくる。
どこを狙ってくるのかわかっていれば躱すことも不可能ではないだろう。
ヒュッ
弓弦から矢が放たれた音が聞こえると同時に斜め後方へと体を投げ出し転がる。
起き上がると同時に、そのまま音のした方向へと走った。
「何?!」
そこには誰もいない。
弓を引く音は間違いなくこの場所から聞こえたはずだ。
移動する足音は聞こえなかった。
「ヌゥグッ!」
突然、左の太ももに鈍い痛みを感じた。
目をやるとそこには何か棒のようなものが刺さっていた。
痛みをこらえながら引き抜いたそれを見て、バトゥは自分の目を疑った。
それは刃を持たない、先の尖った金属の棒だった。
投擲時の重心の調整のためか、先端のほうが僅かに膨らんだ紡錘形になっていた。
彼はその武器を知っていた。
そして、その武器を使う者達の事を知っていた。
どうして、こんな場所に?
これは遥か東方の島国に存在する暗殺者が使う武器だ。
確か、手裏剣と呼ばれる武器だったはずだ。
黄金の国と呼ばれる東方の島国。
かつて草原の民は、彼らが大陸のほとんどを支配していた時代に、その島国に攻め入ったという。
数十万の軍勢を乗せた大船団を率いて、そのちっぽけな島国へと攻め行ったのだ。
結果は惨憺たるものだった。
その国の戦士達の屈強さは、彼らの中で今も語り継がれているのだ。
その剣は鋭く強靭で、受け止めようとすれば剣ごと両断されたという。
またその鎧は堅牢で至近距離でなければこちらの弓も通用しなかったとのことだ。
戦闘技術においても草原の民の比ではなく、まるで滑るように移動し流れるように剣を振ったという。
草原の民の軍は彼の国の屈強な戦士たちに阻まれ、まともに上陸することすら許されなかった。
屈強な戦士達の支配する国。
そんな国の暗殺者だ。
鋼の如き肉体と精神を持った恐るべき集団だと聞いている。
噂というものは尾ひれがついて伝わるものだ。
だが、自分が今遭遇している相手は噂にたがわぬ恐ろしい相手であることは間違いない。
現にそう遠くない場所で彼を狙っているはずの暗殺者の気配を、彼は全く感じることができていないのだ。
松明の明かりはもう届かない。
この暗さで弓を命中させようとすれば、かなりの近距離から狙撃する必要がある。
だが近付き過ぎれば弓の軋む音で位置がばれてしまう。
相手は、この暗さで鎧の隙間を狙うことが出来る程の至近距離にいるのだ。
にも関わらず、気配が全く感じられないのは一体どういうことなのか?
身をかがめ太腿の痛みに耐えながら、バトゥは思考を巡らせる。
一撃で息の根を止められなければ警戒心が増すだけであるのに、敵はあえて急所以外を狙った。
なぜ急所でもない足などを狙ったのか?
小さい傷を増やし、出血により弱らせるつもりなのか?
だが、そんなやり方をするくらいならもっと効率的な方法があるはずだった。
しばらくして違和感に気付いた。
手足に多少の痺れを感じる。
「やはり毒を塗っていたか!」
冷や汗が流れる。
そして感じる、しびれと嘔吐感。
すぐに応急処置をしなければ、手遅れになるだろう。
だが、姿の見えぬ敵と一対一の状態で応急処置など出来よう筈がない。
その気配は全く感じられないが、間違いなく敵は彼を見ているはずだ。
敵からすれば、急ぐ必要はないのだろう。
毒が回り、身動きが取れなくなった時に悠々とこの首を狩りに出てくるに違いない。
バトゥはこれまでに何度も死線を潜り抜けてきた。
その中でいつの頃からか、他人の殺意を敏感に察知できるようになっていた。
だが、この相手からは殺意は感じられない。何故か?
おそらく、この相手にとって人を殺すということは特別な事ではないのだ。
野の草を刈り取るのと同程度の造作もない作業。
人を殺すという動作をまるで呼吸をするのと同じ次元で行ってしまえる程に熟達している相手なのではないか?
焦りと恐怖が心を支配する。
「おのれ……」
このままではマズイ。
「姿を現せ!」
叫んでみたが、もちろん答えなどあるはずもない。
「毒で弱らせた相手にすら、姿を見せる勇気もないのか!? 臆病者め!」
静寂。
あたりは静まり返ったままだ。
わかっている。こんな安い挑発に乗る相手ではないだろう。
全神経を集中してみるが何の気配も感じられない。
バトゥはうかつに動くことすらできず、息を潜めただじっとしていることしかできなかった。
そうやって、どれ程経っただろう?
遠くから複数の馬蹄の音が聞こえてきた。
音の聞こえた方角に目をやると、松明の明かりが揺れているのが見えた
「バトゥ様! バトゥ様!」
助けが来た。
自分の帰りが遅いのを気にしたものがいたのだろうか?
松明の明かりに照らされた騎馬の集団が近づいてくる。その数は五騎。
本来なら、助かったと安堵するところなのだろう。
だが、人数が少なすぎる。
たった五人ではこの闇に潜んだ暗殺者を倒せるとは思えない。
「来るな! 今すぐ戻って兵を引き連れてこい!」
声を限りに叫ぶ。
「バトゥ様!ご無事でしたか!」
「来るなと言っている!」
近づいてくる部下の浅はかさに苛立ちながら叫ぶ。
「松明を消せ!」
バトゥがその言葉を発した直後、兵の一人が馬から落ちるのが見えた。
兵たちは何が起こったのか理解できぬまま、二人、三人と射倒されていき、すぐに五人全員がいなくなっていた。
後には主を失った馬たちと、地面に落ちて燃え続ける松明だけが残った
弓を引く音は聞こえなかった。
バトゥから離れた場所で弓を射たのだろう。
再び、あたりは闇と静寂に支配される。
夜明けまで持ちこたえれば、この状況を打開する方法も何か見えてくるかもしれない。
だが、おそらく夜明けまでバトゥの体は持たないだろう。
再び助けは来るだろうか?
来たとして、この状況を打開できるだろうか?
そんな事を考えている間に時は無慈悲に流れて行く。
一体どれ程の時間が経ったのだろうか?
手足の痺れは酷くなり、もう走ることすらできそうにない。
何度も嘔吐し胃の内容物も全て吐き出してしまった。
これでは、助けが来たとしても……。
「ォオノレェェエエ!」
残る力を振り絞り絶叫する。
答えは無い。
敵は確かにいる筈なのに何の反応も無い。
バトゥは立ち上がり、歩き始めた。
このままではどのみち死ぬのだ。
少しでも足掻いてみようとそう思った。
だが、数歩歩いたところで足がもつれて地面に倒れこむ。
もはや歩くことすら困難な程に毒が回っていたのだ。
瞼が重い。
彼には分っていた。
今目を閉じれば二度と目を開くことは無いだろうと。
それがわかっているがゆえに必死で抗おうとしてみたが、死神の手を払いのけることはできそうに無かった。
「ォ…ノレ…」
彼が抱いていた焦りと恐怖の感情は、いつの間にか諦めと絶望に取って代わっていた。
こんな……ところで……。
自分は死ぬのか?
こんなところで?
かつて大陸のほとんどを蹂躙し支配した大いなる部族の末裔であるこの俺が?
戦いの中で死ぬのであれば、まだ納得もできたかもしれない。
だが、己を死へと導いた者の姿すら目にすることもできずに死ぬのだろうか?
ゆっくりと瞼が落ちていく。もう抗う気力も残っていない。
彼は目を閉じ、それとほとんど同時に意識を失った。
そして、二度とその目が開かれる事は無かった。
バトゥが最後に目にしたものは眼前に広がる暗闇だけだった。
そうして、彼は自分の命を奪った者の姿を目にする事すら出来ぬまま、その生涯の幕を閉じた。