乱れる心
その日、真十郎の住む小屋にやってきたアンナの様子はどこかおかしかった。
アンナは真十郎に会うといつも満面の笑みで挨拶をしてくれる。
嬉しそうに、楽しそうに、彼女は笑ってくれる。
真十郎はそんな彼女の笑顔が好きだった。
だが、その日の彼女はいつもとは違っていた。
「おはよう、真十郎」
そう言って、アンナは目を細めて微笑んだ。
「おはよう、アンナ」
真十郎は挨拶を返す。
「何かあったのか?」
「どうしてそう思うの?」
「随分と元気が無いように見える」
「そっか……、うん。ちょっと色々あって」
そう言って、アンナは笑みを浮かべたまま、小さく首を傾げてみせた。
真十郎には何故かその顔が今にも泣き出しそうに見えた。
「草原の民の軍隊が来てるのは知ってる?」
「ああ、知っている」
「あの人達、私を差し出せって言ってるんだって」
「君を? まさかそのためにわざわざ軍を率いてきたのか?」
「そう言ってるらしいわ。お父様たちはそんなのはただの建前だって言っているけど」
そう言って、アンナは一旦俯いたあと顔を上げて真十郎を真っ直ぐに見つめた。
「今日、目の前で人が死ぬのを見たの。勇敢な騎士が一人、苦しんで涙を流しながら死んでいった」
言いながら、アンナは辛そうに目を伏せる。
「戦いになったら、大勢の人があんなふうに死んでいくのかって思って……。もし、私の身一つで戦いを回避できるのであれば、そのほうがいいのかもって、そう思ってしまったの」
その言葉に真十郎は眉を寄せる。
「君の家族は、なんと言っているんだ?」
「私を差し出すつもりは無いんだって、そう言われたわ」
それは真十郎の予想通りの答えだった。
ヘルマンやカールがアンナを差し出そうとする筈など無かったからだ。
アンナはじっと真十郎を見つめていた。
その目を見つめているうちに、真十郎は何故か胸が締め付けられるような苦しさを感じはじめていた。
「私ね、好きな人がいるの。どうせ、あなたは気付いてないんでしょうけど」
そう言ってアンナは目を細めて真十郎を見つめた。
「でも、どれほど望んでも、その人と結ばれるのは無理なんだ。だから……どうせ好きな人と一緒になれないなら、誰の妻になるのも同じかもしれないって。それで沢山の人の命が救われるのなら、そのほうがいいのかもしれないって……」
アンナは真十郎の目を見つめたまま言葉を続ける。
「なんでこんな事になったんだろう? 今まで散々わがままを言ってきたから、そのツケが回ってきたのかな?」
そう言って、アンナは再びその顔に笑みを浮かべた。
その笑みを見て、胸が締め付けられるような感覚が強くなった。
その表情は遠い故郷の幼馴染が浮かべていた表情によく似ていた。
忘れられない苦い記憶。
その表情は間違いなく笑みと呼ばれるものである筈なのに、何故か今にも泣きだしそうに見えてしまう。
何か言葉を返さなければと、得体の知れぬ焦燥に駆られて口を開く。
「君を手に入れたとしても、草原の民がこの街から手を引くことはないだろう」
「その時は、私がなんとかするわ。寝ている相手を殺すくらいであれば私でもなんとか出来ると思うから」
その言葉に驚きで一瞬呼吸が止まる。
「本気で言っているのか?」
その真十郎の質問に対して、アンナは曖昧に微笑んだだけだった。
「そんなことをすれば、君も生きてはいられないだろう」
「うん。でも、二人死ぬだけで済むなら、戦いになって大勢死ぬよりはいいでしょう?」
真十郎はそれに返す言葉が見つからない。
「それで大勢の人が救われるなら、そのほうがいいと思わない?」
そうかもしれない。
だが、真十郎にはその考えを受け入れることはできなかった。
彼女にそんなことをさせてはいけないと、そう強く思ってしまった。
「本気で彼らのもとに行くつもりなのか?」
「お兄様には止められてしまったわ。でも……」
アンナの言葉はそこで途切れる。
でも……何なのか? まさか、ヘルマンやカールに気づかれぬように草原の民の陣営に行くつもりだろうか?
「ねえ、真十郎」
そう言って、アンナは真十郎を真っ直ぐに見つめた。
「もしね……もし、私を連れて何処か遠くに逃げて欲しいって言ったら、一緒に逃げてくれる?」
今まさに、誰かのためにその身を差し出そうかという話をしている彼女が、自分だけ逃げ出すことなどありえないように思えた。
だが、もし本当にそれを彼女が望むのだとしたら……。
「君がそれを望むのであれば、俺は全力でその望みをかなえる努力をしよう」
それを聞いたアンナの顔が辛そうにくしゃりと歪む。
その瞳に溜まっていた涙が堪え切れずに頬を伝い流れ落ちた。
「ありがとう」
その涙を隠すように、アンナは俯きながら感謝の言葉を口にする。
「あの日、あなたを助けて本当に良かった。あなたと一緒に過ごした時間は本当に楽しかったわ」
そう口にしながら、アンナは顔を上げ、涙に濡れたままの瞳で真十郎を見つめた。
「一つお願いがあるの」
そう言いながら、アンナは真十郎に近づいた。
「目をつむって」
真十郎は一瞬戸惑ったが、言われたとおりに目を瞑った。
アンナがさらに近づいたのが気配で分かった。
顔にアンナの吐息がかかる。
唇に何かが触れ、そしてすぐに離れた。
目を開けた真十郎の前には、こちらをじっと見つめるアンナがいた。
「ごめんね」
そういってアンナが微笑む。
真十郎は自分の顔が歪んでいることに気付いた。
何故、これほどまでに苦しいと感じるのか彼には理解できなかった。
ただ、彼女のあんな表情を見るのは耐え難かった。
救いを求めるように空を仰ぎ、そして思い出した。
今日がどのような日であるのかを。
正確には、今夜がどのような夜であるのかをだ。
そして、故郷での彼の生業を思い出していた。
……ああ、そうか。
真十郎には彼女のためにできることがあった。
自分にならきっとやれるだろう。
彼女を救うことができるはずだ。
空を見上げながらそう思った。
今日は、かつて彼が得意としていた技を振るうのに絶好の日だったからだ。
「アンナ」
その場を立ち去ろうとしていたアンナは真十郎の呼びかけに足を止め振り返った。
その濡れた瞳を見て、胸が締め付けられるような感覚がさらに強くなる。
だが、今はそんな感情にとらわれている場合ではない。
彼にはやらなければならない仕事が出来てしまった。
それは大事な、とても大事な仕事だ。
「祈るといい」
「え?」
突然の真十郎の言葉に首をかしげながらアンナが答える。
それに構わず、真十郎は言葉を続けた。
「かの草原の民は、大陸のほとんどを支配していた時代に俺の故郷にも攻めてきたことがある。島国である俺の故郷に彼らは大船団を率いてやってきた。だがそのほとんどが嵐によって沈んでしまったんだ。神が我らを守ってくれたのだと、俺の故郷ではそう伝えられてきた」
アンナは泣きそうな表情のまま、真十郎の言葉を黙って聞いていた。
「だから、祈ってみるといい。もしかしたら神が救いの手を差し伸べてくれるかもしれない」
「私はそんな神様に助けてもらえるような人間じゃない。逆に天罰が下ると思うわ」
「俺はそうは思わない。君は素晴らしい女性だ。天罰など下るはずがない」
アンナはしばらくの間、真十郎をじっと見つめていた。
「そうね。そうだといいな」
アンナはそう言って目を細めて笑った。相変わらずの憂いを帯びたままの顔で。
気休めを言っていると取られたのだろうか?
それでも、真十郎が彼女を励まそうとした言葉を嬉しく思い笑ってくれたように見えた。
「ありがとう」
「ああ」
アンナが立ち去るのを見届けてから、真十郎は小屋に戻り準備を始めた。
為すべきことを為さねばならない。そのための準備だ。
真十郎は部屋の奥から漆黒のローブを取り出した。
それは夜の闇に紛れるために用意していたものだった。
今宵は新月だ。夜の闇を暴く月明かりはどこにもない。
これはただの偶然なのだろうか?。
天がアンナを救えと、そう言っているように真十郎には思えた。
だから、祈るといい。
彼女は救われるだろう。
きっと、そういう運命なのだろうから。
たとえ、これが運命ではなかったのだとしても同じことだ。
彼がやるべきことは既に決まっているのだから。
部屋に戻ったアンナはベッドの上で一人考えていた。
もし、本当に自分の身を差し出したとした場合、どうなるだろう?
一晩だけ我慢して抱かれ、油断している隙に相手の命を絶てば良い。
いや、あるいは眠り薬を用意しておけば、もっと速やかに事を運べるかもしれない。
どちらにしろ、その先に待つのは死以外に無いのだが。
自分が勝手な事をすれば父や兄の評判にも傷が付くかもしれない。
だが、全て自分が勝手にやったことだとわかれば、じきに元に戻るだろう。
さらに、自分が蛮族の首領を殺して死んだとなれば、きっと憐れみも集まる筈だ。
父や兄を非難する声もきっと無くなるに違いない。
汚名はすぐに晴れるのではないだろうか?
そう考えるとやはり、自分が身を差し出すのが一番良いようにアンナには思えた。
だが、実際に行動を起こすわけにはいかない。
父や兄を信頼して任せるしか無かった。
それに、真十郎のあんな顔を見てしまった後では、そんなことができるはずもなかった。
辛いことがあったとき、アンナはいつも真十郎に会いに行っていた。
今回もそうだ。
まあ、最近はほとんど毎日通っていたのだけれど。
少しでもいいから彼に甘えたかった。
もう二度と自分に会えないかもしれないという状況になったとき、真十郎はどんな反応をするだろうか?
それを見てみたいと言う気持ちもあった。
アンナの話を聞く真十郎の表情はとても辛そうに見えた。
真十郎のあんな顔を見たのは何年ぶりだろう?
出会ったばかりの頃の彼は、時折、とても辛そうな表情を見せることがあったが、もう随分長い間、彼のそんな表情を見ていなかった。
彼のその表情を見ているうちに本当に別れの時が来たような気になってしまい、涙まで流してしまった。
ごめんね、真十郎。
彼に辛い思いをさせてしまった。
だが、それを申し訳ないという思いと共に感じた喜びの感情。
彼のその表情から、自分の事を案じてくれている事が痛い程伝わってきた。
それが何よりも嬉しかった。
「神様が助けてくれるかも……か」
真十郎はそう言っていた。
アンナはベッドから降り、そのすぐ横の床にひざまずいた。
せめて、真十郎が言ってくれたように祈りを捧げようと思ったのだ。
彼の言ったように朝になったら全てがうまくいっていたならば、どれだけ幸せだろうか。
だが、きっとそんな奇跡は起こりはしないだろう。
それでも、愛する男の言葉通りに祈ってみようと思い、アンナは手を合わせ祈りを捧げ始めたのだった。