草原の民
神聖帝国の東に位置するオステンブルク侯爵領。
複数の国と国境を接するその地は度々外敵からの攻撃にさらされていた。
そのたびにオステンブルク侯の擁する屈強な騎士たちが敵をはねのけ、侵略を防いできたのだった
そのオステンブルグの東に位置する平原に一頭の馬に寄り添うようにしてまたがっている一組の男女がいた。
広大な草原で二人だけの逢瀬を楽しむつもりだったのだ
だが、今はもうそれどころではなくなっていた。
二人は大地を揺るがす馬蹄の音を聞いていた。
その音は直接体を震わせるほどの重く激しい音だった。
一体どれ程の数の馬が同時に走れば、これほどの地響きが起こるというのか?
嫌な予感しかしなかった。
二人は畏怖を抱きながら、高台に登り様子を伺った。
遠方に砂煙が見えた。
おそらく百や千では効かないだろう。
万を超えるであろう騎馬の軍勢が駆けているのが見えた
それが何処から来たものであるのか、彼らにはすぐにわかった。
草原の民。
神聖帝国を脅かし続けてきた遊牧民の軍勢。それに間違いなかった。
彼らはかつて大陸のほとんどを支配下に置いた大帝国の末裔である。
その当時ほどの力は既に無いが、それでも彼らの持つ軍事力は周辺諸国から見れば十分脅威となるものであった。
そして、彼らはかつての栄光を忘れてはいない。
いずれ再び大陸に覇を唱えようという野心を隠そうともせず、頻繁に近隣諸国を襲い略奪を繰り返していた。
また、戦いになるのだろうか?
早く皆にこのことを知らせなければと思い、二人の男女は急いで街へと戻って行った。
その翌日。
オステンブルク候ヘルマンは私室で息子のカールと話をしていた。
国境近くの平原に現れた草原の民の軍が、使者を送ってきたのだ。
友好の使者と名乗るその男が持ってきた書簡には、以下の内容が書かれていた。
軍を率いている総大将であるバトゥという男がアンナを妻として欲していること。
もしその申し入れを受け入れアンナを差し出したなら、草原の民はオステンブルクの人々を同胞として認め導くと言っていること。
それにより、オステンブルクは過去に例が無いほどの栄光を手に入れる事ができるだろうという勝手な言い分も書いてあった。。
そして、もし聞き入れられない場合は草原の民の同胞となる栄誉を拒絶したということであり、その非礼に対する相応の報いを覚悟するようにと、そう書かれてあった。
つまり、断るならばただでは置かないという脅し付きで、奴らはアンナを差し出せと言ってきたのだ。
あまりに唐突で、まったくもってバカげた話だった。
友好の使者が聞いて呆れる。
手紙の文章も、草原の民がオステンブルクに手を差し伸べ導いてやるというような、こちらを一段下に見たものであった
当然受け入れるつもりなど無い。相手もまさかこちらが受け入れるなどとは思っていないだろう。
要するに彼らは喧嘩を売りに来たのだ。
「敵の軍勢は一万二千程と言ったか? 建前とはいえ娘一人を手に入れるためにそれだけの兵を率いてくるとは、なんとも、蛮族らしいではないか」
実際にはアンナのみが目的ではないだろう。
草原の民は卑劣な戦法を好んで使う。
捕虜を盾にして敵の攻撃を防いだり、和平を結んだように見せかけて後ろから襲いかかったりする。
たとえアンナを差し出したとしても隙を見て襲い掛かってくるだろう
そういった連中なのだ。
まあ、はなからアンナを差し出すつもりなどあるはずも無かったが。
ヘルマンの言葉に、向かいに座るカールが答えた。
「はい、ですが我が方の兵は四千程。正面からぶつかるのは賢明とは言えません」
「そうか、援軍はどの程度で到着する?」
「二週間ほどはかかるかと思われます」
「ふむ、それまでは籠城して耐え忍ぶしか無いか。蛮族風情を相手に癪ではあるが」
「了解しました。戦うための準備は既に整えております」
「まあ、そうだろうとは思ったがな」
ヘルマンは満足げに頷きながら答える。
「このことはアンナには秘密にしておけ。余計な心配をかけたくない」
「もちろんです。父上」
カールはそう言って頷いたが、何者かの気配を感じ、部屋の扉へと目をやった。
足早に近づき、扉を素早く開く。
「アンナ? 何をしている?」
扉の前で驚いたように硬直しているアンナに向かって、カールはそう問いかけた。
「あ、あの、お父様にお話があって……」
「今の話を聞いていたのか?」
その質問にアンナはしばらくカールの顔を見つめたあとにうつむいて答えた。
「はい。聞いていました」
カールはしばらく険しい顔でアンナを見つめていたが、やがて小さくため息をついた。
「アンナ、入ってきなさい」
室内のヘルマンから声がかかった。
「もちろん、お前を奴らに渡したりするつもりなど無い。お前が気にする必要はない。いいな?」
「はい、お父様」
「で、用事とは何だ?」
「いえ、あの、大した事では無くて、その……」
「そうか、ではまた今度でもいいか? 今は出来るだけ早く対応を決めねばならんからな」
「はい、ごめんなさい」
「謝る必要は無い。また後でな」
振り返り部屋を出ようとしたアンナにカールが声をかける。
「奴らがお前を欲しているというのは我らを攻撃するための建前に過ぎん。父上もおっしゃったように、お前が気に病むことなど何も無い」
「はい、お兄さま」
そう言ってアンナは微笑み、部屋を後にした。
部屋から出たアンナは先程父と兄が話していた内容を思い出していた。
自分を手に入れるために草原の民がやってきた?
父は自分を差し出したりするつもりは無く、戦うつもりのようだった。
もし戦って負けてしまったらどうなるだろうか?
それを想像すると鳥肌が立つ。
もしそうなってしまった場合はどうしよう?
兄はそんなものは建前だと言っていたが本当だろうか?
女一人のために軍を率いてやってくるような蛮族のものになど、死んでもなりたくなかった。
そんな辱めを受けるくらいなら自らの命を断ってしまったほうがマシだ。
ふと、思いを寄せる狩人の顔が浮かぶ。
真十郎は、もし自分がここから逃げ出したいと言ったら、逃してくれるだろうか?
そして逃げた先でずっと自分を守って欲しいと言ったら、そうしてくれるだろうか?
本気で頼めば、彼は断らない気がした。
そうすれば、彼と結ばれることも可能なのではないだろうか?
「何を、馬鹿なことを……」
自嘲の言葉がこぼれた。
父や兄が敗れなければそんな事態にはならないだろう。
それは最悪の結末であり、たとえアンナの思いが実ったとしてもその先に幸せな未来など無い。
そう考え、アンナは一人ため息をついた。
きっと大丈夫だろう。
父と兄が蛮族を追い払ってくれる。
何も変わりはしない。
すぐにいつもの日常が戻ってくるに違いないと、アンナはそう思うことにした。
真十郎は擬態用のローブで身を隠しながら、丘の上から平原に野営する草原の民の軍を観察していた。
数は一万以上はいるだろうか。
野営地の中央にあるひときわ豪奢な天幕が、おそらく指揮官のものなのだろう。
指揮官のそれには劣るが、周りより装飾の華美な天幕が十二程見えた。
草原の民の軍は百人ごと、千人ごとに部隊を分け、指揮官を配置していると聞く。
多少豪華なそれらの天幕は千人ごとの指揮官のための物だろう。であれば、全軍で一万二千ほどになるのだろう。
戦になるのだろうか?
オステンブルクの兵はせいぜい四千。
それだけでは一万二千の軍を相手にするのは難しいように思える。
城に篭っていれば、援軍が来るまで持ちこたえることも可能ではあるだろうが。
だが、もし戦い、そして敗れたならどうなるだろうか?
アンナやその家族は真十郎にとっては命の恩人だ。
たとえ敗れたとしても何とかして彼らを救いたかったが、領主であるヘルマンやカールは逃げるよりは戦って死ぬことを選びそうな気がした。
おそらく、彼らは最後まで戦士として戦い抜くことを選ぶだろう。
そうなった場合、アンナも死を望むのだろうか?
脳裏にアンナのいつもの笑顔が浮かんだ。
もしそうなった場合は無理やりにでもアンナを落ち延びさせよう。
彼女は戦士ではない。
最後まで残り続ける必要は無い筈だ。
それ以外に自分に何か出来ることはあるだろうか?
弓の腕ならばそれなりに自信はある。
だが、一万二千の軍を相手にただの狩人に何ができるだろう。
せいぜい、弓兵として志願して軍に加えて貰うくらいだ。
今はオステンブルクの軍が草原の民を撃退してくれる事を祈るしかない。
きっと大丈夫なはずだ。
ヘルマンやカールがなんとかしてくれるだろう。
だが、警戒するに越したことはない。
可能な限り偵察は行うべきだろう。
あくる日の夕方。
トーマスとハンスは二人で山に狩りに来ていた。
トーマスは一度一人で狩りをさせてもらえるようになったが、以前のオオカミに襲われた事件以来、また誰かと一緒でなければ狩りに出させてはもらえなくなっていた。
二人が狩りを終え、山から降りている途中で、同じように狩りを終え帰る途中の真十郎と行きあった。
「やあ、真十郎。調子はどうだ?」
ハンスの呼びかけに真十郎は手を振って答える。
「悪くない。君も調子は良さそうだ」
「まあね。今日はもう終わりなんだろ……なんだ?」
ハンスは会話を続けようとしたが、真十郎が手を上げてそれを止めた。
「どうしたの?」
「誰か来る」
尋ねるトーマスに真十郎が短く答える。
真十郎の視線の方向に目をやるが何も見えない。
「誰が来るの?」
そう言って、真十郎の方に視線を戻すが、そこにある筈の真十郎の姿が消えていた。
「あれ? 真十郎?」
しばらくすると、真十郎が見ていた方角から見慣れない人影が二つほど現れ、こちらに近づいて来た。
皮鎧に皮の兜、腰には剣らしきものを身に着け、背中には弓を背負っている。
その姿形から、この辺りの人間ではない事は明らかだった。
トーマスは緊張して身構えた
ハンスも緊張しているのが伝わってくる。
相手がハンス達に気づいて驚いたように動きを止める。
そして、すぐさま弓を構え矢をつがえた。
矢じりの先はハンスに向かっている。
予期していなかった行動にハンスの身がこわばる。
だが、次の瞬間矢をつがえた男に何処かから飛来した矢が突き立った。
男は一瞬硬直した後にパタリと倒れた。矢の飛来した方角に目をやると、そこには弓を構えた真十郎が立っていた。
数瞬前に矢を放ったばかりだというのに、その弓には、すでに次の矢がつがえられていた。
生き残ったもう一人の男が慌てて弓に矢をつがえ真十郎に反撃しようとしたが、既に矢をつがえて弦を引き絞っている真十郎に敵うはずもない。
放たれた真十郎の矢が、男の眉間に突きたった。
「無事か?」
真十郎が二人に近寄ってきて、声をかけた。
ハンスはしばらく呆然としたままで何も答えることができなかった。
ハンスよりも息子のトーマスのほうが早く立ち直っていた。
「父ちゃん、大丈夫?」
「あ、ああ……。何だったんだ? あいつら」
「あれは草原の民の兵だ」
「草原の民? あれがそうなのか?」
ハンスとトーマスは倒れた二人の男に恐る恐る近づいていった。
「殺したの?」
「ああ」
真十郎が小さくうなずきながら答えた。
トーマスはその言葉に息を呑む。
こともなげに人の命を奪ってしまった。
だが、そうしなければ自分たちが殺されていただろう。
あの二人の男は間違いなく自分たちを殺す気だった。
そうして、ふと以前に真十郎に助けてもらったときのことを思い出した。
トーマスは新十郎が戦士だったのではないかと訪ねた。
真十郎は違うと答えたが、やはりそうだったのでは無いだろうか?
それを隠そうとする理由はわからないが、きっと何か口にできない理由があるのだろう。
ただひとつ間違いないことは、また彼に命を救われたということだった。
「こいつらはここで何してたんだろう?」
「おそらく、偵察にでも来ていたんだろう」
「こんな山の中を? それに奴らが陣を敷いているのは街の反対側だよな?」
「近隣の地形を把握するのは戦いにおいては重要な事だ」
「戦いになるの?」
「わからない。だが、その可能性は高いだろう」
「街はどうなるんだろう?」
トーマスの呟きに、ハンスがおどけたように答える
「大丈夫だよ。きっと領主様がなんとかしてくださるさ」
ハンスがそう言って笑うが、その笑みは少しぎこちなさが目立つものだった。
「狩りに出るときもしばらくは気を付けた方がいい」
「わかった、気を付けるよ。早く決着が付くといいんだが」
真十郎の言葉にハンスが震えを隠しきれない声でそう答えた
様々な不安を抱えたまま、三人は家路を急ぐのだった。
それから数日後の昼下がり、アンナは一人オステンブルクの街を取り囲む城壁の上を歩いていた。
遠くに蛮族の軍が陣を敷いているのが見える。
自分を手に入れる為にわざわざ軍を率いてやって来たという話だった。
そんなものは建前だけだと兄は言っていたが、やはり気にせずにはいられない。
城壁から蛮族の陣を眺める。
遠目でわかりづらいが相当な数の兵がいるように見える。
そうしてしばらく眺めていると、蛮族の兵らしき騎馬の集団がこちらに駆けてくるのが見えた。
数は十人程だろうか。
たったそれだけの人数で、何をするつもりなのか? それはこちらに近づいてきていた。
その集団が近づいてくるにつれて、集団の最後尾の騎馬が何かを引きずっているのが見えてきた。
目を凝らしてそれが何であるかを確認したアンナは自分の目を疑った
引きずられていたのは、人間だった。
男が両手をロープで縛られ馬で引きずられていたのだ。
「何て事を!」
地面の凹凸のせいで激しく跳ね回りながら、男の体は引きずられていた。
おそらくオステンブルクの住人なのだろう。
あの人物はまだ生きているのだろうか?
蛮族の集団は城壁から二百歩程の距離まで近づくと、速度を落とし停止した。
引きずられていた男はピクリとも動かない。
もう死んでいるのではないだろうか?
あれがたとえ死体であったとしても、あのような蛮行が許されるとは思えなかったが。
野蛮な連中だとは聞いていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
蛮族達は城壁に向かって大声で何か叫び始めた。
何を言っているのかはわからなかったが、それが侮辱的な言葉であろうということは理解できた。
引きずられていた人物が気になりその光景を眺めていたが、やがて見るに堪えなくなり城内に戻ろうとしたときだった。
「いけません! 命令違反です!」
城壁の門の内側で誰かが揉めているような物音が聞こえて来た。
「あのような非道な行いをただ黙って見ていろというのか!」
「気持ちはわかります! ですが、耐えてください!」
門の内側には幾人かの騎士が集まっていた
きっと、自分と同じようにあの蛮族の行いを見ていたものがいたのだろう。
あの非道を止めるために出ていこうとしている騎士を、門番が押し止めているようであった。
高潔な騎士であれば、あのような卑劣な行いを見過ごせるはずがない。
アンナも、もし自分に戦う力があったなら共に行きたいと思っていたかもしれない。
しばらく揉めていた声が消え、門が開く音が聞こえた。
門番はどうやら騎士たちに押し切られてしまったらしい。
十五人ほどの騎士が門から出ていくのが見えた。
騎士たちは真っ直ぐに蛮族の集団へと向かっていく。
蛮族の集団は騎士たちが近づくと半数が離脱し二手に別れた。
騎士達は迷わず、人を引きずっている方の集団を追いかける。
離脱した五人の蛮族は一旦離れて迂回し、騎士たちの後方に回り込んで来た。
そうして後方から弓を射かけてくる。
その蛮族達の放った矢の一本が最後尾の騎士の馬鎧の隙間に突き立った。
馬は足を止め、激しく暴れ出し、それを制御することのできなかった騎士は馬上から振り落とされた。
五人の蛮族は落馬した騎士に追いつき、その周りを回りながら続けざまに矢を射かける。
騎士は盾で必死にそれを防ごうとするが、四方から射かけられる矢を全て防ぎきることは出来無かった。
落馬した騎士を救おうと他の騎士が戻ってくるのを見て、蛮族たちは散らばって逃走を始める。
そのまま蛮族たちは合流し、まるで目的は達したとでも言うように彼らの敷いた陣の方角へと走り去っていった。
逃走するのに邪魔になるからだろうか? 引きずられていた男の体は打ち捨てられ、取り残されていた。
しばらくして、騎士達が城壁のなかに戻ってきた。
そのうちの一人は蛮族に引きずられていた男を馬の後ろに横たえている。
男の体はピクリとも動かない。
蛮族に矢を射かけられた騎士は、他の騎士の馬の後ろに跨がり帰ってきた。
その体には幾本もの矢が突き立ったままだ。
アンナは城壁から降りて、騎士達のもとに近づいていった。
「クソッ!治癒魔術士はまだか、」
叫ぶ騎士の前の地面には負傷した騎士が横たえられている。
騎士の体には四本の矢が突きたっていた。
周りの騎士達が鎧を脱がせようとするが、矢が鎧を貫通して刺さっているため、うまく脱がせることが出来ない。
痛みでもがき苦しむ騎士の手足を皆で押さえ、口には布を詰め込まれていた。
「駄目だ! このままでは」
騎士の一人が叫ぶ。
騎士達の一人がアンナの存在に気づく。
「アンナ様、どうしてこのような場所に」
「見ていました。全て」
声が震えているのが自分でもわかった。
のたうち、苦しむ騎士を見ながらアンナは答える。
何故か、その姿から目をそらしてはいけない気がした。
苦しむ騎士の手を握った。
凄まじい力で握り返され手が潰れるのではないかと思ったが、必死で耐える。
アンナの顔を見た騎士が涙をこぼした。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にしていた。
目の前の騎士が苦しんでいる事に対する責任が、自分にもあるような気がしたからだ。
アンナは苦しむ騎士の手を握り続けた。
握り返す力はだんだん弱くなり、やがて完全に無くなった。
人が死ぬのを見るのはこれで二度目だ。
一度目は母の死だった。
その死に顔は笑顔だった。
母が死んだときは勿論悲しかった。
でも、その顔を見ていると今は天国で幸せに暮らしているに違いないと信じることが出来た。
こんな風に苦しみ、のたうちながら人が死ぬのを初めてみた。
母のような穏やかな死に顔はそこには無い。
死んだ騎士の顔には苦しみに満ちた表情が張り付いたままだった
「アンナ様。ありがとうございます」
アンナの傍らに立つ騎士がそう言って感謝を表した。
アンナはそれに答えなかった。
自分が何故礼など言われているのかもわからなかった。
「彼は騎士として、この地に住まう人々を守るために戦って死んだのです。きっと本望であったことでしょう」
本望? あんなに苦しんで、涙まで流していたというのに?
死んだ騎士の顔をもう一度見る。
その顔は思っていたよりもずっと若く見えた。
「彼は幾つだったのですか?」
「来月、十八になるはずでした」
驚き、語る騎士を振り返る。
「そんな、私と同じ……」
自分と同い年の少年がこんな死に方をしなければならないなんて。
「若くとも、彼は立派な騎士でした。騎士として己の信念に従い、勇敢に戦って死んだのです」
確かにその通りなのだろう。
彼は立派な騎士で、勇敢に戦って死んだ。
だが、その苦しみに満ちた死に顔を見ている限り、満足のいく死に方だったとは思えなかった。
「勇敢な騎士の名を教えていただけませんか?」
「名はディートリントです」
「ありがとう」
そう言って、アンナは立ち上がった。
「ごめんなさい。邪魔をしてしまって」
そう言って立ち去るアンナの心には、今まで感じたことがないほどの激しい感情が渦巻いていた。
「お兄さま」
アンナは城の廊下を歩いていたカールに声をかけて呼び止めた。
「アンナか、どうした?」
「蛮族の軍勢が城の前に陣を敷いているのを見てきました」
その言葉にカールがため息をつく。
「危険なことはやめてくれ。もし見つかって、矢でも射掛けられたらどうするつもりだ」
アンナは真っ直ぐにカールの目を見つめながら言葉を続けた。
「もし私がこの身を差し出せば彼らは立ち去るのでしょうか?」
その言葉を聞いたカールが訝しげに眉をひそめる。
「一体、何を言い出すんだ? もしや、奴らがお前を差し出せと言って来たというのを気にしているのではないだろうな?」
アンナはその問いには答えずカールをじっと見つめていた。
カールは静かにため息を付く。
「それはやつらの建前だと言ったはずだ。奴等にとっては攻め入る理由などなんでもいいのだ。その口実にお前の名を出したに過ぎん」
「もし建前だったとしても、私を差し出せば誰も傷つかずに済むのでしょうか?」
カールはこめかみを抑えながらため息をついた。
「何故そんなことを……。 一体何があったのだ?」
その問いにもアンナは答えず、ただじっとその目を見つめ続けた。
「まさか、お前がそんなことを言ってくるとは思わなかったよ」
僅かな沈黙の後にカールが口を開いた。
「何があったのかは知らんがな。我らの誇りにかけて、お前を奴等に渡すなどということはできんのだ。それにな、アンナ。お前を渡したとして、あの蛮族共が約束など守ると思うか?」
「その時は、私が蛮族共の首領をなんとかします。寝所の中であれば、相手もきっと油断するはずです」
「本気で言っているのか?」
彼女は敵の首領をその手で暗殺すると言っているのだ。
確かに可能かもしれないが、そんなことをすればアンナも生きてはいられまい。
だが、アンナの真剣な目を見る限り冗談を言っているようには見えなかった。
「まさか、お前がそんな覚悟までしているとは思わなかったよ。だが、なんと言われようともお前を差し出すつもりなど無い」
「でも、私一人の命でなんとかなるのであれば、そのほうが良いのではありませんか?」
カールが困ったように苦笑し、アンナの頭に手を置いた。
「お前にそんな事をさせたくないという、私的な思いも勿論あるがな……。もしそんなことをすれば、蛮族を恐れてお前を差し出したのだと思われるだろう。そんな臆病者のために、一体誰が命をかけて戦ってくれるだろうか? 我らの評判は地に堕ちるだろう。兵の士気も同じだ。勝てる戦いにも勝てなくなってしまう」
カールはアンナの目を真っ直ぐ見つめたまま言葉を続けた。
「そして何より、我らの騎士としての誇りがそれを許さない」
そう言って、カールは俯いてしまったアンナの頭を優しく撫でた。
「お前は何も気にしなくていいのだ、アンナ。何と言われようとも、お前を奴等に渡したりはしない。この話はこれで終わりだ。いいな?」
「はい……。お兄さま」
「お前は我らを信じて待っていればいいのだ」
そう言って、カールは優しくアンナを抱きしめた。
部屋に戻ったアンナは、一人自己嫌悪に陥っていた。
苦しみながら死んでいった騎士を見て湧いた感情は怒りだった。
あれほど激しい怒りを感じたことはこれまで無かった気がする。
その感情に任せて、兄に愚かな質問をしてしまった。
だが兄に諌められたおかげで落ち着いた。
怒りの感情は落ち着いたが、苦しみのたうちながら死んでいった騎士の姿は頭から離れそうにない。
兄の言うとおり、自分に責任など無いのかもしれない。
だが、あんな死に方をする人をこれ以上増やしたくはなかった。
皆を救うためにこの身を差し出すのであればと、そんな事ばかりが頭に浮かぶ。
皆を……そう思ったときに真っ先に浮かぶのは、あの狩人の顔だった。
自分の身を差し出せば、この命と引き換えにではあるが敵の首領を討ち取ることは出来るだろう。
たとえ戦いが避けられないのだとしても、それが最善のような気がした。
自分自身の感情でいえば、蛮族にこの身を捧げたいなどとは思わない。
自分を優しく諌めてくれた兄を裏切りたくもなかった。
だが、そうして何もしなかった場合大勢の人が死ぬだろう。
最悪、戦いに負けてしまった場合、この地の人々はどうなるだろうか?
その場合には自分を責めずにはいられないだろう。
だが、兄の言葉に背くことは出来ない。
自分に出来ることは何もない。
この話をしたら、彼は何と言うだろうか?
想い人の顔を思い浮かべる。
彼に会いたいと、声が聞きたいとそう思った。
何でも良いから、ただ言葉を交わしたかった。
そう思うと居ても立っても居られなくなり、アンナは外へと飛び出していった。