致命の罠
響き渡る呼子の音を聞いて、エーリヒは彼等の企てがうまくいったことを理解した。
彼等の第一の目的は深淵の盃を盗み出すこと。
ゲオルグの隙を突いて真十郎がそれを実行する。
もし隙が見出せなかったなら、エーリヒが囮となってその隙を作り出す手筈になっていた。
今祭壇の上にあるのはコリンナが用意し、魔力を付与した偽の盃である。
本物は真十郎によって洞窟のどこかに隠されているはずだ。
そのため、ゲオルグがいくら盃に血を注いだところで何も起きはしないだろう。
そして第二の目的はゲオルグを倒すこと。
ゲオルグがふらついているのは毒によるものだった。
盃に己の血を注ぐためにゲオルグが使用した短剣、それに毒が塗られていたのだ。
毒はコリンナが用意し、真十郎が逃走中に短剣に塗った。
ゲオルグには通常の毒は効果が無い。
効くのは魔術や錬金術によって作成された物のみだ。
儀式にゲオルグの血が必要なのであれば、血を流すための武器を用意する必要があるはずだった。
そして、その武器は魔力を帯びていなければならない。
それに毒を塗ってしまえば、ゲオルグは短剣の魔力と毒薬の魔力を区別できないのではないかと、そう真十郎が提案したのだった。
結果、彼等の思惑通りゲオルグは短剣に毒が塗られていたことに気付かず、自らの手で己を傷つけ毒に侵された。
偽の盃と毒薬はコリンナに渡された魔力を遮る布で包んで発見され難くしたものを、真十郎がこの空間内に隠していた。
逃走中にそれを拾い上げ、今度は本物の盃を布で包んでから、毒を塗った短剣と偽の盃を置いて逃げた。
真十郎を追っていたゲオルグがそれらを拾い上げ持ち帰ったせいで、今このような状況になっている。
正直、エーリヒはここまでうまく行くとは思っていなかった。
深淵の盃をすり替え、本物を持って外に出ることさえできれば、ゲオルグの思惑は阻止できる。
それさえ達成できれば、時間に余裕ができる。
ゲオルグはいずれ倒さなければならないだろうが、時間に余裕が出来さえすれば神聖帝国からの援軍を待つことも出来る。
そうなれば、もっと楽にゲオルグを打ち倒すことも出来るだろうと、そう考えていた。
だが、彼の想定以上に計画はうまくいっていた。
ゲオルグにとっては短剣よりも盃のほうがずっと重要であり、そちらばかりに注意が向いていたということも、仕掛けに気づかなかった一因なのだろう。
ここまでうまくいったのならば、この場でゲオルグの息の根を止めてしまったほうが良い。
この好機を逃すべきではない。
こちらに気付き、ふらつきながらも剣を抜いて身構えるゲオルグにエーリヒは駆け寄り斬撃を見舞った。
ゲオルグは手にした剣でその攻撃を防いだ。
わずかに驚きながらも、エーリヒは連続して斬撃を繰り出す。
兄であるヴァルター程ではなかったが、彼も剣の腕にはそれなりに自信があった。
だがゲオルグはそれをふらつきながらも防ぎ続ける。
休まず攻撃を続けたが、それでもゲオルグは全てを防ぎきっていた。
「クソッ、どうなってる?!」
いったん攻撃の手を休め、ゲオルグの様子を観察する。
ゲオルグの体はふらつき、足元もおぼつかない。
やはり毒が効いているのは間違いないようだ。
気を取り直し、再びゲオルグに攻撃を加える。
だが何度攻撃しても、ゲオルグはそれを防ぎ続けた。
「この化け物め!」
焦りと苛立ちがエーリヒの心を蝕み始める。
この悪魔は不死身なのではないかと、そんな考えも頭に浮かぶ。
もしそうなのだとしたら、こちらに勝ち目などない。
そんな恐怖に支配されそうになる心を奮い立たせるように、彼はがむしゃらに剣を振り続けた。
暗がりに身を潜めたまま、真十郎はエーリヒとゲオルグが戦う様子を見ていた。
その手にはアンナが預けてくれた短剣を握っている。
コリンナの言葉通りであるならば、その短剣はゲオルグを殺すことが出来る力を持っている。
しかもゲオルグに近付いても気付かれることも無い。
彼はその短剣を使う機会を伺っていた。
切り札は慎重に切らねばならない。
一度の使用で確実に仕留めなければ。
失敗すれば相手の警戒度は間違いなく跳ね上がり、再度の使用は難しくなるだろう。
この場にあって、彼の精神は驚くほどに静かだった。
激しい憎しみの感情も、今はなりを潜めている。
これもアンナの短剣のおかげなのかもしれない。
エーリヒの攻撃を防いだゲオルグが反撃を返していた。
エーリヒはそれを防いだが衝撃を殺しきれずよろめき、そのまま尻もちをついてしまう。
ゲオルグがふらつきながら、ゆっくりと倒れたエーリヒに近付いて行く。
優位に立って油断したのか、ゲオルグの警戒心が緩んだのを真十郎は感じ取っていた。
考えるよりも早く体が動く。
真十郎はゲオルグの背後に音も無く素早く駆け寄り、その背に取り付いた。
そのまま、逆手に持ったアンナの短剣をゲオルグの鎖骨の隙間に突き入れる。
魔力など一切帯びていないにもかかわらず、短剣は何の抵抗もなくするりとゲオルグの体内へと入って行き、その動脈を断ち切っていた。
そのまま短剣を素早く抜き、水平に薙いでゲオルグの喉笛を切り裂く。
そして速やかにその背から離れて距離を取り、再び暗がりに身を潜めた。
人間であればこれで死ぬだろう。
だが相手は得体の知れない存在だ。
真十郎は身を潜めたまま、油断することなく再びゲオルグの様子を伺う。
ゲオルグの背から離れていく真十郎の姿を目で追いながら、エーリヒはようやくその身を起こした。
目の前に立つゲオルグは何が起こったのか理解できないと言った表情をその顔に浮かべていた。
鎖骨下の動脈と頸動脈を絶たれているせいで、その二つの傷口からおびただしい量の血が流れ出している。
口からもゴボゴボと血の泡を噴き出し続けていた。
だがそれにもかかわらず、ゲオルグはまだ生きていた。
エーリヒは止めを刺そうと再びゲオルグに斬りかかる。
人間であればとうに死んでいるであろう傷を受けているにもかかわらず、ゲオルグは倒れることすら無く立っている。
それだけではない。
毒でふらつき、大量の血を流しながら、彼は尚も手にした剣でエーリヒの攻撃を防ぎ続ける。
エーリヒは何度も繰り返し攻撃するがその悉くを防がれてしまう。
毒をその身に受け、急所を切り裂かれて大量の血を流しながら、なぜこうも斬撃を防ぐことが出来るのか?
怒り、恐怖、焦り……様々な感情のせいで震える体を叱咤しながら、エーリヒは諦めず攻撃を続けた。
「なぜ倒れない! 化け物め!」
焦燥に駆られて叫んだと同時、真十郎がゲオルグの背後にするりと近付く姿が見えた。
その直後にゲオルグの体が硬直し伸びあがるように背を反らす。
おそらくゲオルグの背中に短剣を突き立てたのだろう。
真十郎がその背中から離れていき、再び暗がりの中へと消えていく。
動きの止まったゲオルグの首目掛けて、エーリヒは全力で剣を叩きつけた。
骨を断つ鈍い音が響き、ゲオルグの首が宙を舞い地に落ちて転がる。
緊張を解かぬまま落ちた首を確認しようと視線を向けて、エーリヒは硬直した。
ゲオルグはまだ生きていた。
目を見開き、何かを言おうとするかのように口をパクパクと動かしている。
エーリヒはその姿のおぞましさに身動きが出来なくなってしまっていた。
暗がりから姿を表した真十郎がその落ちた首へと近付いていくのが見えた。
そして彼はゲオルグのこめかみに向かって逆手に持った短剣を振り下ろした。
脳を貫かれたゲオルグの頭はそのまま動かなくなる。
真十郎が短剣を引き抜いた。
ゲオルグはそのままピクリとも動かない。
だがエーリヒはまだ死んでいないのではないかと思い、そのまま動けずにいた。
十秒、二十秒……三十秒ほどして、真十郎が口を開いた。
「終わったな」
その真十郎の言葉でようやくエーリヒの硬直は解け、己を取り戻すことができた。
途端に緊張の糸が切れ、その場に座り込んでしまう。
「ハハッ……終わったのか、本当に……」
そう口にして大きく息を吐く。
そこで初めて、自分の手が震えていることに気付く。
何度か深呼吸して息を整えてから、ようやくエーリヒは立ち上がることが出来た。
そして、ゲオルグの首の元まで歩いていく。
かつて父と呼んでいた者の首を拾い上げ、見開いたままの瞼を閉じさせる。
それはもうピクリとも動いたりはしない。
本当に全てが終わったのだと、そこで初めて実感することが出来た。
「終わった……本当に終わったんだな……」
そう呟き、すぐそばに立つ狩人に視線を向けて感謝の想いを言葉にする。
「ありがとう。君がいなければどうなっていたか……」
「それはお互い様だ。君がゲオルグの気を引いてくれたから、ここまでうまくことが運んだ。ありがとう」
そう言った狩人の表情には、喜びの感情は見られなかった。
クラウディアをはじめとする死んでいった仲間たちの事があるからだろう。
「そんな顔をしないでくれ。死んでいった仲間たちの仇も討てたんだ。皆もきっと喜んでくれているはずだ」
「ああ、そうだな……」
アーデルラントに住む全ての民を苦しめていた悪魔は遂に倒れた。
今はそれを喜ぶべきだというエーリヒの想いが真十郎にも伝わったのだろう。
真十郎はかすかな笑みを浮かべてエーリヒの言葉に応えていた。




