少女の苦悩
その夜、アンナは自室で一人物思いにふけっていた。
真十郎との会話を思い出してみた。
容姿を褒められたことを思い出し、嬉しくなる。
鏡を見てみると、ニヤついた自分の顔が見えた。
誰にみられているわけでもなかったが、なんとなく恥ずかしくなり、表情を元に戻す。
特別な存在だと言われたことも嬉しかった。
ちょっと無理をして言わせた感もあったが、それでもだ。
再び鏡に目をやると、先程と同じニヤついた自分の顔が見えた。
頬を抑えて再び表情を元に戻す。
気を取り直して、まっすぐ鏡に向かう。
そうして普通に微笑んでみた。
自分で言うのもなんだが、なかなか美人なんじゃないだろうかと思えた。
父と母に感謝しなければ。
特に母はとても美しい女性で、アンナは母のようになりたいとずっと思っていた。
容姿は皆に褒めてもらえる。
褒められるのはもちろん嬉しい。
真十郎以外にも、褒めてくれる人はたくさんいた。
貴族の男たちは様々な表現を駆使し、色々なものに例えて彼女の美しさを称えてくれた。
もちろん、それはそれでとても嬉しかったし、ありがたかった。
だが、言葉を飾り立てる貴族たちの言葉よりも、思ったことをただ口に出しているだけの真十郎の言葉のほうが、彼女の心を浮き立たせた。
真十郎の率直な言葉が心に響いたとか、そういう話ではない。
それが真十郎の発した言葉だったからだ。
何を言うかではない。
誰が言ったかが問題なのだ。
他の誰の褒め言葉よりも、真十郎の言葉のほうが彼女には嬉しかった。
そう、アンナは真十郎に恋をしている
彼に会うのは楽しかった。
どうしようもない朴念仁だが、静かで、穏やかで、そして優しい。
また明日彼に会えるのだと思うと、嬉しくなり心が弾んだ。
だが、アンナがどれほど思いを募らせても二人が結ばれることは決してないだろう。
それを思い出すたびに心が沈む。
どうして、真十郎を好きになってしまったのだろう?
どれほど彼のことを思ったところで、その思いが叶えられる事は決して無い事はわかっているというのに。
アンナが自分の気持ちに気づいたのは三年ほど前だった。
今は毎日のように真十郎に会いに行っているが、当時は月に一度か二度ほど様子を見に行く程度だった。
いつものように、何気なく様子を見に行ったときに真十郎が一人の少女と仲良く話をしているのを見てしまった。
おそらくこの辺りに住む町人の娘だろう。
随分と親しげに真十郎と話をしていた。
その時、アンナは何故か見つからないように隠れてしまった。
隠れる必要など無いと思いながらも、姿を隠したまま二人の様子を伺っていた。
そうして見ているうちにアンナは気づいてしまった。その少女が真十郎に好意を持っている事に。
何故か胸のあたりがチクリと痛んだような気がした。
その小さな痛みをアンナは大して気にはしなかった。
自分の友達が自分よりも他人と仲良くしているのを見るのが気に入らないだけなのだと思っていた。
彼とは自分が一番の仲良しであると思っていたのに、もしかしたら一番ではないのかもしれない。それが少し気にかかる……そんな程度の軽い嫉妬のようなものだと思い込もうとしていた。
その日、屋敷に戻ってからはずっとイライラしていたように思う。
何故こんなにもイライラするのかわからなかった。
いや、本当はその時点で自身の気持ちには薄々気付いていた気がする。
ただ、それを認めたくなかった。
それからしばらくは、真十郎の事を思い出すたびに何故かイライラが募った。
数日後に再び真十郎に会いに行ったアンナは、先日と同じ少女と彼が話しているのを見つけた。
それを見つけた瞬間、アンナはみぞおちのあたりがズンと重くなったように感じた。
以前に感じた小さな痛みのような感覚よりもずっと強い、軽い嘔吐感にも似た不快感。
そこで初めて認識した。
本当は以前から気が付いていたのに認めることのできなかった感情。
自分がいつの間にか真十郎を好きになってしまっていた事に。
最初はそんな筈が無いと思った。
真十郎が行き倒れていたところをアンナが拾い、命を救った。その時に責任を持って彼の面倒を見ると父と約束したのだ。
それ以来、アンナは真十郎の保護者のつもりだった。
だというのに、いつの間にこんな気持ちを抱くようになっていたのだろう?
恋に落ちるのに理由などいらない。
以前に読んだ恋物語のヒロインのセリフにそんな感じの言葉があった気がする。
自分自身の感情に戸惑い混乱してしまっていたアンナは、そのまま真十郎の前に姿を見せること無くその場を後にした。
自分の部屋に戻ってアンナは一人悩んだ。
もう、真十郎には会いに行かないほうがいいだろうと思った。
これはきっと気の迷いのようなものだから、会わずにいれば思いも薄れていくだろう。
そう思ったのだ。
結果としては逆効果だった。
それから一週間、アンナは真十郎に会いに行くのを我慢した。
そして、その間ずっと悶々として過ごすはめになった。
真十郎の事を考えまいと思うほどに、その思いにとらわれてしまう。
あの少女と睦まじく過ごす姿が勝手に思い浮かび、胸が重く、苦しくなった。
そうして一週間後、どうしても耐えられなくなった彼女は真十郎に会いに行ってみた。
その日は、例の町娘の姿は見えなかった。
「やあ、アンナ」
彼女の姿を確認した真十郎が声をかけてきた。
前に彼と会話をしたのは一月以上前になる。
心臓が跳ねるのを感じた。
動悸が激しくなり、緊張で体がこわばる。
何とか挨拶を返そうとしたが、口がうまく回らない。
まるで自分の体ではないかのようだ。
「どうした? 大丈夫か?」
「お、おはよう。大丈夫よ。ホントに。うん、ホントに……」
何かの間違いだと思っていたのに、こうして会うことで自分の思いを再認識することになった。
ついこの間まで、平気で会話ができていたはずなのに、何故こんなことになってしまったのだろう?
真十郎がまっすぐに彼女を見つめてくる。
何か喋らなければと思いながらも何も言葉が出てこない。
そうして何も言葉を発しないまま、じっと見つめあってしまう。
頬が熱くなるのが分かった。
アンナはそうして見つめあうことに耐えられず、目を逸らして俯いてしまう。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だって言ったでしょ!」
「そうか、すまない」
家でずっと悶々としていたことを思い出す。
あの町娘も自分と同じように悩んでいるのだろうか?
自分と違い、二人の間に身分の差がない分まだ良いように思えたが、それでも真十郎は異国人だ。
多少の抵抗はあるように思える。
あの少女と話をしてみたいと思った。
自分の悩みを誰かに聞いてほしかったが、自分の周りにそれを話せるものはいない。
だが、同じ思いを抱いている彼女が相手なら話せるのではないだろうか?
もしかしたら友達になれたりするかもしれない。
本来なら恋敵と呼ぶべき相手だ。
仲良くなるのは難しいだろう。
だが、アンナは自分のこの思いが報われるとは思っていない。
真十郎の心をどちらかが射止めることになったとしても、きっと自分に勝ち目はないだろう。
きっと自分はつらい思いをすることは間違いないと思う。
けれど、それでも彼女と仲良くなれたなら、友人二人が幸せになれるのだと考えれば、心の痛みは和らぐかもしれない。
そんな、基本後ろ向きだが、ほんの少しだけ前向きな理由で町娘に話しかけてみようとアンナは考えた。
その翌日。
再び真十郎のもとを訪れると、あの町娘が真十郎と話をしていた。
「真十郎!」
わざと大きな声で彼を呼び、近づいていく。
「お客様? 珍しいわね。私にも紹介してもらえると嬉しいわ」
そう言って微笑んだが、少し顔がひきつっているのでは無いかと心配になった。
「彼女はカリーナ。肉屋の娘だ」
「初めまして、カリーナ。アンナよ、よろしく」
そういって差し出した手を、カリーナが恐る恐るといった感じで握り返した。
「えっと……こちらこそ、よろしくお願いします」
カリーナは随分と委縮してしまっているように見える。
「あの……私、そろそろお暇するね」
「あっ……」
そう言ってカリーナは逃げるようにその場を離れてしまった。
アンナは仲良くなりたいと思って声を掛けたのだが、相手には伝わらなかったようだ。
やはり只の町娘からすると貴族という肩書だけで気後れしてしまったりするのだろうか?
そんなことを考えながら、アンナは避けるように立ち去るカリーナの後姿を見送った。
それから、アンナはほぼ毎日真十郎に会いに行くようになった。
何度かカリーナを見かけることはあったが、ほとんどまともに会話することはできなかった。
近づくとすぐに逃げられてしまうからだ。
「そんなに怖がらなくてもいいと思わない?」
ある日、そう真十郎に愚痴ってみた。
「何の話だ?」
まあ、大体予想通りの反応だった。
「うん。ごめん。何でもない」
「そうか」
随分あっさりした返事が返ってきたが、それも真十郎らしいと思い、アンナもそれ以上何も言わなかった。
そんな事を一月程続けていると、カリーナを見かけることはなくなっていた。
真十郎に会いに来なくなったわけではないのだろう。
おそらく、アンナに会わないように時間をずらされただけなのだろうと思う。
仲良くなりたかっただけなんだけどな……。
貴族の娘に目をつけられたと勘違いされたのだろうか。
避けられるのは悲しかったが、仕方がないのかもしれない。
そう思い、自分を慰めることにした。
それからもアンナは真十郎のもとに通い続けた。
それはただ単純に真十郎に会いたいという気持ちからだった。
それから、半年ほどたったころだった。
いつものように真十郎に会いに行ったアンナは、カリーナが真十郎と話しているのを見つけた。
自分が近づいたら、またカリーナが遠慮して話の妨げになってしまうかも知れない。
そう思い、アンナは二人の話が終わるのを待った。
カリーナが立ち去ろうとして、アンナに気付いた。
カリーナは首をかしげて、アンナに微笑んで見せた。
少し驚きながらも、アンナはそれに微笑み返した。
ずっと避けられていた身としては、そんな風に笑顔を向けられたのは嬉しかった。
ただ、その笑顔がとても悲しげに見えたのが気になった。
「彼女、久しぶりに見たわ」
「ああ、最近はあまり来ていなかったからな」
「そうなのね。何か用があったの?」
「彼女、近いうちに結婚するんだそうだ。それを教えに来てくれた」
あの少女は親が決めた相手と結婚することになったのだそうだ。
「そう、それで……」
あの悲しげな表情の理由を理解した。
「めでたいことだと思うんだがな」
カリーナの立ち去る後姿を見ながら真十郎がつぶやいた。
「俺には、彼女があまり嬉しそうには見えなかった」
それはそうだろう。カリーナが本当に好きなのは真十郎なのだから。
彼女は一体どんな思いで自分の結婚を報告しに来たのだろう?
聞けるものなら聞いてみたかった。
なぜなら、いずれアンナ自身も同じ気持ちを味わう事になるのだろうから。
「まあ、俺の気のせいなのかもしれないが」
真十郎がつぶやく。
この朴念仁は、アンナの気持ちに気づかないのと同じように、カリーナの気持にも気づいていなかったのだろう。
恋敵ではあったが、自分と同じ境遇の彼女に憐れみを覚えた。
「彼女、あなたの事が好きだったのよ」
それを聞いた真十郎が、少し驚いているように見えた。
感情に乏しい彼には珍しいことだ。
「まさか。あり得ない話だ」
「どうして?」
あり得ないなんて、そんなことは無いと彼にそう伝えたかった。
現に彼のことが好きな女が一人、ここに間違いなくいるのだから。
アンナの問いには答えず、真十郎は小さく微笑んだ。
その笑顔は静かで、穏やかで、そして何故かとても悲しげに見えた。
そう。彼の笑顔はいつもそんな感じだ。
その表情は間違いなく笑っているのに、どこか悲しげに見える。
その時のそれは、まるで自分は他人に愛される価値など無いとでも言っているかのように感じられた。
「あり得なくなんかない。あなたは、その……魅力的だと思うわ」
「君がそんなお世辞を言うなんて珍しいな」
真十郎は彼には珍しい冗談めいた口調でそう言って小さく笑った。
「お世辞なんかじゃない!」
そう口にしてアンナは、その自分の声の強さに驚いていた。
自分でも気づかぬうちに、声を荒げてしまっていた。
真十郎が自分を取るに足らない存在のように言うのが我慢できなかったのだ。
真十郎も随分と驚いたようで、しばらく固まって動かなかった。
ようやく気を取り直したように口を開いた。
「そうか、ありがとう」
恋敵がいなくなった。
それを考えると喜ぶべきなのかもしれない。
でも、そんな気にはなれなかった。
結局仲良くはなれなかったが、同じ思いを抱く同志として勝手に親近感を抱いていたのだ。
それゆえの同情や憐れみといった感情もあった。
何より、いずれ自分もカリーナと同じ気持ちを味わう事になる。
明るい気持ちになれる筈など無かった。
だが、ほんの少しだけ安堵している自分にも気づいていた。
彼が自分以外の誰かと結ばれる時が遠のいたから。
カリーナはアンナを避けていた。
アンナが真十郎に思いを寄せていることに彼女も気づいたのだろうか?
もしかしたら、真十郎が侯爵家の娘のお気に入りだと知って、それ以上親密になるのをためらったのかもしれない。
もし、自分が頻繁に真十郎に会いに行って邪魔をしなかったなら、二人は結ばれていただろうか?
異国人であることが障害にはなるかもしれないが、ありえなくは無かっただろう。
想像してみる。
カリーナと真十郎が仲睦まじく過ごしている様子を。二人が抱き合い口づけを交わしていたとしたら?
そんなことを想像するだけで、胸が張り裂けそうになってしまうのだ。
嫌だ。絶対に嫌だ。
自分と結ばれることが無いにしても、他の誰かのものになるのは我慢が出来なかった。
そんな身勝手なわがままで、真十郎が幸せになれたかもしれない可能性と、一人の少女の恋を潰したのだとしたら……。
なんて汚い人間なのだろう……。
自分が真十郎と結ばれるのが目的であればまだいいが、その可能性は無い。
きっと真十郎はアンナを恋愛感情の対象としては見ていない。
当然かもしれない。
彼はただの狩人でしかも異国の人間だ。
アンナは侯爵家の娘。
二人が結ばれることなどあり得ないだろう。
彼の感覚が普通で、アンナが普通ではないのだ。
それはわかりすぎるほどわかっているつもりなのだが、自分の感情を抑えることができない。
真十郎に会いに来るべきではない。会いに来てもいずれ来る別れの時の苦しみが増すだけだろうと。
そう頭ではわかっていても、どうにもならないのだ。
カリーナが楽しそうに真十郎と話していた光景を思い出す。
アンナの自分勝手な思いのせいで、あの少女の恋を潰してしまったのかもしれない。
あり得たかもしれない未来。
その邪魔をした自分。
真十郎も幸せになれたかもしれないのに。
追憶から意識を引き戻し、アンナは再び鏡を見た。
もう一度笑ってみようとした。
だが、今度はうまく笑えなかった。
アンナはうつむき、懺悔の言葉を口にする。
「……ごめんなさい」
涙がこぼれた。
「本当にごめんなさい」
翌朝、アンナは朝食後に出かける準備を始めた。
今日も真十郎は小屋にいるはずだった。
鏡に向かって笑顔を作ってみる。
「うん、大丈夫」
死んでしまった母の言葉を思い出す。
母はアンナに素敵な女性になりたいなら、いつも笑顔でいなさいと、そう言っていた。
その言葉の通り母はいつも笑顔だった。
その死に顔ですら、優しく微笑んでいたように思う。
いずれ真十郎には会えなくなる。
真十郎は自分がどんな思いを抱いているかなんて知りもしないのだろう。
毎晩彼のことを思い、苦しんでいることなど考えもしないのだろう。
それを腹立たしく思うこともあったが、その気持ちをアンナは表に出さないようにしていた。
彼の前ではいつも笑っていたかった。
彼には最高の自分を見せたかった。
だから、今日も彼女は笑顔で真十郎に会いに行く。
彼に会っている間だけは、悩みや苦しみは全て忘れよう。
あと何度あるかわからない、彼と過ごす時間を暗い表情で過ごしたくはなかったから。
オステンブルク侯の息子であるカールが妹であるアンナの姿を見つけたのは、剣の鍛錬を行うために庭へと向かう途中だった。
この時間にアンナがどこへ行っているかは、城中の者なら誰もが知っていた。
「アンナ」
「お兄さま……」
カールの呼びかけに、アンナは一瞬ビクリと身をこわばらせた。
「また……」
言葉を発しかけたカールを見て、明るかったアンナの表情がつらそうに歪む。
その表情を見たカールは、そこから先の言葉を続けられなくなってしまった。
いつものように真十郎に会いに行くアンナを諌めるつもりだったのだが……。
「遅くならないように帰ってこい」
ため息をつきながら、当初口に出そうと思っていた言葉とは別の言葉を吐き出す。
「えっ!?」
アンナが驚いたようにカールを見つめる。
「どうした?」
「いえ、あの……ありがとうございます、お兄様」
そう言ってアンナはぎこちなく微笑み、きびすを返した。
歩み去っていく妹の後ろ姿を眺めながら、カールは一人ため息をついた。
妹を苦しめたいわけでは無い。
だが、どれほど思ったところでその思いが叶うことなどある筈がないのだ。
いずれ諦めねばならないのなら、早い方が苦しみも軽くなると思いアンナを諌めてきた。
おかしな噂がたっても困るのだ。
どこかに嫁ぐとなったときに、異国人の狩人との噂などが持ち上がっては堪ったものではない。
侯爵家の令嬢と異国人の狩人が結ばれることなどあり得ない。
どれほど強く想ったところで、最後にはつらい思いをすることになるだけだというのに。
なぜ成就する見込みのない想いにそこまで没頭できるのか?
カールは深いため息をついた。
「見込みが無いのはあいつ自身が一番良く理解しているか……」
アンナがたまに部屋で一人で泣いていることがあると、彼女の身の回りの世話をする侍女に聞かされていた。
「それ程苦しんでも、諦めることが出来ない程に焦がれているのか?」
カールにはまるで理解できない。
女というのは皆あのようなものなのだろうか?
哀れだとは思うが、彼にはどうすることも出来ない。
カールはもう一度深くため息をつき、鍛錬のために庭へと歩いていった。
「おはよう、真十郎」
「おはよう、アンナ」
いつも通りの挨拶。
いつものようにたわいも無い会話を始めようとアンナが口を開こうとしたが、それよりも早く真十郎が口を開いた。
「何か、あったのか?」
ドキリとする。
少し気持ちが沈んだまま、来てしまったかもしれない。
それが顔に出ていたのだろうか?
来る途中で兄に出会ってしまったのがいけなかったのか?
いつも兄には説教をされるが、今日は何も言われなかったので大丈夫だと思ったが、条件反射というやつだろうか?
やはり気持ちが沈んでしまっていたのかもしれない。
「ううん、別に。どうして?」
そう言ってアンナは微笑んだ。
うまく笑えただろうか?
落ち込んでいた気持ちが表情に出てしまってはいないだろうか?
「いや、いつもに比べて少し元気が無いような気がした」
「心配してくれるの?」
「もちろんだ。何があった?」
それを聞いて、アンナは再び微笑んだ。
今度はうまく笑えたはずだ。
なぜなら、真十郎が自分を心配してくれたということが本当に嬉しかったから。
「何もないわ」
「しかし……」
「本当よ。何もない。ありがとう、心配してくれて」
真十郎が自分の事を心配してくれた。
たったそれだけのことでも、彼に会いに来て良かったとそう思えた。
自分の事ながら、単純な性格だとは思うけれど。
「今日は狩りには行くの?」
「ああ」
「帰りはいつ?」
「明日の夜までには帰ってくるつもりだ」
「そう、じゃあまた明後日くらいに来るね」
「もういいのか?」
「うん。あなたの顔が見たかっただけだから」
「そうか。ありがとう」
「何? もっと居て欲しい?」
「居てもらえるなら嬉しいが、君の家族が心配するんじゃないのか?」
「なに? 居て欲しくないの?」
そう言って、アンナはわざとらしく唇を尖らせてみせた。
それを見た真十郎は困ったように苦笑する。
「いや、居て欲しいな」
「そう。でもやっぱり帰る」
「そうか」
「うん、またね」
そういって、アンナは小屋をあとにした。
本当にくだらない、他愛もない会話。
だというのに、真十郎が相手だとこんなにも心が浮き立つのは何故だろうか?
来た時には少し沈んでいた気持ちが、嘘のように消え去り、晴れやかな感情だけが残っていた。
真十郎に会えた事と、その真十郎が自分のことを心配してくれたことが嬉しくて、それ以外のことがもうどうでも良くなってしまっていた。
二人が結ばれることがないのだとしても、こんな日々がずっと続くならそれはそれで幸せなのかもしれない。
だが、いずれはそれすらも不可能になるだろう。
そんなことを考え、気持ちが沈みそうになるのを頭を振って追い出す。
せっかくの喜びの気持ちを萎えさせるのはもったいないとそう思ったのだ。