狩人の日常
山の奥深く、真十郎は一人草陰に身を潜めていた。
彼がこの地に流れ着き、行き倒れているところを救われたのは、もう六年も前になる。
それ以来、彼はこの土地の住人となり狩人として生計を立てていた。
今は狩りの最中だ。
身を潜めるその姿を見たものはきっと眉をひそめることだろう。
その姿は奇妙という他ない。
彼が身に着けたローブにはまるで草や木の枝が張り付いているように見えた。
何も知らないものが見れば、森の一部が動いているように見えなくもない。
それは彼が作った手製のローブだった。
手製と言っても大したものではない。
普通のローブの表面に網を縫い付けただけのものだ。
そんな簡単な細工をしただけだが、その網の目に木の枝や草を差し込み擬態すると、身動きさえしなければ本物の草むらと見分けがつかなくなってしまう。
動きがかなり制限されてしまう事が難点だったが、身を隠すことにかけては非常に有用だった。
そうやって身を隠しながら、彼はゆっくりと移動していた。
その視線の先には一頭の鹿がいる。
見事な角を持った牡鹿だった。
体も大きい。
あれを仕留めれば、その角だけでもかなりの値で売れるだろう。
もちろん毛皮も肉も相当良い値がつくことだろう。
やがて真十郎は前進するのをやめた。
距離は百五十歩程。
彼の腕ならこの距離で外すことはまずありえない
獲物に気付かれぬようにゆっくりと弓を引き絞り、斜め上方へと矢を放った。
放物線を描いて飛んでいった矢は鹿の首筋に突き立った。
驚いて立ち上がった鹿は、しかしすぐにふらふらとよろけ、力尽きて倒れる。
真十郎は鹿から二十歩ほどの距離まで近づいた。
鹿にはまだ息があった。
草食動物とはいえ、むやみに近づくのは危険だ。
再び弓を構え放った矢は、鹿の顎を貫いた。
鹿はビクンと体を震わせ、そしてそのまま動かなくなった。
真十郎は素早く駆け寄り、鹿の頸動脈をナイフで切り裂いた。
鮮血がドクドクと流れ出す。
ロープで鹿の後足を縛り近くの木まで引き摺って行き、血抜きのために樹上から逆さ吊りにした。
「さて……」
今回の収穫はなかなかに悪くない。
今日のところはこれで十分だろう。
真十郎は離れた場所に繋いでいた馬を連れてきて、血抜きを終えた鹿をその背に負わせた。
あとは川まで降りて皮をはいだ後に内臓を抜き、体内に残った血を洗い流さなければならない。
彼が川まで降りてきたときには、随分と日が傾いてしまっていた。
今日はここで野宿をしたほうがいいだろう。
川で獲物の処理を終えた後に川べりで火を焚き、宿泊の準備を始める。
今夜の晩餐は鹿の内臓だ。
内臓は栄養があるが、あまり売り物にはならないため今晩と明日の朝にできる限り消費してしまうつもりだった。
鹿の内臓を丹念に火で炙り、塩を振って味付けする。
たったそれだけの、料理などと呼べる代物ではなかったが、味は悪くない。
そう、悪くない。
食事だけではない。
彼は山で過ごす静かな時間が好きだった。
穏やかに流れる時間の中、川のせせらぎや虫の声が響いてくる。
おそらく、家に帰ればいつもの客が来ているのだろう。
数少ない彼の友人達。
一人の静かな時間も好きだったが、友人らと過ごす賑やかな時間も嫌いでは無かった。
自分のような得体のしれない人間を友と呼んでくれる友人達。
今の自分は幸せなのかもしれないと、ふとそんなことを思った。
自分には生きる価値など無いと、かつてはそう思っていたというのに。
自分には過ぎた幸せだとも思う。
この穏やかな時間を与えてくれた人々に彼は心から感謝していた。
やがて食事を終え、睡眠をとるために横になった。
明日は日の出と共に家路につくつもりだ。
横になって、すぐに彼の意識は心地の良いまどろみの中に沈んでいった。
真十郎は深夜に何者かの気配で目を覚ました。
その鋭敏な感覚がこちらに近づく者の気配を感じ取ったのだ。
たき火の火はすでに消えている。
あたりを照らすのはかすかな星の明かりのみだ。
こんな山の中で夜の闇の中を近づいてくる相手が友好的な存在であるはずが無い。
それは獣の気配だった。
足音を忍ばせながら歩いている。
身を潜め、獣の気配を確認する。
どうやら、彼が仕留めた鹿の肉を狙っているようだった
まだ、真十郎の存在には気づいていないようだ。
自分のいる場所が風下である事を確認する。
匂いで気付かれる事は無い。
脇に置いてあった弓を引き寄せ、動きを止めて気配を絶つ。
茂みから獣が姿を現す。
あれは山獅子だ。
山獅子とは山に住む獅子に似た肉食獣だ。
本物の獅子ほど大きくはなく、雄のたてがみもない。
獅子というよりは斑点のない豹に近い。
人間にとっては遭遇すれば十分に脅威となる猛獣だった。
真十郎が膝立ちの姿勢になり弓を引く。
弓の軋む音を聞いて、獣が全身を緊張させながら振り向いた。
弓の弦が鳴る音とともに矢が放たれる。
山獅子は跳びすさって逃げようとしたが、それよりも早く飛来した矢がその首筋を貫いた。
獣は一瞬痙攣し、すぐに動かなくなった。
思いがけない獲物が手に入った。
肉食獣の肉はあまり売り物にならないが、毛皮は良い値で売れる。肉も味は良くないが、自分で食料にする分には問題はない。骨も頭蓋骨などは物好きな金持ちが買ってくれたりするので、出来ればこの獲物もそのまま持って帰りたかった。
だが、馬には鹿を運ばせなければならない。
さすがにこれ以上この痩せた馬に荷を負わせるのは無理がある
仕方ないので山獅子は毛皮だけ剥いで持って帰ることにした。
火を起こしなおして山獅子の毛皮を剥いだ後は、そのまま食事の準備を始めた。
十分に眠れたとは思わないが、まあ仕方がないだろう。
家に帰り着いてからゆっくり眠ればよいのだ。
朝餉は鹿の内臓を煮込んだスープとパンだった。
食事が終わるころには、朝日が空を明るく染め始めていた。
山獅子の毛皮以外の部分は土に埋めた。
肉も骨も捨てるのは惜しかったが仕方がない。
真十郎が自分の家に帰り着いたのは、その日の午後だった。
町はずれの小さな小屋。
彼の命の恩人の家族が、彼に与えてくれた小屋だった。
面積は小さいが柵に囲まれた庭もある。馬を繋ぐ馬小屋もある。
庭の真ん中に生えた木の下で、穏やかで無駄な時間を過ごすのが彼は好きだった。
しがない狩人の物としては贅沢と言ってもいい住みかだった。
小屋に向かう途中、彼は柵の前にある小さな茂みの前で立ち止まり、それに向かって声をかけた。
「トーマスか? 何をしてる?」
真十郎が声をかけると突然茂みが動き、人型に盛り上がった。
そして、茂みの中から一人の少年が姿を現した。
少年は口をとがらせて抗議の言葉を口にした。
「なんだよ! なんでバレるんだよ! 驚かそうと思ったのに!」
「見ればわかる」
言いながら、真十郎はまるで興味がないかのようにその場を立ち去ろうとする。
「普通はわかんねーって。結構苦労して作ったのにさ」
そう言って、トーマスと呼ばれた少年は身につけていたローブを脱ぎ、手にとって掲げて見せた。
それは真十郎が狩りに使用していたのと同じものだ。
通常のローブに網を縫い付け、その網の隙間に草木を差し込み擬態に使う。
「いや、良くできている。見た目だけなら十分だ」
「んー、そうだよなあ、うちの家族は誰も見破れなかったんだぜ。なんで真十郎にはわかっちゃうんだよ」
「見た目をごまかすだけでは駄目だ。気配も消せなければ」
「その気配を消すってのがわかんないんだって! 教えてくれよ!」
「言葉で説明するのは難しいな」
「なんだよ、いつもそういって教えてくれねーだろ」
「そうだったか? すまない」
そう言って真十郎は小屋に向かって歩き出した。
「いや、別に謝られても困るけどさ……。あ、そうそう! アンナ様が来てたぜ、また。小屋の中で待ってる」
「そうか」
真十郎はそれに軽く返事を返して小屋へと向かう。
「そうだ! なあ、真十郎。アンナ様ちょっとここに連れてきてくれよ」
それを聞いた真十郎はトーマスをしばらく見つめた後、小さくため息をついた。
「まさか、彼女を驚かせるつもりか?」
「もちろん!」
その答えを聞いた真十郎は呆れたようにもう一度ため息をつく。
「やめておいたほうがいいと思うがな」
「大丈夫だって!アンナ様優しいから、本気で怒ったりとか絶対しないって」
確かに、トーマスの言う通り、彼女はそんなことで本気で怒ったりはしないだろう。だが別の誰かに知られたら大事になる可能性は十分にある。
「まったく」
呟きながら真十郎は再び歩きだした。
トーマスはこの近くに住む猟師の息子だった。
今年で確か十四歳だったはずだ。
最近やっと父親の狩りに同行させてもらえるようになったと言っていたが、腕はまだまだ未熟だ。
三年前に彼の父親から息子に弓を教えてほしいと言われ教え始めたのがきっかけで、良く遊びに来るようになった。
年齢は離れているが、彼が友人と呼べる数少ない存在の一人だ。
庭を横切り、馬小屋に馬をつなぎに行く。
馬をつないで荷物をいったん降ろした後に、小屋へと向かった。
小屋は人一人が住むのがやっとの大きさだ。
年季が入ってはいるが、良く手入れされているため不潔には感じられない。
扉を開いて中に入ると、見慣れた客が彼を待っていた。
「あ、お帰り、真十郎」
「ただいま、アンナ」
そこにはこんな町のはずれにあるちっぽけな小屋には似合わない、美しい少女が立っていた。
黄金色に染めた絹糸のような、滑らかで光沢のある髪を後ろで束ねている。
その透き通るような碧い瞳は、それ自体が光を発しているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
少したれ気味の目が、その表情をより穏やかで優しげなものに見せていた。
六年前に倒れていた真十郎を拾い、その命を救ってくれたのが目の前にいる少女だった。
「どう、収穫はあったの?」
「鹿と山獅子を仕留めたよ」
「山獅子!? ホントに? 私見たことない!」
アンナがそう言って好奇心に目を輝かせる。
「馬から降ろしてそのままなんだ。見に行くか?」
「ええ、もちろん!」
馬小屋へと歩いていく真十郎の後を、アンナは弾むような足取りでついて行った。
真十郎は馬小屋の脇に置いておいた毛皮を手に取る。
毛皮に触ろうとするアンナを真十郎が制止する。
「虫がついているかもしれないから、君は触らないほうがいい」
「大丈夫よ、それくらい」
そう言って、真十郎の静止も聞かず毛皮を手に取って広げてしまった。
「こんなに大きいのね!うわ、思ったより柔らかい!」
アンナは毛皮を広げたり、ひっぱたりしながら感嘆の声を上げる。
その姿をしばらく眺めていた真十郎は、小さくため息をついた。
「他にも君に見せたいものがあるんだ」
「何?」
歩き出した真十郎の後を、アンナはまるで疑うことなく付いていく。
真十郎は、先程トーマスが潜んでいた場所にアンナを連れて行った。
そこで、深く溜息をついた真十郎を見て、アンナが首をかしげる。
「どうしたの?」
「すまない、アンナ」
「え?」
そのとたん、目の前の草むらが突然盛り上がり、そして宙に飛び上がった。
「ぇっうわっ、きゃあああああああ!!」
アンナは悲鳴を上げながら、隣に立つ真十郎にしがみつく。
「ウハハ、アハアハハハハハハハハ!!」
擬態用のローブを脱ぎ捨て、トーマスが姿を現した。
「アンナ様、今スゴイ顔してたよ!ウフ、フフフ!クソ、腹いてー!」
「あ、な、な」
アンナの顔が徐々に怒りで赤く染まっていく。
やがてその顔色が真っ赤になり、しばらく震えていたかと思うと、突然トーマスにとびかかった。
トーマスはそれを予期していたかのように身を翻し走り出す。
「アハハハハ! ヒョーーーホーーーー」
トーマスはアンナを馬鹿にするように奇声を発し、わざとヒョコヒョコと飛び跳ねるような滑稽な走り方をしながら逃げていく。
「この! 待て!」
その場に残された真十郎は、大騒ぎしながら走り去る二人を見ながら、一人深くため息をついた。
しばらくしてから、アンナが息を切らせながら一人で戻ってきた。
結局トーマスを捕まえることは出来なかったらしい。
「大丈夫か?」
そう尋ねられたアンナは、頬を膨らませながら真十郎の頬をつまんで引っ張る。
真十郎はそれを躱すこともなく、されるがままに任せていた。
「何が、大丈夫か? よ。しれっとした顔して。あなたも共犯者のくせに!」
「ああ、すまない」
フンッと鼻を鳴らし、頬を引っ張っていた指を離す。
「ねえ」
「なんだ?」
「私、そんなにヒドイ顔してた?」
そう言って、アンナが真十郎の顔を覗き込む。
どうやら、トーマスの言葉を気にしているらしい。
「どうだろうな。確かにいつもよりは崩れた顔になっていたが……。元が美しいんだ。多少崩れたところでそんなに酷くはならないだろう」
それを聞いたアンナが驚いたように目を見開いたかと思うと、そのまま固まってしまった。
心なしか、頬が赤くなっているようにも見える。
「あ…えっと……」
「どうした?」
「何でもない……」
そう言って、アンナは俯いてしまう。
真十郎はしばらくそのまま立っていたが、アンナがそれ以上喋ろうとしないのを見て、狩の獲物を小屋へと運ぶために背を向けて歩き出した。
アンナは少しためらいながら、その背中に声をかける。
「ねえ」
真十郎が振り返った。
「本当に私のことを、その、綺麗だと思ってくれてるの?」
「もちろんだ。何故そんなことを聞くんだ?」
「あなたがお世辞なんて口にするとは思えないけど……。どうして、私のことを綺麗だって思えるの?」
「どうして?」
「そう。私のどこを見て綺麗だと思うのかを教えてほしいわ」
「どこと言われてもな」
真十郎は困ったように首を傾げながら答えた。
「美醜の感覚は人それぞれだろう。俺以外の人間がどう思うかはわからない。だが、俺の感覚では君は美しい。今までに俺が出会ったどの女性よりも」
一息ついてからさらに続ける。
「それに君の美しさは近隣で宝石に例えられていると聞いた。ならば、俺と同じ様に思っている者が他にも大勢いるのだろう?」
そう言ってアンナを見ると、彼女は惚けたような顔で真十郎を見つめていた。
「アンナ?」
呼びかけると、彼女は頬を引きつらせ、徐々にその顔が赤くなっていき、やがて俯いてしまった。
下を向いているせいで顔は見えないが、耳まで赤くなっている。
しばらく待っていると、アンナが突然顔を上げた。
口を引き結び、上目づかいでこちらをじっと見つめてくる。その表情は何故か怒っているようにも見えた。
何かマズイ事を口にしただろうか?
「気に入らないわ……」
アンナは低い声でそう言うと、両手を伸ばして真十郎の両頬をつまんで引っ張る。
真十郎はその手を躱そうかとも思ったが、何故かそうしないほうが良いような気がして、されるがままにしておいた。
「なあ、アンナ……」
「なんで顔色一つ変えずにそんなセリフが口にできるのよ? あなたは」
そう言って眉間にしわを寄せながら、真十郎の頬を引っ張り続ける。
まだ、その頬は紅潮したままだ。
「ねえ、私以外の女の子にもそんな事言ってないよね?」
「そんはほと?」
口を引っ張られているせいで、まともに話すことが出来ず間抜けな言葉が返される。
「綺麗だとか、可愛いだとか」
真十郎が頬を引っ張られた状態のままで疑問を口にする。
「まずいのふぁ?」
それを聞いたアンナが深くため息をつく。
「その気もないのにそういう事言わないで。私はあなたがどういう性格かわかってるからいいけど、そうじゃない子は勘違いしちゃうから」
「その気?」
「むやみに女の子を誉めるなって言ってるの!」
「ほめるのがまずいのふぁ?」
「ええ、マズイのよ!」
「そうふぁ、しらなかった。ありがふぉう、おしえてくれて」
「え……、あ、別に、お礼なんて言わなくてもいいけど……」
そういって、アンナは真十郎の頬を引っ張っていた手を離す。
「君以外、と言ったな。君を誉めるのは問題無いのか?」
「わ、私はもう慣れてるから、その、大丈夫だけど……」
アンナはそう言って下を向いてしまった。
「私は真十郎にとってどういう存在なの?」
下を向いたままでアンナは質問する。
「ただの友達?」
「ただの……?」
真十郎は少しだけ眉を寄せ、首をかしげた。
「……それは違う気がするな」
それを聞いたアンナが顔を上げる。
「どう違うの?」
「君は俺の大事な友人であり、命の恩人だ。君がいなければ俺はもう存在すらしていなかっただろう」
その答えを聞いたアンナは不満げな表情だった。
どうやら、彼女が期待していた答えとは違っていたらしい。
「うまく説明は出来ないが、ただの友達というのは少し違う気がする」
「じゃあ、特別な存在だったりする?」
「特別……か。そうだな。確かに君は俺にとって特別な存在なのかもしれない」
それを聞いたアンナの顔が、心無しか喜びに輝いたように見えた。
「もう一回言ってみて」
「何をだ?」
「私は特別なんでしょ?」
「ああ、たぶん」
「たぶんって何よ。まあいいわ。言ってみて。私は、あなたにとって、特別な存在、なんでしょ?」
真十郎は戸惑いながらもアンナの求める通りの言葉を紡ぐ。
「ああ、君は、俺にとって、特別な、存在だ」
その言葉を聞いたアンナは微笑んだ。
目を細めて、とても、とても嬉しそうに。
宝石に例えられる彼女のその笑みは、並みの男なら一目で虜になってしまってもおかしくないだろう。
だが、真十郎はそんな感情を抱いたりはしない。
彼女はこの地を治める侯爵家の娘なのだ。
彼はそんな身の程を知らぬ感情に囚われてしまうほど愚かでは無かった。
「相変わらず、笑うのがヘタクソね」
アンナにそういわれて、真十郎は自分が笑みを浮かべていたことに気付いた。
いつの間にか、彼女の笑みにつられて自分の頬も緩んでいたらしい。
「そう……だろうか?」
真十郎は自分の頬に触れてみる。
同じことをこれまで何度もアンナに言われたが自分ではよくわからない。
だが、きっと彼女のいう事は正しいのだろう。
彼は長い間ずっと、楽しいという感情すら忘れていたのだ。
それを思い出させてくれたのは、アンナを始めとするこの地で出会った人々だった。
そのアンナが下手だというのなら、きっとそうに違いない。
自分はうまく笑えてはいないのだろう。
「じゃあ、また来るね」
真十郎の思いをよそにアンナはそう言って微笑んだ。
「何か用があったんじゃないのか?」
「別に。あなたに会いたかっただけだから」
「そうか、ありがとう」
「それだけ?」
アンナが不満そうに口を尖らせた。
真十郎はほんの少し戸惑ったような表情を見せたのちに、小さく笑った。
以前にも同じようなやり取りをしたことがあったような気がする。
こういう場合はこう答えなさいとアンナに言われて、その通りに答えた記憶があった。
あの時は何と答えただろうか?
彼は記憶に残っていた言葉を思い出し、それを口にした。
「ありがとう。俺も君に会えて嬉しかった」
その言葉を聞いたアンナは先程と同じように目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。