消毒のかおり
か細い腕からは想像も出来ないような力で、女性はジェルトの左腕をがっちりと握りこんでいる。女性の座った椅子とは反対側の腕なので、引っ張られた事で身体は拗られて、後ろに反り返っている。女性は食い入るように腕の様子を確認すると、やや後ろに置かれたワゴンの中を空いた右手で器用にがさがさと漁りながら口を開いた。
「驚いただろう。すまなかったな。私はエリュン・レヌアント。一学年における剣術の教師だ。君の名前を聞いても?」
ジェルトの傷とベッドに並べた医療品とを見比べながら、女性は名乗った。表情は涼しげで怒っているようには見えない。しかしフィオナに感じるような暖かさもあまりなく、ジェルトは壁側に体を捻られたまま、緊張した顔付きで少しばかりエリュンに向きつつも名乗る。
「ジェルト・ゴージです」
「そうか、ジェルト。君は一学年だろう。何故あそこにいた?授業のためではないな?......痛むぞ」
そう言うとエリュンは薬品の染み込んだガーゼで傷をぐいぐいと拭き始める。
「?!」
ジェルトは反射的にびくりと体が跳ねた。声にもならず、びりびりと電流のように流れる痛みから、腕が無意識に逃れようとした。しかしエリュンに固く掴まれた腕はびくともしない。ひぃ、と口元から息がかった悲鳴が漏れた。きっと絶対に涙が滲んでいるに違いない。
エリュンは一切手元を緩めない。
「では、ジェルト。この傷の他に付いた内出血の痕についてはどうだ。理由を話せるか?」
ちらりと一瞬ジェルトを見上げると、手元はそのままに質問を続ける。
ジェルトは困ってしまった。起きた事をそのままに伝えてしまったら、本格的にヴィルエッド達を敵に回すことと同義であるからだ。
返答に戸惑うジェルトをよそ目に、エリュンは一度ジェルトの腕から手を話して今度はじっくりとジェルトの目を見た。
「校内で、そして闘技場で起きたことだ。おまけに不自然なのは君にもわかるな?この内出血は縄の痕だ。床に散らばった縄と、それから君の足に残ったものを見ればすぐに分かる。教師としては聞くに障りないこと極まりないが」
そこで一度エリュンは口を閉じた。
ジェルトの顔色はとても良いとは言えない。僅かな緊張のまま、エリュンの様子を伺っている。
エリュンは一つため息を吐くと、血を拭き取ったガーゼをワゴンの小さなポケットに放り込んだ。
「君にも事情があるのは承知だからな。まぁいずれ聞けることに期待はするが、今はこの程度に留めよう」
それを聞いて、ジェルトは心底ほっとした。
「ありがとうございます」
そう言って前を向こうとすると、エリュンはまたジェルトの腕をがっちりと掴んでその動きを止めた。
「治療はまだ終えておらんよ。もう少し黙っていたまえ」
そうして、エリュンはまたワゴンを弄りだした。
薬を何種類かにわけて傷に薄く塗り込んで、包帯できゅっと絞めると満足気に一度頷いて立ち上がる。
手際良く治療を終えたエリュンは、てきぱきとワゴンを元に戻し「安静に」と一言残して授業へと戻って行った。
エリュンが去った一人きりの空間で、ジェルトはベッドに倒れ込んで天井をじっと見つめる。そうしてぼんやりと、安心を噛み締めてみる。実感が湧いていないのか、それとも思考が覚束無いのか。天井を見上げて思ったのは、アデルもこの天井を見ていたのだろうなというものだった。
安心は出来たものの、自分に起きた一連の出来事はとても予想のつかないものだった。そんな中この質素な天井を見上げて、自分の置かれた状況や立場もあまり理解出来なくて。自分としての内情を言えば、率直に心細かった。
こんな状況で今、もし顔を見て安心をしたいほどの間柄である友人に壁を感じたら......そこまで考えて、ジェルトは思わず枕に顔を押し付けた。
声もなく、心が騒ぐままに静かに悶えた。
ジェルトはこれまで、自分の弱虫な性格や引っ込み思案で煮え切らない気質を良く理解して生きてきた。どこか鈍臭いと言えばいいのか、何かにつけて失敗も多かった。自覚しているからこそ、これまで育ってきた時間の中、まともに友人を作ることなんかなかったのだ。
そうした行動が結果としては周りとの孤立を生んだ。ジェルトは変わりたくて、やり直したくて、両親から離れたこの地に来たのだ。
思えばアデルの初めて見た姿を、どこか似てると感じたのかもしれない。何か惹かれたものがあったのだろう。だからこそ、初めの一歩としてアデルを選んだのだと今は思う。
けれどたったその一日でジェルトの予想は少しばかり外れたように思えた。アデルは自分なんかよりももっと純粋で、真っ直ぐな子供のような人物で、自分ほどの怖がりではなかった。それが眩しくて、憧れに似たような期待を寄せた途端の出来事だった。まだ信頼がそれほど構築出来ていないたった一日の出来事だ。アデルに向けた感情が、全て訳の分からない恐怖になった。こうゆうところが嫌いなのだ。自分のこんな性格が。
そしてさらに時間が過ぎて、今になって実感する。自分の醜い臆病な性格のせいで、自分を知ろうとして友達だと思ってくれた友人を無残に傷付けたのだ。これがアデルにとって深い傷となってしまったら、第二の自分が出来上がるのではないか。
ジェルトは体の力をすっと抜くと、項垂れてしばらく動かなかった。
頭の中を一度真っ白に染めてしまいたくなって、身体中の痛みを一つ一つ数えていくうちに、ジェルトはいつしか眠り込んで小さな寝息を立て始めた。




