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9/12

 今年も金木犀の香りが通りのあちこちで漂う季節になった。未来の自宅の庭にもあって、毎年誕生日が近づくと、その日に合わせてくれたかのように何とも言えぬ季節の香りを放つ。この香りはどうして、心の奥まで入り込んで、隠れていた感情を揺り起こすのだろう。あまりに深いところにあって、自分でもその気持ちに気付かず、ハッとさせられることもよくある。しかし今の未来は、一つのことで占められているのか、その香りに姿を現すのも、常に抱えている苦しさだけだった。

「ね、最近の唯様、すっごく良い匂いがしない?」

「何処の香水かな、」

 廊下で女子生徒たちがそんなことを言いながら通り過ぎた。今頃何を言っているんだ、と未来は心の中で呟く。何より、それほど深い悩みを抱えているようには見えなかった。未来は、初めて城戸の側に行った時から、あの香りを感じていた。何が悩みだと特定できないほど、不安定だったからだろうか。当時を振り返ってみたが、試験勉強に追われて焦る自分の姿しか思い浮かばなかった。

 あの不思議な出来事から一ヶ月あまりが経ち、城戸との関係は今まで通り、授業中の受け答えをするのみとなっていた。未来の城戸への想いは変わらなかったが、あの日以来、少し落ち着いた気がしている。それはもしかしたら、この間までの未来には城戸を思う智の気持ちも重なっていて、加速度的に高まっていたからかも知れない。何にしても、暗い過去に苦しんでいた城戸を、少しでも癒してやれたことに、未来は満足していた。

「どうしたんだよ、未来? ニヤニヤしちゃって。気持ち悪い」

 久しぶりに俊介と中庭で昼食をとっていた未来は、そう指摘されて我に返った。

「聞くまでもないけど、何かいいことあった?」

 無言の笑顔で頷いてみせる。

「テストの点数が上がった、とかそういうつまんないことは言うなよ?」

 実際それも嬉しいことだったが、また英語の点数が上がったのだ。答案用紙を返す城戸から、頑張ったね、と言われて、嬉しさも倍増だった。

「それで? 城戸とどこまでいったの」

「声がデカい!」

 未来は咄嗟に辺りを見回した。噴水のフチには他にも数人の生徒が座って談笑しているが、幸い聞こえてはいないようだった。

「何にもあるわけないだろ? 変なこと言うなよ」

「なんだ、つまんねーの」

 本当につまらなさそうに、水の乾いた噴水の中に立ち上がる。未来は、自分が本当にそういう関係を望んでいるわけではないと、信じていた。城戸の過去を話すわけにはいかないが、コンクールの前日の電話や、演奏の後の音楽室での出来事を話すと、

「へえ……。マジでそれ、いけるんじゃないの? あり得ないもんな、絶対」

 感心したように、俊介がまた未来の隣に戻る。

「未来、って呼ばれて、何て呼んでんの? まさか、唯?」

「俊介!」

 ごめんごめん、とふざけた謝り方で、全く反省の色がない。しかし、智の言葉だったとは言え、唯、と呼んだ時の心地良さを思い出し、また顔が綻んでしまうのだった。

 俊介と話しているとどんどんエスカレートしていきそうで、未来は、もういいよ、と怒ったフリで背を向けた。進展したら報告しろよ、という俊介の声にも、聞こえないフリをして歩き出した。が、ふと思い立って、中庭に戻る。まだ噴水のところで携帯を手に寝そべっている俊介に、

「ねえ、何か悩み事があったら、言ってよ。……俺ばっかり、話聞いてもらってる気がするしさ、」

「……どうしたの、急に」

「どうもしないけど、言いたかっただけ。じゃあね」

 俊介が怪訝な顔をするのももっともだったが、未来はそれで少し心が軽くなり、今度こそ教室に戻った。


 六時間目、英語の授業が始まり、いつものように長文を流暢な発音で読んで聞かせる城戸を、未来は窓際の、一番後ろの席から肩肘をついて見ていた。容姿を意識しているのか、少々長めで茶色い髪の色は、生まれつきなのだろうか。ほんの少し、くせのある、柔らかそうな髪。大学でも、モテたんだろうな……。城戸はよく使う言い回しを、流れるような筆記体で黒板に書き、

「この熟語を使って、自分の周りで起こったことを英語で言ってみて下さい。森下くん」

 急に名前を呼ばれて、心臓が止まりそうになった。当然上の空だった未来は、答えることができずに俯いてしまう。今更教科書を見ても、どうにもならなかった。

「普段から、いつもの会話を英語に置き換えてみるように意識すれば、何も難しくないよ。次の時間までに、皆さんも、考えておいて下さい」

 チャイムが鳴り、未来はホッとして机に伏せた。まだ胸がドキドキいっている。人前が苦手な未来には、授業中に当てられて答えることも、苦痛だった。

「未来くん、随分困ってたね」

 杏奈が可笑しそうに言って前の席に座った。

「ちょっとよそ見してただけなのにさ。……バレてたのかな」

 実際城戸と目が合ったわけではなかったのに、と溜め息をつく。徐々に教室から生徒の姿が消え、未来と杏奈の二人だけになった。

「部活引退したの、寂しいね」

 杏奈が、ぽつり、と言った。

「そうだね。……やっと、放課後、音楽室に行きそうになる癖が抜けてきたよ」

 私も、と杏奈が笑う。彼女は何か話があるのか、しばらく未来の側に佇んで黙っていたが、思い切ったように、

「私ね、……もう一度、告白してみようかな」

 その言葉に、未来は思わず杏奈の顔を見つめた。

「……先生に?」

「うん。コンクールが終わったとき、少しだけ話ができたの。先生のほうから話しかけてくれたんだよ? 前のことなんて気にしてないみたいにすっごく優しくて、頑張ったね、いい想い出ができたね、って言ってくれたんだ」

 杏奈はうっとりと、その時の様子を思い浮かべながら話した。自分に対するのと同じように、杏奈にも優しい言葉をかけていたことが何だか悔しくなる。こんなにも独占欲が強かったかと自分に辟易しながらも、頑張れよ、という一言がかけられず、未来は胸を痛めた。

 杏奈が帰って行き、いつものように教科書を開いた未来だったが、すぐに閉じて教室を出た。まだ明るい坂道をいつになくゆっくりと歩いていると、あちこちから金木犀の香りが流れて来て、心に染み込む。苦しくて、切なくて、思わず駆け出した未来は、車庫から庭に飛び込んでミミを抱いた。

「クゥーン、」

 涙が止まらない。ミミの首筋に顔を埋めていると、驚いた母親がリビングから顔を出した。

「ちょっと、未来? ただいまくらい言いなさい。泥棒かと思ったわ」

 珍しく早く帰ってきたと思ったら、と呆れたように言ったが、未来の様子がおかしいことに気付いて庭に出てきた。

「未来? どうしたの、」

 何も答えず泣き続ける未来の心の中は、誰にも見せることは出来ない。未来はただ、止めどなく流れる涙が、この悲しみを早く連れ去ってくれることだけを願った。

 夜になっても、未来は自分の部屋から一歩も出ずに、ベッドに伏せていた。自分では、城戸が未来を智の代わりにしていたことなど、気にしていないつもりだった。身に余るほどの優しさが、全て智への罪滅ぼしだったということも、城戸が立ち直ってくれたのならそれでいいと思っていたはずだった。しかし未来の心は、自分が認識しているよりも酷く、傷ついていた。その傷口が、今になって、耐えられないほど痛む。側にいると思っていた城戸の心にいたのは、常に智だったのだ。智と混同しないように未来を名前で呼んだとしても、心の中の智はいつも、未来に重ねられていたに違いない。あのコンクールの日の言葉も、ピアノも、何もかも、未来ではなく智へ向けたもの。そう思うと、震えるほど悔しくて、悲しかった。


「もうすぐ、誕生日ね。何が欲しいの?」

 休日の朝食のテーブルで母親が尋ねた。

「……別に、何もいらない」

「何でもいいのよ? ホラ、前から欲しがってたゲームがあるじゃない」

「いらないよ」

 未来の反応に、両親は顔を見合わせる。気を遣われていることに気付いたが、それが余計に癇に障った。未来は席を立ち、行ってきます、と当てもなく家を出た。が、すぐに車庫の向こうで、ワン! と吠えるミミの声が聞こえ、自分も連れて行けと言われた気がして、庭に戻る。

「俺に命令するなんて、生意気なヤツだな」

 未来はそう言いながら、ミミの首輪にリードをつけた。するとミミは、いつもの散歩コースを無視し、坂道をどんどん駆け上がっていく。まるでもう目的地を決めているかのような足取りだった。引かれるがままについていくと、ミミは坂を上りきったところで一度振り返り、校門の中へと未来を導いた。

「……どこへ行くんだよ、ミミ、止まれ!」

 幾分強い口調で注意したが、ミミは聞かない。こんなことは珍しくて、未来は少し怖くなってきた。

「ミミ、いい加減にしろ!」

 リードを強く引き、無理矢理ミミを止まらせた。悪びれるふうもなく、ミミは座って、いつものように未来の目を見る。

「……、」

 ふと、何処かからピアノの音が聞こえて、未来はハッとした。咄嗟にミミを見ると、もう役目は終わったと言わんばかりに、退屈そうにあくびをする。

「おまえ、まさか」

 未来はミミを抱き上げ、校舎の中に入った。上履きに変え、誰もいない廊下を走る。その途中で音が聞こえなくなり、未来はさらにスピードを上げた。階段を三階まで一気に駆け上がり、音楽室のドアを開けると、思った通り、そこには城戸の姿があった。

「未来、」

 驚いたように椅子から立ち上がり、息を切らせている未来の側へと歩み寄った。

「どうしたの、そんなに慌てて」

 ミミに気付いて、連れてこられたの? と話しかける。

「違うよ、ミミに連れてこられたんだよ。ミミとはここに、来たこともないのに」

 未来はいつになくムキになってそう訴えた。明らかに、未来の意志ではなく、ミミの意志でここに来たのだ。

「……じゃあ、僕の思いが通じたのかな、」

 不可解なことを言って、城戸はミミを撫でた。ミミはしきりに短い尻尾を振って、愛想を振りまいている。未来はようやく落ち着いてきて、ミミを床に放した。

「大人しいね、ミミ」

 城戸がしゃがむと、ミミは調子に乗って、膝に登ろうとする。

「……犬、好きなんですか?」

「うん。カナダにいた頃、そこの家で、すっごく大きなセントバーナードを飼っていてね、可愛かったな」

 自分とだけ、成り立つ会話だということを、未来はすぐに意識した。城戸はその犬に比べれば、何倍も小さいミミを、胸に抱き上げる。休日だからか、いつもと違う服装に、何だか新鮮な印象を受けた。ジッと見すぎてしまったのか、不意に目が合う。

「未来、今日の予定は?」

 急に尋ねられ、特に何もなかった未来は首を横に振る。

「これから、頼まれた買い物をしに行くんだけど、未来も手伝ってくれない?」

「買い物、」

「ご飯、奢るから」

 断る理由も見つからず、未来は城戸の車で一旦自宅に戻り、ミミを庭に戻した。

「未来?」

「ちょっと、出掛けてくるから、」

 リビングから顔を出した母親に、それだけ言って、未来は逃げるように庭を出た。


 さっきまでの重い心が、突如として舞い降りた偶然で、一気に晴れていく。秋晴れの空も、いつも以上に澄んで見えた。昨日はあんなに悲しくて泣いたくせに、と現金な自分に呆れながらも、城戸の車の中で、この助手席に何度も乗ったことがあるのも自分だけだろう、と優越感に浸ってみる。

「先生って、細かいこと、気にするほうですか?」

 何、その質問、と可笑しそうに笑う横顔に、もう今までの影はない。

「俺、もう細かいこと気にするの、やめようと思って」

「何をそんなに気にしてたの?」

「……それは、言えないけど、」

 さすがに本人に向かっては言えず、俯いた未来は、ふと城戸の香水が以前と違うことに気がつく。

「そういえば、こないだ言ってた瓶って、どこにあるんですか? 何か、前と匂いが違う」

 城戸は一瞬、驚いたように未来のほうを見た。が、すぐに笑って、

「どこだと思う?」

 あとで教えてあげる、と車を停めた。

 休日の街は、どこを見ても人の顔。こんなにどこから来たのかと不思議になるほどの混雑ぶりだ。そんな中で、学校でしか会うはずのなかった城戸と一緒にいる状況が夢のようで、未来は急に心拍数が跳ね上がるのを感じた。ふと、この中に知り合いがいて、城戸と二人の所を見られはしないかと心配になり、隣の教師のほうを窺ってみたが、城戸はそんなこと、まるで気にしていない様子で、その人混みの中を歩いた。

 アパレルショップが多く並ぶ辺りまで来て、未来の緊張もようやく少し、落ち着いてきた。買い物があると言った城戸は、目的地があるのかないのか、ゆっくりと未来を連れて歩く。未来も自然と、周りの店を見ながらついて行った。すると、いつも経済的な理由にするのが悔しくて、自分にはまだ早いと通り過ぎていたブランドショップの中に、一つのマフラーが目にとまった。赤の差し色が効いた、白とグレーのストライプ。城戸に、似合いそう。そう思っていると、城戸がそれを手に取った。

「これ、いいね。これだったら、学校でもいけるかな」

 聞かれて、未来は大きく頷く。やはり、仕事とプライベートの服装を区別しているらしく、それが解って、嬉しくなった。

「未来にも似合うんじゃない?」

 城戸はそう言って、突然それを、未来の首に巻く。カシミヤの優しい肌触りと、その距離の近さに、未来の心臓はまた、大きな音をたてた。そんなことにはお構いなしに、未来の肩に手を添えて鏡の前に連れて行き、

「ホラ、似合ってるよ」

 鏡越しに目が合って、未来はどうしていいか解らなくなり、先生のほうが似合うよ、と誤摩化した。

 再び歩き出し、ふとショーケースの中に、お気に入りのG-shockを見つけた未来は、思わず側に寄って眺めた。ずっと欲しくて、でも買えずにいる時計だ。入学した時に一つ買ってもらった手前、壊れてもいないのに新しいのが欲しいとはなかなか言えず、いつも眺めるだけになっている。森下家では、友達と何処かへ遊びに行く程度の小遣いしか与えられず、必要な物を必要な時に買い与えるというシステムのため、まさしく分相応の買い物しかできない。当然バイトは禁止で、唯一の収入源のお年玉も殆どは母親が銀行に預けてしまい、その通帳も印鑑もない未来は、その大金を持っていないも同然だ。

「どれが好きなの?」

 また、ビックリするほどの至近距離で、城戸が尋ねた。未来はまだ慣れない香りにドキドキしながら、その水色の腕時計を指差す。

「暗いところでライトをつけたら、きっと綺麗だよ」

 動揺のあまり、思わず友達口調で言ってしまって、すみません、と謝った。

「細かいこと気にするの、やめるんじゃなかったっけ?」

 言われて、思わず苦笑してしまう。朝ご飯、食べなかったからお腹減ったよ、と肝心の買い物など忘れたふうな城戸に、未来は恐る恐る尋ねてみた。

「あのさ、買い物、しなくていいの?」

「ご飯のあとにしよう。ね?」


 結局、頼まれたという買い物らしいことは全くしないまま、夕方になった。律儀な未来は、人ごとながら心配になったが、そろそろ帰ろうか、と言われて急に寂しくなる。駐車場の薄暗い階段の途中で、未来はつい、

「まだ、帰りたくないよ、」

 その言葉に城戸は少し笑って、

「帰らないから、車に乗って?」

 と、助手席のドアを開けた。今まで、何人もの恋人に、同じことを言われてきたんだろう。未来は動き出した車の中で、そんなことを考えて勝手に嫉妬した。車はコンクールの日に通った裏道を抜け、あっという間に学校に着く。帰らないって言ったくせに。未来は寂しさに言葉を失い、黙って車を降りた。

「この学校は、景色がいいよね。朝も、昼も、夜も、……ずっと見ていられる気がする」

 城戸は夕日の傾いた空を見て言った。いつも、二年五組の窓から外を眺めていた城戸の姿を思い出す。

「……音楽室からの夕日が一番綺麗だよ」

 未来は毎日眺めた景色を思い出し、また少し切なくなった。

「じゃあ、見に行こうか」

 学校が、特別な場所に変わったこと。城戸に出逢うまでの未来には、放課後の学校は、部活が終わったら用のない場所だった。一刻も早く、抜け出したいと思っていた。それが今では、何よりも大切な時間を過ごせる場所になった。過ぎ去って行く時間を、留めておけるものがあったらいいのに。そんなこと、今まで考えたこともなかった。

 二人は夕日と校舎が作り出すコントラストで影絵のように見える廊下を抜け、三階の音楽室に戻った。窓を開けると、その風はもう肌寒く、ハッキリと秋の深まりを告げている。季節が変わって行けば、いつか別れの時がやってくる。その日がもう、すぐそこまで来ていることに、未来はまだ気付かないフリをしていたかった。

「今日は、ありがと。楽しかった」

 不意に未来と向かい合った城戸が、そう言った。思いがけない言葉に、それだけで、胸が一杯になってしまう。自分が先にお礼を言うべきところだったのに、と思っていると、

「ウソついて、ごめんね」

 その言葉の意味に、ようやく気付いた未来は、思わず城戸の顔を見た。

「今気付いたの?」

 幾分呆れたように言って、笑う。未来も可笑しくなって、笑った。

「ピアノ、聴きたいな」

 夕日の美しさが、未来を大胆にしてくれる。城戸はいつものように、頷いてピアノに向かった。綺麗な指先から、深く甘いメロディが流れ出す。今までに聴いた、どの音よりも優しく、切なく胸に響いた。温かい海のような、大きな包容力を思わせたかと思うと、途中、嵐のように激しく揺さぶりながら未来の心を弄ぶ。まるで恋人への思いをぶつけるかのような激しさと優しさ。それは不思議と、届かぬ思いを抱えた未来の苦しさと重なった。表情を変えて繰り返される穏やかな主旋律は何とも言えず心地良く、未来は目を閉じて聴き入っていた。時が止まってほしい。このままいつまでも、城戸のピアノの音に包まれていたい。未来は心から、そう願っていた。

 演奏が終わり、そっと目を開けると、夕日はもう最後の光だけになって、音楽室を優しい闇に包もうとしていた。胸にはまだピアノの音が響いている。夢なのか現実なのか、本当に解らなくなる瞬間があるのだ。城戸の瞳を、ただ見つめて、未来は現実に戻ろうとする自分の意識を引き止めていた。

 いつもは教えてくれるタイトルを、城戸は敢えて言わなかったのだろうか。学校を出た未来は、坂の上から、今沈んでいく太陽を見つめていた。



「先輩、ケーキ食べようよ」

 誕生日のプレゼントを買ってくれると言うので、未来は沙耶と休日の街に出てきていた。気持ちの良い秋晴れで、行楽に出掛ける人が多いのか、街の混雑は思ったほど酷くない。普段なら、入る気も失せるほど行列ができるカフェも、数組のカップルが待っているだけだ。

「みんな、大人だね。高校生なんて、私たちくらいかな」

 沙耶が、他の客を観察しながら言った。確かに、どのカップルも、社会人に見える。

「ねえ、先輩は、早く大人になりたい?」

 唐突に聞かれて、未来は答えに困る。

「うーん、……どうだろう。なりたい、のかな」

 自分でも、よく解らない。今の生活に特に不満はなかったし、とりわけ急いで大人になる必要は、ないようにも思えた。

「私はね、早く大人になりたいの。だって、お姉ちゃんがすっごく楽しそうなんだもん。大人になったら、きっと今より何倍も、楽しいことがあるんだよ」

 沙耶の姉に会ったことはないが、既に社会人らしい。お下がりだと言って洋服をくれるのだが、趣味が合わなくて着られない、と嘆いた。沙耶はいつも女の子らしい恰好をしているから、姉のほうはきっとサッパリした恰好が好みなんだろう、と想像できる。

「週末なんて、ほとんど合コンだよ? で、いつも違う人に送ってもらって帰って来るの」

 社会に出たら、自分はどう変わるんだろう。高校を卒業して、大学を出て、教師になって……。卒業、か。不意に寂しさに襲われて、頭の中からその感情を追い出す。卒業する前に、まだ大学受験が控えているじゃないか。ようやく決まった志望校に合格するには、まだ英語の学力が、足りない。もっと勉強しなきゃ。少し前までは、未来の中の何処を探しても見つからなかった言葉が、今は常に頭にある。社会人になった自分の姿など、未来にはまだ想像できなかった。

 誕生日だからと、ケーキを二つも食べて満腹になった二人は、再び外を歩いていた。沙耶は見つけた派手なマフラーを未来の首に巻いて、鏡に映して見せている。

「どうしたの? 先輩」

「……ううん、何でもないよ」

 つい先日、城戸と二人で歩いた場所だった。あのときのマフラーはまだ向かいの店の硝子のケースの中にある。自分が見つけたものを、城戸に気に入ってもらえたことが、嬉しかった。

「何だか、全然別のこと、考えてるみたい」

 不満そうに言われて、ハッとした未来は、

「マフラーはいいよ。まだ冬には早いし。それより俺、ゲームソフトが欲しいな。中古でいいからさ、」

 そんなの、つまんない、と膨れる沙耶を連れて、逃げるようにその場所から離れた。ダメだよ、やっぱり。心の中で、自分を咎める声がする。沙耶のことは、好きだけど、もう……。


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