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過去

 瑠未が北海道に帰って一ヶ月が過ぎ、森下家はまた、三人と一匹の生活のリズムを取り戻していた。一週間という短い時間でも、長年繰り返してきた生活はあっという間に元通りになり、それが終わる頃には、翌日から瑠未がいないのが不思議なほどだった。しかし、以前ほどの寂しさはなく、人は慣れる生き物なのだと再確認する。幸せなことや楽しいことには慣れたくないな、と、未来はコンクールの日の感動を思った。

 吹奏楽コンクールで金賞を取るということは、必然的にもう一つ上の大会に出る権利を得ることだったが、進学校ということもあり、それは辞退することになった。引退した未来は、授業が終わると音楽室に向かいそうになる自分に、溜め息をつく毎日。しかし、城戸との距離がどんどん縮まっていくことに、嬉しさと怖さが混在し、相変わらず落ち着かない日々を送っていた。

 放課後の教室でいつもの居残りをするようになっていた未来は、どうしても城戸に質問したいことができ、職員室に赴いた。しかし城戸の姿は見えず、またあそこか、と二年五組の教室に向かう。すると、少しだけ開いた扉から、話し声が漏れていた。

「今さら、そんな無責任なことを言い出して、どうするつもりだ」

 野口の声だ。未来は悪いと思いながらも、聞き耳を立てた。

「何のために教師になったんだ? 二度とあんなことを繰り返したくないからじゃないのか?」

 野口の相手が城戸であることは、多分間違いないのだろう。しかし……。

「今度は何があったか知らないが、結局また逃げるんじゃないか。おまえはちっとも成長してないな。あいつに言われたことを、忘れたのか?」

「……忘れたことなんて、ありません」

「それなら、逃げるのはおかしいだろう。……いい加減、あいつを安心させてやれよ。おまえがいつまでたってもそれじゃ、心配でゆっくり眠れないだろうからな」

 話の内容の重さを知り、聞いてしまったことを後悔しても、遅かった。しばらく沈黙が続いたあと、

「しっかりしろ! おまえはもう、ここの生徒じゃない。指導する立場なんだぞ? 簡単に辞めるなんて口にするな! 解ったら、顔を洗ってこい!」

 野口の厳しい口調に、未来まで竦んでしまって動けずにいると、やがて中から野口が出てきた。未来が手にしていた英語の教科書に気付いてか、

「何だ、城戸先生に用事なら、また今度にしろ。今はちょっと都合が悪いからな」

 まだ不機嫌そうに言って、後ろ手に扉を閉め、廊下を足早に歩いていった。それが入るなと言う意味だとは容易に知れたが、未来は少し迷ったのちにそっと扉を開け、思い切って教室に入った。窓際の席で頭を抱えるように俯いていた城戸が、慌てて涙を拭う。

「先生、……」

 泣いているとは思わず、かける言葉が見つけられずにいると、

「……ごめん、」

 城戸はそう言って、逃げるように席を立とうとする。未来はそれを止めた。

「狡いよ、自分は悩んでても、言わないなんて。それとも、俺じゃ、頼りないですか?」

 先日から、城戸の寂し気な様子は、気になっていた。しかし、未来が弱さに触れる前に、その深いであろう傷を隠してしまう。城戸は未来の真剣な様子に心を動かされたのか、しばし迷った後に再び腰を下ろした。

「野口先生はね、僕が二年生の時の、担任だった人だよ」

 城戸の口調は穏やかだったが、いつもの優しさを覆い尽くすように、ただ悲しみに満ちていた。未来はその前の席に座り、俯いている城戸の悲し気な顔を見つめた。

「小さい頃から仲が良くて、いつも一緒に遊んでた智(さとし)っていう友達がいた。高校も同じで、僕はバスケ部、智は吹奏楽部で部活は違ったけど、終わると駅前の店で待ち合わせて色々な話をして、楽しかった。お互い、何でも話し合える仲だと、思ってた。……でも、三年生になってすぐ、智は急に、笑わなくなった。僕が聞いても、何でもないって答えるだけで、……授業はちゃんと出てるし、部活にも行ってるみたいだし、気のせいかな、って思った。受験生になって、塾にも行ってたから、急に頑張りすぎて疲れたんだろうって」

 城戸は弱々しい声で話し、辛そうに息を吐いた。

「それでも、そんな日が続くと、僕はすごく寂しくなって……。智の素っ気ない態度が、塾にも行かず、部活ばかりやっている僕を、軽蔑してるからなんじゃないかって、思えてきた。だから、僕もだんだん、智と距離を置くようになってしまった」

 視線を落とし、指先で、机の傷をなぞる。未来はその綺麗に整った爪先を見ていた。

「梅雨時で、霧雨が降ってた。夕方、部活を終えて駅に着くと、いつものところに智が立ってたんだ。僕を待ってるわけがないと思って、何も話しかけずにそこを通り過ぎたけど……その夜、なんだか智のことが気になって、眠れなくて。何度も智に電話しようと思ったけど、できなかった。智の冷たい声を聞くのが怖かったから。……次の日、智は……部屋で、首を吊って、死んでた」

 未来は体が震えて止まらなかった。思わず、自分で自分を抱きしめる。

「原因は、進路のことだったって、後で智のご両親から聞いて、解ったけど……その時の僕には、何も解らなくて、……どうして何もしてやれなかったんだろう。……親友が、そんなにも悩んでいたのに。悩みを聞いてほしくてあそこで僕を待ってたのに、どうして、」

 城戸はその瞳から幾つも涙を零した。その時の城戸の心情を思うと、胸が張り裂けそうになり、未来はたまらず、机の上で握りしめた城戸の両手に、自分の手を添えた。震えるほど硬く握られ、冷たく凍えそうなその手が、未来の手に触れ、少しだけ、緩んだ。何とか慰めてやりたい、そう思う反面、城戸の自分への親しみが、その智という吹奏楽部員だった親友と重ねていたからであろうことに、気付かざるを得なかった。……それでもいい。未来は、一生懸命、城戸の冷たい手を温めた。


「……未来、ありがとう」

 どれくらい経ったのだろう。教室はもう暗くて、僅かな月明かりだけが窓から射し込んでいた。すぐ目の前にある綺麗な顔からはまだ、完全に悲しみの色が消えたわけではなかったが、いくらか表情を取り戻して、いつもの笑顔を作ってみせる。触れたままの城戸の手が、今度はそっと未来の両手を包んだ。

「未来はこんなにも優しいのに、僕は……」

 また、その瞳から、涙が零れ落ちる。月に照らされた彼の顔は、ハッとするほど美しかった。

「僕はいつの間にか、未来を利用してた。自分の傷を癒すための、道具にしてた。それにある日、気がついた」

 未来は覚悟していたはずのその言葉に、深く傷つくのを感じた。信じたくない。こんなにも心を奪っておきながら……。

「いつか、未来の楽器を見せてもらった時のこと、覚えてる?」

 未来は頷きながら、忘れようのないあの日の出来事を、鮮明に思い出していた。未来のトランペットを手に取った時の、慣れない手つきが可笑しかった。

「智もね、トランペットを持っていたんだ。入学祝いに買ってもらったんだって、自慢してた。でも、どんなに頼んでも、触らせてくれなくて。きっと何よりも大事にしてるんだな、って、ちょっと悔しかったな」

 城戸は、その時の様子を思い出しているのか、ふと柔らかい表情で笑った。

「あの日未来は、少しも躊躇わずに、僕にトランペットを差し出してくれたよね。……僕は智なんかじゃない、って言われたような気がして……それで、自分のしてることが、どんなに愚かなことか、解ったよ」

 暗い教室で、城戸は何もかも、話してくれた。智が自殺したことにショックを受けて、学校に行けなくなったこと。そんな息子を案じて、両親が城戸を、知り合いのいるカナダに留学させたこと。そのホストファミリーの老夫婦に、とても良くしてもらったこと。

「そのママが、いつまでも心を開かない僕にこう言ったんだ。犯してしまった過ちは、時間を戻さない限り、消すことはできない。神に祈ってもね、って。でも、再び同じ過ちを繰り返さないために、精一杯努力することはできるんだよ、そう言って、あるとき一つの小さな瓶を僕にくれた、……」


『この瓶は、とても良い香りがするでしょ?』


『うん、』


『でも、私にはこの香りがしないのよ。これは不思議な瓶で、心を穏やかにする力を持っているの。心を病んでいるほど、強く香って抱えている痛みを和らげてくれる。持っている人に本当の笑顔が戻るまで、香り続けるのよ。……私は今、唯が側にいて、とっても幸せだから、何の香りもしないわ。だからこれをあなたにあげる。どんなときも身につけて、笑顔を忘れないようにしなさい。笑っていれば、いつか本当の笑顔が戻ってくるから』


 城戸の優しさのわけ。いつも笑顔を絶やさないわけ。未来は常に自分の心と戦ってきたこの教師の孤独を、今初めて知った。

「もう、大丈夫。……職員室に戻らなきゃ。野口先生が、待ってるだろうから」

 城戸はそう言って、そっと未来の手を離した。立ち上がり、教室を出て行こうとするその背中に、未来は思わずこう言っていた。

「最後に一度だけ、智になってあげる」

「……、」

「言いたかったこと、あるんでしょ? 何でも言ってよ」

 振り返った城戸は、信じられないという表情で、立ち尽くした。しかし、再び未来の目の前に立って手を取り、食い入るようにその目を見つめた。未来にはそれが、自分を通して、あの日の智を見ているのだと、解っていた。

「……智のこと、何でも知ってると思ってた。年下の彼女のことも、テストの点数も、……甘いものが好きで、いつも虫歯を作ってたことも。でも、智の悩みだけは知らなかった。一度も、打ち明けてくれたことがなかったから。……頼りなかったんだよね、きっと。お姉ちゃん子で、人見知りで、いつまでたっても子供みたいな僕に、進路の悩みなんて、言えないよね。僕は馬鹿だから、あの日も、智がどうしてあそこに立っていたのか、解らなかった。そんな頼りない僕にでも、話したいことが、あったのにね、……ごめんね、智、……許して、」

 泣きながら、崩れるように床に膝をついた。未来は城戸の手を強く握り、離さなかった。

「もう泣くなよ、唯」

 無意識に、未来の口が動く。

「唯のせいなんかじゃないんだよ。だから、もう自分を許してやれよ。……笑って、唯。唯の、笑った顔、一番好きだよ」

「智、」

 その瞬間、未来は信じられない体験をした。自分の体に重なるように、知らない生徒が立っている。その両手が、まだ幼さの残る城戸の頬に、触れたかのように見えた。

「笑って」

 未来の口を通して、その言葉が聞こえると同時に、彼の姿は見えなくなった。


 何が起こったのか。未来はしばらく、呆然と城戸の手を握ったまま立ち尽くしていた。しかし、これだけは解る。智は城戸のことが、心配だったのだ。いつまでも自分を責めて、決して本当に笑うことのない親友に、もう一度、笑ってほしかったのだ。

「先生、良かったね」

 未来は敢えて、いつも自分の冷静さを保つために使っていた敬語をやめた。

「今のは夢じゃないよ。智がホントに先生に会いにきたんだよ」

 言いながら、未来は、智が自分に似ていたかどうか確かめられなかったことを悔やんだ。そして、智の代役なんて、もう絶対にご免だと、急に怒りが込み上げてくる。

「今のうちにこれだけは言っとくけど、俺は未来だから。もう智の代わりなんてしないよ。それに、先生を辞めたいなんて言うのも禁止だからね。もし、俺を利用したことが原因なら、俺は全然、気にしてないから」

 そう言って、先に教室を出た。立ち聞きしていたことが解ってしまうが、そんなことはどうでもいい。廊下で待っていると、やがて城戸も現れ、未来に気付いてやっといつもの笑顔を見せた。

「ありがとう、未来。もう大丈夫。ホントにありがとう」

 抱きしめられて、その痛い程の強さに、未来はようやく、城戸が作り出していた智という殻を抜け出せたことを知った。しっかりと、その腕が未来を包む。今までとは比べ物にならないほど、温かかった。

 二人は並んで、中庭の月明かりが照らす廊下を歩く。お互い、何も喋らないことが気になって、同時に顔を見合わせた。困ったように笑う城戸は、何だか出来たばかりの友達のようで、可笑しい。結局、どちらも口を開かないまま、まだ明かりのついた職員室のドアを開けた。

「……やっと帰ってきたな。全く世話の焼けるヤツだな」

 職員室にはもう野口以外に誰もおらず、それを良いことにテレビを見ていたらしく、スポーツニュースが流れていた。

「何だ、教え子に慰めてもらってたのか?」

 呆れたように呟いて、二人に手招きをする。奥の休憩室で、野口は無言で珈琲を淹れてくれた。野口の厳しさをあらわしているかのような苦さに顔をしかめていると、

「そういえば、森下。数学以外の勉強はちゃんとやってるんだろうな。城戸は甘いから、それをいいことに怠けてると、浪人することになるぞ」

 何も今言わなくても。未来は思わず溜め息をついてしまった。それを見た城戸が、

「大丈夫、未来はちゃんと毎日居残りして勉強してます。……そういえば、何か質問があったんだよね?」

 未来はようやくあの教室に行ったわけを思い出し、教科書を開こうとする。

「待て待て、今何時だと思ってるんだ? 明日にしてくれ」

 時計を見ると、もう十時を少し回っていた。未来は慌てて自分の教室に戻り、起きっ放しのカバンの中の携帯を取り出した。自宅からの着信で、履歴が一杯になっている。再び走って職員室に戻り、お先に失礼します、と入り口から声をかけ、未来は坂道を走った。


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