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約束

 夏休みが近づき、コンクールに向けての最後の追い上げにかかっていた未来だったが、不安定な心に体まで弄ばれ、また夏バテに苦しんでいた。しかも、今年は例年にない異常な暑さで、連日、各地で最高気温を更新し、熱中症に対する注意が呼びかけられている。それでもコンクールは予定通り行われるわけで、厳しい菜々子が目を光らせている中、気楽に休憩することもできず、気分が悪くなっても限界まで我慢をして、音楽室を飛び出して行く部員も目立った。

 そんなある日、化学の授業中、薬品の匂いのせいか頭痛がひどく、目眩がしてきた未来は、教師に断って教室の外に出た。しばらく廊下の壁に凭れて座り、顔を伏せていたが、一向に良くならないため、そのまま保健室に向かった。

「熱はないみたいね。貧血かな」

 木村はそう言って、未来をベッドに寝かせると、白いカーテンをひきながら、おやすみ、と笑顔で言った。城戸との関係はともかく、木村の声や手は、不思議と未来を安心させた。木村を、嫌いなわけではない。むしろ、解りやすい優しさが、好きだった。恋敵を憎みきれない自分が情けなくて、溜め息になる。木村がカーテンの向こうで何やら作業をしているのを感じながら、未来の意識は遠のいていった。


 遠くで聞き慣れない音がする。それが目覚ましの音なのか電話の音なのか考えているうちに、自分が保健室にいることを思い出した。パタパタとスリッパで走り、受話器を上げる音が聞こえた。

「ああ、唯? どうしたの?」

 未来は一気に意識が覚め、その声に集中した。

「四時間目にここに来て、ずっと眠ってるわ」

 城戸と木村が自分のことを話しているのだと解った。きっと、化学の教師から担任である城戸に連絡がいって、それでここに確認の電話を入れたのだろう。

「ちょっと待ってね、」

 木村はそう言って電話を保留にし、未来のところへ来た。

「大丈夫? 少しは良くなった?」

 頷いたものの、目を開けていると天井がぐるぐる回転するような目眩に襲われる。再び目を閉じた未来を見て、

「もうちょっと寝てたほうがいいわ。先生には連絡しとくから、心配しないでね」

 再びカーテンを閉め、受話器を取る。

「まだ起きないほうが良さそう。……ねえ、放課後、何か予定入ってる?」

 未来は、確かめたくもなかった現実を自分の耳で確認してしまい、思わず涙が出た。嗚咽に震える体を抱きしめ、布団の中で丸くなる。くぐもった木村の声はもう何を話しているのか解らなかったが、未来はさらに両手で耳を塞いだ。

「森下くん、大丈夫?」

 しばらくして、カーテンが開き、木村が声をかけた。

「辛いの? 病院へ行こうか?」

 未来の様子に、相当具合が悪いと思い込んでいるようだった。未来は涙を拭き、首を横に振る。

「そう? 私に何かできることある?」

 もう、立ち直れない。心が千切れたような痛みに、涙が止まらない。木村はそんな未来を心配そうに見つめながら、背中をさすった。その優しさが、今の未来には最大のダメージだった。

 泣きながらいつの間にか眠ってしまい、次に目を開けた時、未来はその瞼の重さに何度も瞬きをした。忘れかけた幼い頃の記憶が、ふとよみがえる。明日、また来るからね、と言う母親の背中を見送った後、一人病室に残されて、ずっと泣いていたこと。幼いながらも、心配をかけたくないから、泣くのは一人になってからと決めていた。

「良く寝てたね。気分は良くなった?」

 まだ夢と現実の間を抜け出せないまま、頷く。何だか、すごく悲しい夢を見ていたような気分だった。その記憶の糸を辿って見えたものはもう、未来をさっきまでのように激しく傷つけたりはしなかったが、ただチクチクと心の内側を刺した。その痛みに必死に耐える未来に、木村は容赦なく、

「城戸先生は、担任、しっかりやってる?」

 未来は一生懸命に感情を殺し、無言で頷く。

「城戸先生、優しい?」

 未来は再び頷き、

「……城戸先生と、いつから付き合ってるの?」

 自暴自棄になった未来のその言葉に、木村は何を言い出すんだというような表情になる。

「馬鹿なこと言わないで。あれ、弟よ? 私の」

「……え?」

 今度は未来が呆気にとられる番だった。何を言われたか理解するのに、しばらく時間がかかった。

「誰に聞いたの、そんなこと」

 ああ、ビックリした、と言いながら、ちょうど鳴った電話に、カーテンの外に出て行く。姉なら、名前を呼び捨てにするのは当たり前か。未来は咄嗟に、南を恨んだ。南が誤解して言った言葉に、一年近く悩まされてきた未来は、今すぐ電話をして咎めたい気分だった。しかし、さっきまでの痛い棘は一瞬にして何処かに消え、代わりに空腹を覚えた。解りやすい自分の体に呆れてしまうが、そういえば、朝から何も食べていない。

 ドアが開く音がし、誰か尋ねてきたようだ。未来はそろそろ教室に戻ろうと起き上がり、シーツを整えてカーテンを開けた。談笑する声はすぐに、木村と城戸のものだと解り、未来は急に恥ずかしくなって足を止める。

「もう、どうしたらそんな誤解ができるのかしらね、」

 未来に気付いて、木村はその台詞の語尾を未来に向けた。既に話を聞いた後らしく、城戸も可笑しそうに笑って、もう大丈夫? と尋ねる。

「それともまだ具合が悪くて、変なこと言ったの?」

「……だって、名字が違うし、」

 未来がやっと思いついた言い訳をすると、

「結婚して変わったのよ。そんなに似てないかな? 私たち」

「……似てないです」

 そう言ったが、似ている部分を、未来はハッキリと感じていた。それは、手。触れられると、心が落ち着く。痛みや辛さを、スッと取り除いてくれる、そんな力を持った優しい手だ。

「家まで、送るよ」

 授業どころか部活も終わっていて、未来は自分がどれだけ保健室にいたのかと指を折ってみる。明日、菜々子からのお咎めがあるであろうことを想像すると気が重かった。

「先生も、もう帰るんですか?」

「そうだよ。今日は居残りする人もいないしね?」

 からかうように言って、未来を助手席に乗せる。木村が放課後の予定を聞いていたのは、未来を自宅まで送らせるためだったらしい。勝手な想像で木村を困らせる程泣いたことが、恥ずかしくて仕方なかった。

「涼しくなったら、何処かドライブに行こうか」

「……え?」

「前に、約束したでしょ。もう忘れた?」

 ドキン、と胸が大きな音を立てた。夢だと、思っていた。それでも、忘れるはずがない。夢でも現実でも、城戸の言葉は全て、未来の心の中にあるから。

 ドキドキがおさまらないまま、あっという間に自宅に着くと、挨拶なんてしなくていい、という未来を制して、城戸はいつものようにインターホンを鳴らした。相変わらず甲高い声で城戸と話す母親の横を擦り抜け、家に入ろうとすると、母親に腕を掴まれる。

「ちゃんとお礼を言いなさい。子供じゃないんだから」

「……ありがとうございました」

 今度こそ玄関のドアを開けた未来の後ろから、早く元気になってね、という城戸の声が聞こえた。


「未来、それでもう目眩は治ったの?」

 夕食の間、散々、未来の悪口を父親にこぼした後、母親が尋ねた。

「うん。大丈夫みたい」

「それにしても、ホントに優しいわね、城戸先生。いくら家が近くたって、何度も何度も……」

 未来はその途中で大袈裟に溜め息をつき、リビングから庭に出た。ミミの首輪にリードをつけ、そのまま外に出る。昼間の炎天下にさらされたアスファルトが、まだその熱を放っていて、スニーカー越しにも伝わってきた。少し歩いて自宅が見えなくなったところで立ち止まり、星空を見上げると、ミミまでそれを真似る。未来は道路脇の縁石に腰を下ろし、じゃれついてくるミミを膝に乗せた。何だか今日一日で色んなことが起こりすぎた気がして、まだ混乱している。心の中に、その全てが雑然と押し込められているような、そんな苦しさを感じた。

「そういえば、ミミはまだ、あの人に会ったことなかったよな」

 話しかけると、ミミは嬉しそうに尻尾を振る。未来の自宅は、北側が道路に面していて、エントランスに気持ちばかりの寄せ植えのスペースがある以外は、シャッターつきの要塞のような駐車場が占めている。それが邪魔で道路から庭は見えず、大人しいミミは滅多に吠えないため、この家に犬がいるとは知らない近所の人も多かった。

「そうだ、今度、おまえも一緒に行くか?」

「クゥーン、」

 それが肯定なのか否定なのか解りかねたが、未来は城戸との約束にミミも同伴することに決めた。ミミを誘って初めて、実感がわいてくる。

「ホントに、いいのかな。どう思う? ミミ」

「ワン!」

 珍しく、大きな声で吠えたミミを、未来はギュッと抱きしめた。そのあまりの強さに、身の危険を感じたのか、ミミが激しくもがく。出掛けた時より幾らか機嫌を良くして、未来は家に戻った。



 今年の夏休みは、受験生というだけで、今までとはひと味もふた味も違った。勉強が何より嫌いな未来も、さすがに怠けてはいられないと焦り出し、部活の後は必ず、何かを勉強するようになった。昼間はコンクールのことで頭が一杯だが、部屋に戻ると途端に、もう時間がない、と焦る気持ちが姿を現し、そのせいで集中力を欠いてしまう悪循環に陥っていた。

 夜、机に向かい、さっぱり解けない物理の問題に頭を抱えていると、携帯が鳴った。沙耶からだ。

「先輩、最近、全然電話くれないね。……部活とか勉強とか、大変だから?」

 寂し気な声に、胸が痛む。未来も、気にはしていた。ずっとのんびり過ごしてきたせいで、時間に追われる日々というのが初めてで、時間配分を考える余裕がなかった。長年のツケが一気に回ってきたような気分だった。

「ごめん、……ホントに、忙しくてさ」

「今から会いに来て、って言ったら、来てくれる?」

 いつになく遠慮がちな言葉に未来は、すぐ行くよ、と言って家を出た。駅の近くの公園で待っていると、やがて沙耶が走ってやってきた。

「会いたかった」

 震える声で言い、未来に抱きつく。

「先輩が浮気でもしてるんじゃないかって、心配で、」

 その言葉に、また未来の胸は痛んだ。浮気という行為に、限りなく近い気持ちを抱いていたから。

「ホントにごめんな」

 沙耶に会えば、沙耶を愛している自分を再確認する。だから、いつも別れを切り出せなかった。本当に別れたいわけじゃない、でも、どちらも好きだなんて、許されない。

「ミミちゃんに会いたいな」

 それは遠回しに、部屋でSexがしたいという意味だ。未来も承知で、沙耶を連れ帰る。運良く母親は入浴中で、一体何をやっているのか一時間以上は出てこないことが解っている。二人は足音を忍ばせて階段を上がった。

「今日、なんだかいつもと違った」

 うっとりと、沙耶が未来に抱きつく。

「そんなことないよ」

「違ったよ」

 そんな会話をしながら服を着た二人は、リビングから庭に出た。風呂から上がった母親に平然と挨拶をする沙耶を見て、その神経の太さに驚かされる。男と女では、根本的に精神面の作りが違うというが、沙耶だけは特別のような気がする。

 城戸を思う気持ちが膨らんでいく一方で、沙耶を手放したくないと真剣に思う自分が、沙耶に会うたび、未来を悩ませる。罪悪感に押しつぶされそうで、あれから俊介にもう一度相談したが、別に別れることないんじゃないの? と軽い返事だった。

「もし万が一、城戸とそういう関係になったとき、考えれば?」

 その言葉に赤面した未来を見て、

「未来のはまだ、浮気までいってないよ」

と、俊介は笑った。



 西日にさらされ色褪せたカーテン、古いグランドピアノ、二分だけ、進んだ時計。後ろの黒板には、コンクールでの各々の役割分担が書かれている。この音楽室とも、もうお別れ。コンクール前日、午前中で練習を終えた未来は、会場へと楽器を運ぶトラックに打楽器や大きな金管楽器を乗せた後、言いようのない寂しさに打ちひしがれていた。中学の時にも同じ寂しさを乗り越えて、また高校で新しい部員たちとの友情を温めてきたが、前回にはなかった複雑な感情が胸の中で弾けて、苦しい。想い出がまだ新しいまま、はちきれそうに詰まっているから。時間が経って、また新たな想い出が重ねられたら、徐々に心の中へと浸透して行くのだろうか。未来はそんなことを思った。

 明日の本番を前に、感傷に浸るのはまだ早い、と自分に言い聞かせながら、未来は黒い楽器ケースを抱えて音楽室を後にした。明日、うまく吹けるんだろうか。最後まで練習した高音部は、よっぽどのことがない限り、外すことはない。そう解っていても、決して失敗できないという責任感、重圧。去年の南の気持ちにようやく辿り着いた気がしていた。

 しかし、帰宅すると、思いもよらなかった人物の声に、未来は靴をそろえるのも忘れてリビングに飛び込んだ。

「未来! 久しぶりね。元気だった?」

「……、」

 まだ半年も経っていないのに、懐かしさで言葉に詰まる。瑠未はずっと短くしていた髪を伸ばし、僅かに化粧をしているようだった。

「明日コンクールだって聞いて、バイト早めに休みもらって帰ってきたんだから」

 さあ、お昼ご飯にしましょう、と母親が声をかける。

「瑠未も今、帰ってきたところなのよ。未来はちゃんと手を洗ったの?」

 本番前に、お腹が痛くなっても知らないわよ、と食中毒の菌が何処にでもいる話を始める。

「で、どうなの? 練習はバッチリ?」

「……うん」

「何よ、自信ないの?」

「それより、大学はどうなんだよ? 楽しい?」

 今は明日のことを考えたくなくて、話題を変えてみる。瑠未はあれから五月に一度だけ、インターネットのテレビ電話で話したきり、連絡を寄越さなかった。その時も、バイトが忙しい、サークルが忙しいと、大学生活を満喫しているような素振りだった。

「医学部は、勉強するところなのね」

 瑠未のその台詞に、当たり前だろう、と呆れる父親。未来もそれには吹き出した。

「だってね、他の学部の子は、幾つもバイト、掛け持ちしてるの。貯めたお金で海外旅行だのブランド物だのって。でも、私はどう考えたってそんなの無理。家庭教師で二、三人教えるだけで、精一杯だわ」

 要領のいい瑠未が言うのだから、本当に大変なのだろう。しかし、苦労して稼いだお金で洋服を買ったり部屋の小物を買ったりするのが、何よりの楽しみだと言った。姉の部屋が殺風景だったのは、飾ることに気が回らない程、勉強に集中していたから。そんな努力を微塵も見せず、常に明るく振る舞っていた姉を思い出し、未来は自分のあまりの至らなさに不安すら覚えた。

 風呂上がり、何年ぶりかで、未来は瑠未と庭で花火をして遊んだ。怖いのか面白いのか、近寄っては逃げるミミに笑いながら、綺麗に散る火花を眺めていると、懐かしさに胸の奥がキュン、と音を立てる。その蛍光色と煙の匂いは、容易に未来を子供の頃へと連れて行った。恐がりだった未来は、線香花火さえ怖くて、いつも一番綺麗な時に地面に落としてしまう。そんな弟に、瑠未は最後の小さな火花になってから、花火を手渡してくれた。同じことを思い出しているのか、瑠未はしばらく、線香花火の残り火を見つめていたが、

「城戸先生とはどうなったの?」

 よりによって、今そんなことを聞かなくても。一気に現実に引き戻された未来は、姉を睨んだ。

「明日、また観に来てくれるって?」

「……知らないよ、そんなこと」

「あら、そう?」

 意地悪な言い方も、何だか懐かしかった。瑠未はそれ以上は聞かず、明日に備えて早く寝なさいよ、と母親のように言って、花火に水をかけた。


 部屋に戻った未来は、携帯の着信ランプに気付き、履歴を確認した。知らない、番号。その相手は、一人しかいない気がした。急に心拍数が上がり、苦しくなってくる。留守電は入っておらず、必然的に折り返さなければならないことを悟りながら、しばらく携帯を握りしめたまま立ち尽くした。しかし、意を決して、震える指で発信ボタンを押す。

「未来?」

 名前を呼ばれただけで、涙が出そうになった。城戸は、遅い時間にごめんね、と謝った後、

「明日、頑張って。観に行くから」

 何か言わなければ、と思えば思うほど、何も言葉にできない。黙っていると、

「未来のことだから、すごく緊張してるんじゃないかと思って」

 いつものように、柔らかい口調で言った。それで少し安心した未来は、

「今度は、メールじゃないんですね」

 顔が見えないと、大胆になるのか、そんなことを言っていた。番号は恐らく、以前アドレスと一緒に瑠未が教えていたのだろう。城戸は、あの時の未来の気持ちを知っているかのように、メールじゃ返事に困るだろうから、と笑った。確かに、と言いそうになって、未来も思わず笑う。緊張の糸が切れ、しばらくの間、姉が北海道から帰省していることや、今花火をしていたことを話していたが、

「明日に支障が出るといけないから、このくらいにしておくよ」

 と城戸が言った。まだ話したいと思う未来に、未来なら大丈夫、自信持ってね、と電話は切れた。

 余計なことは、考えなくてもいいのかも知れない。詮索や、計算や、駆け引きなんて、まだ知りたくない。人を好きになるということの苦しさを噛みしめながら、未来は手のひらの熱の残る携帯を胸に当てた。


 翌日はいつも以上に早く目が覚め、ミミを連れ出した未来は近所の公園を一周し、スッキリした気分で朝の食卓についた。すると眠そうにあくびをしながら隣に座った瑠未が、

「夕べ、誰と電話してたのよ?」

 と、まるで相手を知っているかのような口調で言った。隣り合った子供部屋の間の壁は薄いのか、それとも未来の声が大きすぎたのか、考えながら黙っていると、

「沙耶ちゃんでしょ。あの子可愛いわよね、」

 食事を運んできた母親が、無意識の助け舟を出してくれた。

「へえ、彼女と敬語で話すのかしら」

 辛うじて母親には聞こえない声で、未来の耳元に囁いた。そんな嫌がらせに遭っても、今日の未来の心は折れない。楽器ケースを抱えた未来は、いってきます、と元気に家を出た。電車の中で数人の後輩部員に会い、それも連れて一年ぶりの会場に着くと、OBたちが手を振って出迎えてくれた。

「先輩!」

「おいおい、こないだ会ったばかりだろ」

 南がまた大袈裟な歓迎を笑い、

「自由曲、トランペットの目立つヤツを選んだもんだな。大丈夫か?」

 からかうように言う。未来は技術より、今の落ち着いた心の中を見せたいと思った。夕べ城戸と話してから、不安だった高音部が、何でもないことのように思えるようになり、それが決して自暴自棄になったからではなく、きちんと積み重ねた練習の成果だと自信を持てるようになった。もし今年も入賞できたら、人の目など気にせず一番に城戸のところに報告に行こうと、決めていた。

 未来たちが自由曲に選んだ「アルヴァマー序曲」という楽曲は、毎年何処かが演奏すると解っているほど人気の曲だ。それでもあえてこの曲にしたのは、中学のとき、他校が演奏していて好きになり、いつかは自分たちもやってみたいと思っていた部員が多かったから。中学生でも演奏できるという点で、難易度的には不利なのだが、終始、メジャー調で軽やかなこの曲の雰囲気を出すには、技術よりも体力を必要とし、相当の練習量が必要になる。顧問の河合も、こういう曲が実は一番難しいんだぞ、と雑になりがちな演奏を何度も注意した。トランペットのパートは、主旋律の誰もが知るメロディをいかに伸びやかに吹くかが大切で、未来は今までと質の違う難しさに苦戦した。


 未来なら大丈夫。その声に励まされ、自分でもビックリするほど、完璧に演奏しきった。未来の気持ちを映しているかのように、晴れやかな音は、自由曲の雰囲気にピッタリだったと、演奏を終えた直後、河合からお褒めの言葉も頂いた。結果発表を待つロビーで、河合は未来の顔を見ながら、ぽつん、とこう言った。

「今年は、ひょっとするかもしれないぞ」

 それが何を意味するのか。聞こえていた部員たちが騒然となる。

「先生、あんまり期待させると、あとが辛いですから」

 南がからかうように言う。そのあとで、

「俺もハンカチの用意をしてくるんだったな」

 と、さらに期待に拍車をかけるようなことを言って、部員たちを笑わせた。

 河合の勘は的中し、未来たちはなんと初めての金賞に輝いた。とても信じられない。皆、抱き合うことすら忘れて泣きじゃくった。未来も例外ではなく、杏奈と後輩たちとで手を握り合い、表彰式が終わったあと、いつまでも泣いていた。鬼の目にも涙で、河合もハンカチで何度も涙を拭っている。それを見て、せっかく泣き止んだ部員たちは、また声を上げて泣いた。

 興奮の余韻が残る中、それぞれに片付けを終え、最後の楽器をトラックに積んで、その場は解散になった。部員たちが喜びを分かち合う瞬間の邪魔をしまいと申し合わせた担任や家族が、ようやく個々に声をかけ始める。未来はすぐに城戸の姿を見つけたが、その前に杏奈がいることに気付いて思いとどまり、ちょうど現れた家族と合流した。

「未来、ありがとう」

 母親は号泣していて、化粧が恐ろしい状態になっていた。父親も感無量と言った感じで、しきりに頷くだけで何も言わない。瑠未だけが笑顔で、さすが未来だね、と背中を叩いた。

「他にも報告に行かなきゃいけない人がいるんじゃないの?」

 瑠未のその言葉に、泣いていた母親が顔を上げる。

「そうよ、城戸先生のところに行ってご挨拶していらっしゃい」

 その言葉に、もう一度城戸のほうを窺ったが、まだ杏奈と話をしているようで、

「いいよ、別に。また今度お礼を言うよ」

 精一杯の強がりを言って、家族と会場を出た。無理しちゃって、と、また耳元で意地悪に囁く瑠未を睨みながら駅に向かって歩いていると、ポケットで携帯の音。見ると、城戸からのメールだった。

『おめでとう。本当に良かったね。未来の力は本物だから、これからも自信を持ってね』

 未来は、ちょっと用事ができたから、と踵を返し、会場に駆け戻った。さっきまでいた場所にもう城戸の姿はなく、杏奈も見当たらなかった。楽器ケースを抱えて、会場のロビーや中庭を探しても見つけられず、諦めて帰ろうとした時、後ろでクラクションが鳴った。

「乗って」

 後ろにも会場を出る車の列。未来は慌てて城戸の車に乗り込んでドアを閉めた。何も言わないまま、車は街を抜け、未来の知らない道を通って、いつの間にか近所の駅裏を走っていた。

「近道だよ。遅刻しそうなとき、いつもこの道を通ってた」

 車では通りにくいけどね、と笑う。

「先生、この学校の卒業生なんですよね?」

 何の他意もなく尋ねたつもりだったが、フッと城戸の笑顔が消えた。

「……卒業は、してないよ。事情があって」

 いつになく硬い表情に、それ以上は聞けなかった。やがていつもの坂道に出て、学校の駐車場に着く。

「音楽室へ、行っていいですか」

 未来は最後にもう一度、あの部屋にお別れを言いたくて、そう言っていた。もしかしたら、未来がそれを願っていると知っていて、この場所に戻ったのだろうか。城戸が優しい笑顔で頷くのを見て、未来はふと、そう思った。

 音楽室の窓を開けると、日中の陽射しで澱んでいた空気がスッと外に逃げて行く。日が傾き始めて、やがて一日が終わってしまう寂しさに、もう少し待って、と叫びたくなった。殆どの楽器を持ち出していて、がらん、とした準備室で、未来はその場所に何が置いてあったか、一つ一つ思い出してみる。大太鼓、小太鼓、夕日を反射して眩しいシンバル。たまにしか出番はないのに、場所を取る木琴と鉄琴。所狭しと並んだ全員の譜面台、色とりどりの楽譜のファイル。いつもカバンの手をひっかけるティンパニの調節ネジを思い浮かべて少し可笑しくなった。……この部屋とも、お別れ。押し込めていた涙がこみ上げ、未来は慌てて音楽室のほうに戻った。

 城戸は窓辺に立ち、遠くを見つめているようだった。その整った横顔に、一筋の影を見出した未来は、ふとさっきの会話を思い出す。卒業は、していないと言った。それはどういうことなのか。様々なことが頭に浮かんだが、そのどれかを特定することも、ましてや尋ねることなどできるはずもなく、黙って夕日に染まる街を眺める。やがて未来に気付いた城戸は、取り繕うようにその表情を和ませ、お別れは済んだ? と尋ねた。

「ありがとうございました」

 母親に言われたからというわけではないが、しっかりとお礼を言ったことがなかった気がして、一礼する。

「先生のおかげです。すごく、嬉しかった」

 堪えている涙は、簡単に未来の瞳から溢れ出そうとする。城戸の前ではもう泣くまいと思っていたのに、俯いた未来の目から零れて床に落ちた。

「本当に、よく頑張ったね、未来」

 城戸はそう言って、未来を抱きしめた。

「嬉しい涙は、恥ずかしくなんかないよ。悲しい涙も、その後には、心から悲しみを連れて行ってくれるから、泣きたい時は、我慢しなくていいんだよ」

 優しい言葉が、未来の心にスッと染みて、涙が止まらなかった。ずっと、自分に自信がなかった。大好きなトランペットも、数学も、自分が一番ではないと思っていた。そんな未来に、一つ一つ自信の種をまいて、未来の力で育ち、開花するよう、手助けをしてくれた。優しさという水で。

 どれくらい城戸の胸に抱かれていたのか、ようやく気が済んだ未来は、そっと城戸から離れた。教室の中はもう薄暗く、そのせいか、城戸の顔が寂し気に見える。初めて見るその表情に、未来はふと不安を覚えた。どうしたのかと尋ねようとしたが、城戸はもう、いつもの柔らかい笑顔を取り戻して、

「もう、帰っても大丈夫?」

 からかうように、未来に尋ねた。

「まだ、もう少し。……ピアノが、聴きたいです」

 城戸は少し驚いたようだったが、いいよ、と言って明かりをつけようとした。

「ダメ、」

 未来は思わず駆け寄って、その手を止める。泣きはらした顔を、見られたくない。

「このままがいい」

 城戸は解った、と笑い、ピアノの椅子に腰を下ろした。綺麗な指先から、聴いたことのあるメロディが流れ出す。幻想即興曲。瑠未が、最後の発表会で弾いた曲だった。高音部はキラキラと輝きを放ち、低音の深い海と交わる。吸い込まれて消えるのではなく、その光は闇と戯れ、追いかけっこをしているようだった。未来はいつしかその深い海の中が、明るく温かいことに気付く。それは紛れもなく、城戸の心の優しさ。これほどまでに心の中を表現するピアノを、未来は知らなかった。

 演奏が終わると、城戸は黙ってピアノを閉じ、未来のほうを向く。

「ちょうど、この高校に入学した頃に、練習してた曲だよ」

 随分暗くなっちゃったね、と今度こそ明かりをつけた。まるでその闇に、怯えているかのように。


「引退したら、少しはゆっくりできそう?」

 下駄箱に向かう廊下で、城戸が尋ねた。

「はい、……寂しいけど、」

 つい本音が出てしまう。

「居残りする場所が、なくなっちゃうね」

 そう言われて、今さら気付いた未来に、城戸は可笑しそうに笑った。

「教室でやればいいよ。何人か、残ってる日もあるけどね」

 未来は、もう音楽室で城戸と話したり、ピアノを聴いたりできないことに、ますます寂しさを感じた。黙ってしまった未来に城戸は、

「今日はホントにおめでとう。ゆっくり休んでね」

 そう言って、いつものように未来を見送った。


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