01.愛とは
「あああ愛していますぅぅぅ!」
むさ苦しいほどの熱を帯びた絶叫が、白昼の往来にこだました。
街行く人々が足を止める。彼らは一様にぎょっとした顔で振り返り、視線をそこに残したまま、そろりそろりと歩みを再開していった。
できることならドリスも、通行人Aとして彼らに混じり、何食わぬ顔で立ち去ってしまいたい。人目も憚らず愛を叫ぶ女の知り合いだなどと、思われたくはなかった。しかしこの恥ずかしい女は、ドリスが仕える主人なのである。
「ケンタウロス様ぁぁぁ!」
ドリスは考える。愛とは一体、何なのか――と。
十秒前まで、二人して傍の露店で香ばしい匂いを漂わせるお焼きが美味しそうだと話していた。それが突如、愛である。
「愛してますわぁぁ!」
愛とは、もっと海のように穏やかで、慈しみの深いものではないだろうか。少なくとも今、石畳に這いつくばって恥ずかしげもなく愛を叫ぶ女のそれは、ドリスの知る愛ではなかった。
「ルシール様、おやめください」
「ケンタウロス様ぁぁぁ!」
「ルシール様……」
「ケェェンタウロスさぁぁまぁぁ!」
ドリスは額に手を当て、地の底に沈んでいきそうなほど深いため息を吐いた。そして、冷気を孕んだ声で告げる。
「三秒以内に口を閉じて立ち上がらないと、ぶん殴りますよ」
「ケン――……ッ!」
薔薇色に上気していたルシールの頬が、さっと青ざめる。次の瞬間、隣を通りかかった通行人が驚くほどの俊敏さで彼女は立ち上がっていた。
「ド……ドリス。前から思っていたのだけれど、侍女が主に向かって『ぶん殴る』とか言ってはいけないと思うの」
「私もルシール様の専属侍女になって間もなくの頃はそう思っておりましたが、堪忍袋の緒はすでにブチ切れてしまいましたので」
ドリスはルシールのスカートについた砂を手早く払うと、何事かとこちらへ向けられる視線から逃れるように歩き出した。その後ろを、明るい亜麻色の髪を揺らしながらルシールが足早に追いかける。
「ねぇ、ドリス」
「早く用件を済ませましょう。キノワール伯爵のお屋敷は、もうすぐのはずです」
「ドリスってば。聞いてちょうだい」
聞きたくない。ドリスはさらに足を早めた。しかしルシールは、そんな侍女の内心などお構いなしに続ける。
「私、さっきの人と結婚しようと思うの」
「……っ」
言いたいことは山ほどあった。ありすぎて、どこから手をつければいいのかわからない。ひとまずドリスは、大きく息を吸った。
「さっきの人とは、『ケンタウロス様』とやらのことですか」
「ええ、そうよ」
「……一応確認しますが、先ほどの方はルシール様のお知り合いですか?」
「いいえ。いわゆる一目惚れというやつね」
ドリスはほんの数分前のことを思い返す。
ルシールの父、ベルトラン子爵の使いで、二人はここキノワール伯爵領を訪れていた。慣れない街並みを右へ左へと視線を向けながら歩いていたところ、馬に跨った男とすれ違い――それがルシールの言う『ケンタウロス様』である。大事なことなので重ねるが、すれ違っただけである。その結果があの絶叫へと繋がったのだから、この主人の思考回路は恐ろしい。
「……なんでケンタウロスなんですか?」
「あら、知らないの? ケンタウロスって、上半身は筋肉質な人間で、下半身は馬の姿をした魔物なのよ」
「そのくらいは存じております」
「先ほどのお方、ケンタウロスに似ていたでしょう? 服の上からでもわかる、あの立派な上腕二頭筋。常人の三倍はありそうな厚い胸筋。くっきりはっきり浮き出た胸鎖乳突筋!」
ドリスの主は、齢十八にして筋肉マニアであった。
「お顔立ちも野生味があって、とっても素敵だったわ」
「一瞬でしたのでよく見ておりませんでしたが……」
ドリスは言葉を濁した。彼女の頭の中に浮かんでいたのは、幼少の頃サーカスの檻で見たゴリラである。
「何にせよ、ルシール様は没落寸前とはいえ子爵家のご令嬢です。そんな、道ですれ違っただけのゴリ――ケンタウロスと結婚だなんて、許されるはずがないでしょう」
「今、ゴリラって言った?」
「ルシール様には、お家存続のためにもそれなりの家柄の方と結婚していただかないと」
「私、ゴリラも好きよ。死ぬまでには一度、この目でドラミングとやらを見てみたいわ」
「……」
疲れる。この主と会話をすると、余計なエネルギーを消費して仕方がない。
「旦那様からのお言葉をお忘れですか? ルシール様は今日、何をしにキノワール伯爵のお屋敷へ向かうのですか?」
「借金の申し入れ、よね?」
「そうです。ベルトラン子爵家は、馬車を所有する余裕もないほど財政が逼迫しています。ですので、キノワール伯爵に金策のお願いをすると同時に……?」
「ご嫡男のアンセルム様に気に入られる」
ルシールの回答に、ドリスは満足そうに大きく頷いた。
「アンセルム様のお目に留まれば、ルシール様は未来の伯爵夫人になれます。ベルトラン家には支度金が入りますし、優先的に肉の卸し先を斡旋していただけるかもしれません」
ベルトラン子爵家は、畜産を家業とする弱小貴族である。
「よって、ケンタウロスのことはお忘れください」
ドリスは、細い肩を落として項垂れる主を横目で見て、改めて思う。
ルシール・ベルトランは可憐だ。黙って微笑んでさえいれば、そこいらの男は簡単に落ちるだろう。だが。
「問題は性格と……臭い、か」
家畜を抱える家柄ゆえか、ルシールからは仄かに獣の臭いが漂っている。それを堪えて距離を詰めてくる男がいたとしても、このぶっ飛んだ思考を知れば、彼らはすぐに去っていくのだった。
ドリスはおもむろに荷物の中から香水の小瓶を取り出すと、それをルシールに振りかけた。
「キノワール邸に到着したら、ルシール様は挨拶以外、口を開かないでください。交渉は私がします」
「分かったわ。でも次からは、香水をかける時は事前に教えてちょうだいね。目に入ったわ」




