第四話:吸血鬼、魔王様に会いに行く
「ねえねえ! 魔王様って、どんな人なの?」
「…………」
リゼットの笑顔が、ぴたりと固まった。
冒険者ギルドの受付。
そこに立っているのは、つい先ほど初めての依頼を達成したばかりの、小さな吸血鬼の少女だった。
艶やかな漆黒の長髪。
宝石のように澄んだ、鮮やかな紅い瞳。
黒と深紅を基調としたゴシックロリータドレスには、繊細なレースや薔薇の装飾が施されている。
頭には赤い薔薇をあしらった髪飾り。
背中には、小さな蝙蝠の翼。
その愛らしい容姿だけを見れば、どこかの貴族の屋敷で大切に育てられた令嬢としか思えない。
しかし。
そんな少女が今、魔大陸の頂点に君臨する絶対的な支配者について、まるで近所のお兄さんの噂話でもするような気軽さで尋ねてきたのである。
「……あの、クロア様?」
「なぁに?」
「魔王陛下について、でございますか?」
「うん!」
クロアは元気よく頷いた。
「すっごく強いんでしょ? どんな人なのかなぁって!」
「…………」
リゼットは、一瞬だけ返答に困った。
魔王。
魔大陸に暮らす者で、その存在を知らぬ者はいない。
数多の魔族を束ね、広大な魔大陸を統べる絶対的な支配者。
その権威は、魔族の社会に深く根付いている。
しかも、現在の魔王は特別だった。
歴代の魔王の中でも最強と称される、規格外の存在。
その名を口にするだけで、畏敬の念を抱く者も少なくない。
だというのに。
「ねえねえ! 魔王様って、どこに住んでるの?」
目の前の少女は、きらきらと瞳を輝かせていた。
「……魔王陛下は、魔大陸の中央部にございます魔王城にお住まいです」
「おぉー! 魔王城!」
クロアは嬉しそうに声を上げた。
「やっぱり魔王様って、お城に住んでるんだね!」
「ええ。魔王城は魔大陸の政治と軍事の中心でもございます。魔王軍の主要な幹部の方々も、そこを拠点として活動されております」
「へぇー!」
クロアは興味津々で身を乗り出した。
「じゃあじゃあ! 魔王様って、どれくらい強いの?」
「……どれくらい、と申されましても」
リゼットは困ったように微笑んだ。
「私のような者では、そのお力を正確に測ることすらできません」
「そんなに!?」
「はい。現在の魔王陛下は、歴代最強とまで称されるお方ですから」
「わぁぁぁ!」
クロアの紅い瞳が、さらに輝いた。
「すっごい! 会ってみたいなぁ!」
「…………はい?」
リゼットは思わず聞き返した。
「……会ってみたい、ですか?」
「うん!」
「……魔王陛下に?」
「そうそう!」
クロアは、にっこりと笑った。
「どんな人なのか気になるし、仲良くなれたら楽しそうだもん!」
「…………」
リゼットは、再び言葉を失った。
魔王陛下と、仲良くなる。
そんな発想が、そもそもなかった。
もちろん、魔王を敬愛する魔族は大勢いる。
忠誠を誓い、その配下として働くことを望む者もいる。
だが。
仲良くなりたい、などと。
そんなことを何のためらいもなく口にする者が、果たしてどれほどいるだろうか。
「それにね!」
クロアは、さらに楽しそうに続けた。
「魔王様の血って、どんな味なのか気になるんだ!」
「…………」
リゼットの表情が固まった。
「……血、でございますか?」
「うん!」
クロアは、こくこくと頷く。
「今日ね! 初めて狼さんの血を飲んだんだけど!」
「……は、はい」
「そしたら、その狼さんの能力を少しだけ使えるようになったの!」
「……なるほど」
「だから、魔王様の血だったらどうなるのかなぁって!」
「…………」
リゼットの笑顔が、完全に引きつった。
(……この方、いったい何をお考えなのでしょうか)
魔王陛下の血を飲みたい。
そんなことを口にしたと知られれば、相手によっては不敬だと騒ぎ立てるだろう。
ましてや、魔王軍の関係者の前で言おうものなら。
(……考えたくもありませんね)
リゼットは、内心で小さく息を吐いた。
もっとも、クロアに悪意がないことは分かっている。
彼女はただ、本当に気になっているだけなのだ。
魔王という存在も。
その強さも。
そして、その血の味も。
彼女にとっては、どれも等しく興味の対象なのだろう。
「……クロア様」
「ん?」
「魔王陛下は、一般の方が簡単にお会いできるようなお方ではございません」
「そうなの?」
「はい。魔王城には厳重な警備が敷かれておりますし、陛下ご自身も大変お忙しいお方です」
「ふむふむ!」
クロアは、真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、魔王城に行っても会えないんだね!」
「……ええ。少なくとも、突然訪ねてお会いできるようなことはないかと」
「そっかぁ!」
クロアは、少しだけ残念そうに眉を下げた。
だが。
「……んー?」
すぐに首を傾げる。
「じゃあ、魔王様がお城から出てきたときに会えばいいのかな?」
「…………え?」
「だって、お城に入れないなら、外で会えばいいんでしょ?」
「……それは、理屈としてはそうですが」
「魔王様って、お出かけしたりするの?」
「さ、さあ……私には分かりかねますが……」
「ふむふむ!」
クロアは、しばらく考え込んだ。
魔王城に行っても会えない。
ならば、魔王が城から出てきたときに会えばいい。
ただし、いつ出てくるのか分からない。
だったら、まずは調べてみる。
彼女にとって、それはごく自然な考え方だった。
「よーし!」
クロアは、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、ちょっと探してみよっと!」
「……探す?」
「うん! 魔王様に会える方法!」
「…………」
リゼットは、思わず額に手を当てそうになった。
「……クロア様」
「なぁに?」
「くれぐれも、危険なことはなさらないでくださいね?」
「はーい!」
クロアは元気よく返事をした。
「ちゃんと考えて行動するよ!」
「……お願いいたします」
リゼットは、小さく息を吐いた。
もっとも。
クロア自身は、無謀なことをするつもりなどなかった。
今の魔王は、歴代最強と呼ばれる存在。
そんな相手に、現在レベル二の自分が正面から挑んだところで、勝てるはずがない。
そもそも、戦いたいわけでもないのだ。
ただ、会ってみたいだけ。
どんな顔をしているのか。
どんな声で話すのか。
どんな性格なのか。
そして、血はどんな味なのか。
気になることが、たくさんあった。
「えへへっ! 楽しみだなぁ!」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て。
リゼットは、どうか何事も起こりませんように、と心の中で祈るのだった。
◇ ◇ ◇
「わぁぁぁ!」
冒険者ギルドを出たクロアは、思わず歓声を上げた。
目の前には、夜のノクティスが広がっていた。
黒い石畳が敷き詰められた大通り。
赤く輝く魔石の街灯。
建物の窓から漏れる、柔らかな橙色の光。
頭上には、紫がかった雲の隙間から覗く月。
昼間とは違い、通りには夜行性の魔族たちが多く行き交っている。
大きな翼を持つ女性。
黒い角を生やした青年。
白い毛並みの獣人。
そして、全身を骨で構成された骸骨のような魔族まで。
「すっごーい! 夜の街も賑やかだね!」
クロアは、楽しそうに辺りを見渡した。
昼間の街も面白かった。
だが、夜の街には、また違った魅力がある。
それに。
「えへへっ!」
クロアは、軽く地面を蹴った。
――ふわっ。
小さな身体が、昼間よりもずっと軽く跳ね上がる。
「おぉー!」
着地すると、クロアは嬉しそうに両手を広げた。
「やっぱり夜は動きやすいね!」
吸血鬼の種族特性、《夜の眷属》。
日が沈むと、身体能力が上昇する。
もっとも、レベル二のクロアが突然無敵になるわけではない。
それでも、昼間に感じていた身体の重さがなくなったことは大きかった。
「ふふっ! 気持ちいい!」
クロアは、小さな蝙蝠の翼をぱたぱたと動かしながら歩き出した。
黒と深紅のドレスの裾が、夜風にふわりと揺れる。
頭の薔薇飾りについた小さな装飾が、街灯の光を受けてきらきらと輝いた。
さて。
魔王に会う方法を探す。
そう決めたものの、具体的に何をすればよいのだろう。
「んー……」
クロアは、少し考えた。
魔王城は遠い。
魔王本人がどこにいるのかも分からない。
ならば、まずは情報を集めるべきだろう。
「こういうときは、街の人に聞いてみるのが一番かな!」
そう言って、辺りを見渡した。
すると。
「……あっ!」
通りの向こうに、賑やかな屋台が並んでいるのを発見した。
「屋台だ!」
クロアは、ぱっと顔を輝かせた。
そして。
「……おぉ?」
何やら、甘い匂いが漂ってきた。
香ばしく焼けた生地。
とろりとした蜜。
そして、ほんの少しだけ混じる、花のような香り。
「……いい匂い!」
クロアのお腹が、小さく鳴った。
「えへへっ……」
少しだけ照れくさそうに笑う。
魔王の情報収集は、ひとまず後回しになった。
もちろん。
本人としては、後回しにしたつもりなどない。
屋台の店主から情報を聞けばいいのだ。
お菓子も食べられて、情報も集まる。
まさに一石二鳥である。
「よーし! 行ってみよっと!」
クロアは、軽い足取りで屋台へ向かった。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃい! お嬢ちゃん、何にする?」
「こんばんはー!」
クロアは、屋台の前で元気よく挨拶した。
店主は、赤黒い肌に立派な角を持つ、大柄な魔族の男性だった。
太い腕。
がっしりとした体格。
額から伸びる二本の角。
その見た目は少し恐ろしい。
だが、表情はとても穏やかだ。
「おう! 元気のいい嬢ちゃんだな!」
「えへへっ!」
クロアは、にっこりと笑った。
「ねえねえ! これ、何?」
指差したのは、串に刺さった丸いお菓子だった。
表面には、紫色の蜜のようなものがたっぷりとかかっている。
「おっ! こいつは《夜蜜団子》だ!」
「夜蜜団子?」
「ああ! 魔大陸じゃ定番の甘味だぜ!」
「へぇー!」
クロアは、興味津々で眺めた。
「美味しい?」
「もちろんだ! うちのは特に美味いぞ!」
「じゃあ、買う!」
「毎度あり!」
クロアは、先ほど冒険者ギルドでもらった報酬から代金を支払った。
初めて自分で達成した依頼の報酬。
それで買う、初めてのお菓子。
「えへへっ! なんか嬉しい!」
店主から串を受け取り、さっそく一つ口に運ぶ。
「……んっ!」
柔らかな食感。
ほんのり温かい生地。
そして、口いっぱいに広がる濃厚な甘さ。
「……おいしーっ!」
クロアは、ぱっと顔を輝かせた。
紅い瞳が、宝石のようにきらきらと輝く。
「すっごく美味しい!」
「がははっ! そりゃよかった!」
店主は、豪快に笑った。
「お嬢ちゃん、冒険者かい?」
「うん! 今日なったばっかり!」
「おっ! 新人さんか!」
「そうそう! 初めての依頼も達成したんだ!」
「そりゃめでたいな!」
「えへへっ!」
クロアは、嬉しそうに笑った。
そして、ふと。
「あっ! そうだ!」
「ん?」
「おじさん、魔王様って知ってる?」
「…………」
店主の手が、ぴたりと止まった。
「……魔王様?」
「うん!」
「そりゃあ、もちろん知ってるが……」
「どこにいるか分かる?」
「……は?」
「私、魔王様に会ってみたいんだ!」
「…………」
店主は、しばらくクロアを見つめた。
そして。
「がははははっ!」
豪快に笑い出した。
「そりゃまた、とんでもないことを言う嬢ちゃんだな!」
「えへへっ! そう?」
「ああ! 魔王様に会いたいなんて、そう簡単に言えることじゃねえぞ!」
「でも、気になるんだもん!」
「ははっ! 面白え嬢ちゃんだ!」
店主は、笑いながら腕を組んだ。
「そうだなぁ……魔王様が今どこにいらっしゃるかなんて、俺には分からねえが……」
「うんうん!」
「そういや、今日は王都から偉い連中が来てるって話を聞いたな」
「……おぉ?」
クロアの目が、きらりと輝いた。
「偉い人?」
「ああ。何でも、街の視察だとか」
「へぇー!」
「魔王城の関係者も同行してるって噂だぜ」
「……魔王城!」
クロアは、思わず身を乗り出した。
「それって、魔王様のこと知ってる人かな!?」
「そりゃあ、関係者なら知ってるかもしれねえが……」
「どこにいるの!?」
「……ん?」
「その人たち!」
「お、おう……」
店主は、少し戸惑いながら答えた。
「確か、街の中央にある行政庁に滞在してるって話だったな」
「行政庁!」
「ああ。大通りをまっすぐ行けば、でっけえ建物が見えてくるはずだ」
「分かった!」
クロアは、ぱっと笑顔になった。
「ありがと、おじさん!」
「お、おう……」
「お団子もすっごく美味しかった!」
「ははっ! また買いに来な!」
「うん!」
クロアは、元気よく手を振った。
そして。
「よーし! 行ってみよっと!」
夜蜜団子を片手に、中央広場の方角へ向かって歩き出した。
店主は、その後ろ姿を見送りながら、小さく首を傾げた。
「……魔王様に会いたい、ねえ」
そして、ぽつりと呟いた。
「……変わった嬢ちゃんだなぁ」
◇ ◇ ◇
「……おぉー!」
しばらく歩いたところで。
クロアは、巨大な建物の前に立っていた。
黒い石材で造られた、重厚な建築物。
正面には大きな階段。
左右には、魔族の紋章が刻まれた旗が掲げられている。
そして、入口には二人の衛兵が立っていた。
どちらも黒い鎧を身につけ、腰には剣を佩いている。
「ここが行政庁かな?」
クロアは、建物を見上げた。
どうやら、間違いなさそうだ。
「ふむふむ!」
少しだけ周囲を観察する。
建物の入口。
衛兵の配置。
出入りしている人々。
どうやら、一般の住民が自由に入れる場所ではなさそうだった。
「……なるほど!」
クロアは、満足そうに頷いた。
そして。
「こんばんはー!」
迷わず、衛兵たちへ歩み寄った。
「……む?」
衛兵の一人が、こちらを振り向いた。
黒い鎧を身につけた、角の生えた男性だった。
「どうした、娘よ」
「あのね!」
クロアは、にっこり笑った。
「魔王城から来た人に会いたいんだけど!」
「…………」
衛兵は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……何?」
「今日、ここに来てるんでしょ?」
「……誰から聞いた?」
「屋台のおじさん!」
「…………」
衛兵は、隣の同僚と顔を見合わせた。
「……娘よ」
「ん?」
「ここは、一般人が自由に立ち入れる場所ではない」
「うん! 見れば分かるよ!」
「……ならば」
「だから、ちゃんと聞きに来たんだ!」
「…………」
衛兵は、思わず言葉に詰まった。
確かに、少女は無理やり中へ入ろうとしているわけではない。
武器を抜いているわけでもない。
ただ、にこにこと笑いながら質問しているだけだ。
「……何の用件だ?」
「魔王様に会う方法を聞きたいの!」
「…………」
「私ね! 魔王様に会ってみたいんだ!」
「……魔王陛下に?」
「うん!」
「…………」
衛兵は、深く息を吐いた。
「娘よ。魔王陛下は、我々のような者ですら容易に拝謁できるお方ではない」
「そうなんだ!」
「ましてや、一般の冒険者が――」
「じゃあ、どうしたら会えるの?」
「…………何?」
「絶対に会えないわけじゃないんでしょ?」
「……それは、そうだが」
「だったら、会える方法があるはずだよね!」
「…………」
衛兵は、困惑した。
目の前の少女は、まったく引き下がる様子がない。
だが、不思議と不快感はなかった。
少なくとも、無理な要求を押し通そうとしているわけではない。
ただ、純粋に方法を知りたがっているだけなのだ。
「……娘よ」
「なぁに?」
「まずは、冒険者として実績を積むことだ。魔王城へ出入りする資格を得られるほどの立場になれば、可能性はあるだろう」
「おぉー!」
クロアは、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、頑張れば会えるかもしれないんだ!」
「……あくまで、可能性の話だがな」
「そっかぁ!」
クロアは、嬉しそうに頷いた。
そして、少し考えた。
冒険者として実績を積む。
それは、確かに一つの方法だろう。
だが、時間がかかる。
もっと早く会える方法はないだろうか。
「……んー?」
クロアは、建物を見上げた。
そのときだった。
「……何を騒いでおる?」
落ち着いた、低い声が響いた。
「……っ!」
衛兵たちが、ぴたりと姿勢を正した。
クロアが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
長く伸ばされた銀白色の髪。
深い紅を宿した瞳。
整った顔立ちに、威厳を感じさせる鋭い眼差し。
黒を基調とした上質な衣服には、深紅と金の装飾が施されている。
肩から羽織った重厚な外套は、夜風を受けて静かに揺れていた。
長身で、堂々とした体格。
見た目の年齢は、中年ほどだろうか。
しかし、その雰囲気は、単なる貴族や軍人のものではなかった。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が引き締まる。
そんな、不思議な存在感をまとっていた。
「……おぉ?」
クロアは、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、じっと男性を見つめた。
(……この人、強そう!)
クロアは、心の中で小さく笑った。
立ち方が違う。
重心の置き方。
視線の動き。
周囲への注意の向け方。
どれも、無駄がない。
それに。
身体の奥から感じる、何とも言えない圧迫感。
それは、先ほどまで話していた衛兵たちとは明らかに違っていた。
(……すごいなぁ)
クロアは、興味深そうに男性を観察した。
もちろん、どれほど強いのかまでは分からない。
だが、少なくとも。
今の自分が正面から戦って勝てる相手ではないだろう。
それだけは、何となく理解できた。
「……どうした?」
男性が、クロアを見下ろした。
「何か用か、娘よ」
「あっ!」
クロアは、ぱっと顔を明るくした。
「こんばんはー!」
「…………」
男性は、わずかに目を見開いた。
そして。
「……ふっ。元気な娘だな」
「えへへっ!」
クロアは、嬉しそうに笑った。
「ねえねえ、おじさん!」
「……おじさん?」
男性の眉が、ぴくりと動いた。
その背後で、衛兵たちが一斉に青ざめる。
だが、クロアは気づかない。
「魔王様に会う方法って知ってる?」
「…………」
男性の表情が、ぴたりと止まった。
その背後で。
「……っ!」
衛兵たちが、何かを言いかけた。
しかし。
男性が片手をわずかに上げると、二人は即座に口を閉じた。
「……ほう」
男性は、クロアを見つめた。
「魔王に会いたい、とな?」
「うん!」
「……なぜだ?」
「えっ?」
クロアは、首を傾げた。
そして、にっこり笑った。
「だって、気になるんだもん!」
「……気になる?」
「うん! すっごく強いんでしょ?」
「……まあ、そう言われておるな」
「どんな人なのか会ってみたいし、仲良くなれたら楽しそうだなぁって!」
「…………」
男性は、しばらく無言でクロアを見つめた。
そして。
「……くくっ」
小さく笑った。
「なるほど。面白いことを言う娘だ」
「えへへっ! そう?」
「うむ。実に興味深い」
男性は、腕を組んだ。
「では、もし魔王に会えたとして、お主は何をするつもりだ?」
「んー……」
クロアは、少し考えた。
そして。
「あっ!」
ぱっと顔を明るくした。
「まずは、お友達になりたい!」
「……友達?」
「うん!」
「……魔王と?」
「そうそう!」
「…………」
男性は、再び沈黙した。
そして、次の瞬間。
「ふははははっ!」
豪快に笑い出した。
「なるほど! 魔王と友達になりたい、か!」
「えへへっ!」
「長く生きてきたが、そのようなことを言う者は初めて見たぞ!」
「そうなの?」
「うむ!」
男性は、愉快そうに頷いた。
「実に面白い!」
クロアも、つられるように笑った。
「それにね!」
「む?」
「魔王様の血も、ちょっと飲んでみたいんだ!」
「…………」
男性の笑顔が、ぴたりと止まった。
「……血?」
「うん!」
「……魔王の?」
「そうそう!」
クロアは、こくこくと頷いた。
「私、吸血鬼なんだ!」
「……それは見れば分かるが」
「今日ね! 初めて狼さんの血を飲んだの!」
「……ほう」
「そしたら、狼さんの能力を少しだけ使えるようになったんだ!」
「…………」
男性の目が、わずかに細められた。
「……なるほど。《血の記録》か」
「……あっ!」
クロアは、ぱっと顔を輝かせた。
「知ってるの!?」
「……多少はな」
「すっごーい!」
クロアは、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、魔王様の血だったらどうなるのかなぁって!」
「…………」
男性は、しばらくクロアを見つめていた。
そして。
「……くくっ」
再び、小さく笑った。
「ふははははっ!」
今度は、先ほどよりも大きな笑い声だった。
「いやはや! 実に愉快な娘よ!」
「えへへっ!」
クロアも、楽しそうに笑った。
もちろん、彼女は知らない。
目の前の男性が、どれほどの存在なのかを。
◇ ◇ ◇
「……ところで、娘よ」
「なぁに?」
男性は、少しだけ表情を改めた。
「お主、魔王が恐ろしくはないのか?」
「……ん?」
クロアは、首を傾げた。
「どうして?」
「……どうして、とな?」
「うん!」
クロアは、不思議そうに瞬きをした。
「まだ会ったことないし、どんな人なのかも知らないんだよ?」
「……ふむ」
「だったら、怖い人なのかどうかも分からないでしょ?」
「…………」
男性は、少しだけ目を見開いた。
確かに、その通りではある。
だが、普通は違う。
魔王という存在。
その圧倒的な力。
そして、魔大陸の頂点に君臨する絶対的な権力。
それらを知っていれば、直接会ったことがなくとも、畏怖を抱くものだ。
しかし、目の前の少女には、それがない。
「……では」
男性は、静かに口を開いた。
「仮に、目の前に魔王が現れたとしよう」
「うんうん!」
「その魔王が、お主など容易く殺せるほどの力を持っていたとしても……同じことを言えるか?」
「……んー?」
クロアは、少し考えた。
そして。
「うん!」
あっさりと頷いた。
「だって、強いからって、いきなり殺してくるとは限らないでしょ?」
「…………」
「それに、話してみないと分からないし!」
「……なるほど」
男性は、ゆっくりと頷いた。
そして、ほんの少しだけ。
周囲の空気が変わった。
「…………」
衛兵たちの表情が、強張る。
背筋に、冷たいものが走った。
まるで、巨大な何かに見下ろされているような感覚。
その場にいるだけで、息が詰まりそうになる。
だが。
「……おぉ?」
クロアは、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、目の前の男性を見上げた。
(……へぇー!)
何かが変わった。
空気が重くなったような、不思議な感覚。
目の前の男性が、先ほどよりもずっと大きく見える。
いや、実際に大きくなったわけではない。
ただ、存在感が違うのだ。
(……すごい! こういうこともできるんだ!)
クロアは、興味深そうに観察した。
そして。
「ねえねえ!」
「……む?」
「今のって、魔法?」
「…………」
男性は、わずかに眉を上げた。
「……なぜ、そう思う?」
「だって、急に空気が変わったんだもん!」
「……ほう」
「すっごいね! どうやってるの?」
「…………」
男性は、しばらくクロアを見つめた。
その紅い瞳には、恐怖がなかった。
あるのは、純粋な好奇心だけ。
もっとも、彼女が危険を理解できないわけではない。
目の前の男性が、自分より遥かに強いことは分かっている。
もし戦えば、今の自分では勝てないだろう。
だが。
だからといって、話しかけるのをやめる理由にはならなかった。
クロアは、ただ知りたかったのだ。
「……ふっ」
男性は、静かに笑った。
そして、周囲の圧迫感が消えた。
「……面白い」
「えへへっ!」
「お主のような娘は、初めてだ」
「そうなの?」
「うむ」
男性は、少し考えるように顎へ手を当てた。
そして。
「……ところで、娘よ」
「なぁに?」
「お主は、魔王に会いたいと言っておったな」
「うん!」
「ならば……」
男性は、口元に笑みを浮かべた。
「その願いは、すでに叶っておるぞ」
「…………」
クロアは、ぱちぱちと瞬きをした。
「……えっ?」
「我こそが、この魔大陸を統べる魔王である」
「…………」
「…………」
数秒間。
クロアは、無言で男性を見つめた。
そして。
「……ええええええっ!?」
夜のノクティスに、少女の驚きの声が響き渡った。
「ま、魔王様!?」
「うむ」
「本物!?」
「もちろんだ」
「ほ、本当に!?」
「ふはははっ! 何度聞いても答えは変わらぬぞ!」
「わぁぁぁぁ!」
クロアは、両手を上げて歓声を上げた。
「すっごーい! 本物の魔王様だぁ!」
その反応を見て、魔王は愉快そうに笑った。
「ふはははっ! 随分と嬉しそうだな!」
「だって!」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
「会ってみたいなぁって思ってたら、本当に会えちゃったんだもん!」
「……ふっ」
魔王は、小さく笑った。
「それは、よかったな」
「うん!」
クロアは、こくこくと頷いた。
そして。
「あっ! そうだ!」
「む?」
「魔王様!」
「何じゃ?」
「握手してもいい!?」
「…………」
魔王は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……握手?」
「うん!」
「……我と?」
「そうそう!」
「…………」
魔王は、しばらく無言でクロアを見つめた。
そして。
「……ふっ」
小さく笑い、右手を差し出した。
「よかろう」
「やったぁ!」
クロアは、嬉しそうにその手を握った。
大きく、温かい手だった。
「わぁ! 魔王様の手、大きいね!」
「……そうか?」
「うん!」
クロアは、両手で魔王の手を握りながら、楽しそうに笑った。
「えへへっ! 魔王様と握手しちゃった!」
「……ふはははっ!」
魔王も、思わず笑ってしまった。
その様子を見ていた衛兵たちは、完全に固まっていた。
魔王陛下に、握手を求める。
それだけでも十分に驚くべきことだ。
だが、さらに驚くべきは。
魔王自身が、それを楽しんでいることだった。
◇ ◇ ◇
「ねえねえ、魔王様!」
「む?」
「そういえば、名前って何ていうの?」
「…………」
魔王は、少しだけ目を見開いた。
「……我の名か?」
「うん!」
「……ふむ」
少し考えた後、魔王は答えた。
「我が名は、ヴァルゼイン」
「ヴァルゼイン……」
クロアは、小さく繰り返した。
そして。
「えへへっ! かっこいい名前!」
「……そうか?」
「うん!」
クロアは、にっこり笑った。
「私はクロア! よろしくね、ヴァルゼイン様!」
「……クロア、か」
魔王――ヴァルゼインは、少女の名前を静かに口にした。
「うむ。覚えておこう」
「やったぁ!」
クロアは、小さな翼をぱたぱたと動かした。
そして、ふと。
「あっ!」
「む?」
「そうだ! 忘れてた!」
「……何をだ?」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
「血!」
「…………」
「ねえねえ! ヴァルゼイン様!」
「……何じゃ?」
「ちょっとだけ血を飲ませて!」
「…………」
魔王は、完全に沈黙した。
その背後では、衛兵たちが青ざめていた。
「……お主」
「ん?」
「先ほども、そのようなことを言っておったな」
「うん!」
「……本気なのか?」
「もちろん!」
クロアは、元気よく頷いた。
「だって、気になるんだもん!」
「…………」
ヴァルゼインは、しばらく少女を見つめた。
そして。
「……ふっ」
小さく笑った。
「お主、実に欲望に忠実な娘よな」
「えへへっ! そう?」
「うむ。まったく、面白い」
魔王は、腕を組んだ。
「だが、残念ながら、それは許可できぬ」
「……えー!」
クロアは、少しだけ頬を膨らませた。
「駄目なの?」
「うむ」
「ちょっとだけでも?」
「駄目だ」
「一口だけ!」
「……一口でもだ」
「むぅー!」
クロアは、残念そうに肩を落とした。
だが。
「……んー?」
すぐに首を傾げた。
「どうして駄目なの?」
「……ほう?」
「血って、そんなに危ないの?」
「……ふむ」
ヴァルゼインは、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「我の血には、強大な魔力が宿っておる」
「おぉー!」
「未熟な吸血鬼が安易に摂取すれば、身体が耐えられぬ可能性もある」
「……へぇー!」
クロアは、興味津々で頷いた。
「そんなにすごいんだ!」
「うむ」
「じゃあ、今の私じゃ駄目なんだね!」
「……そういうことだ」
「そっかぁ!」
クロアは、納得したように頷いた。
そして。
「じゃあ、もっと強くなったら飲ませてね!」
「…………」
ヴァルゼインは、思わず苦笑した。
「……お主、諦めぬのか?」
「えっ?」
クロアは、不思議そうに首を傾げた。
「だって、今は駄目ってだけでしょ?」
「……ふむ」
「だったら、いつか飲めるかもしれないじゃん!」
「…………」
ヴァルゼインは、しばらく少女を見つめた。
そして。
「……ふははははっ!」
再び、大きく笑い出した。
「よかろう! そのときが来れば、考えてやろう!」
「本当!?」
「うむ。ただし、約束ではないぞ」
「うん!」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
「えへへっ! 楽しみだなぁ!」
魔王は、その様子を見ながら小さく笑った。
まったく、不思議な少女だった。
自分の血を飲みたいと言い出したかと思えば、断られても怒らない。
ただ、次の機会を楽しみにしている。
その姿は、どこにでもいる好奇心旺盛な子供と変わらなかった。
◇ ◇ ◇
「……さて」
しばらく話した後。
ヴァルゼインは、空を見上げた。
「そろそろ戻らねばならぬな」
「……あっ!」
クロアは、少しだけ残念そうに眉を下げた。
「もう行っちゃうの?」
「うむ。少々、仕事が残っておる」
「そっかぁ……」
クロアは、しゅんと肩を落とした。
せっかく魔王様と会えたのに。
まだまだ、聞きたいことがたくさんある。
どんな魔法が使えるのか。
どれくらい強いのか。
魔王城には、どんな部屋があるのか。
好きな食べ物は何なのか。
そして、いつか血を飲ませてもらえるのか。
「……んー?」
クロアは、少し考えた。
そして。
「あっ!」
ぱっと顔を明るくした。
「そうだ!」
「む?」
「ヴァルゼイン様!」
「何じゃ?」
「お菓子、食べる?」
「…………」
魔王は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……菓子?」
「うん!」
クロアは、手元に残していた夜蜜団子を差し出した。
「これ!」
「……ほう」
「さっき買ったんだ! すっごく美味しいよ!」
「…………」
ヴァルゼインは、差し出された串を見つめた。
魔王として生きてきた長い年月。
豪華な料理を振る舞われたことは、数え切れないほどある。
珍しい食材。
高価な酒。
王侯貴族ですら口にできないような料理。
そうしたものは、いくらでも味わってきた。
だが。
こんなふうに、街の屋台で買った菓子を、何の遠慮もなく差し出されたことはあっただろうか。
「……ふっ」
ヴァルゼインは、小さく笑った。
「いただこう」
「やったぁ!」
クロアは、嬉しそうに夜蜜団子を差し出した。
ヴァルゼインは、その一つを口に運ぶ。
「……ふむ」
柔らかな生地。
濃厚な甘さ。
どこか懐かしい味だった。
「……悪くない」
「でしょ!?」
クロアは、ぱっと顔を輝かせた。
「すっごく美味しいよね!」
「うむ」
ヴァルゼインは、静かに頷いた。
「……確かに、美味いな」
「えへへっ!」
クロアは、嬉しそうに笑った。
そして、自分も残りの団子を口に運ぶ。
「んー! おいしー!」
魔王は、その様子を眺めていた。
小さな身体。
黒と深紅のドレス。
ぱたぱたと動く蝙蝠の翼。
そして、無邪気な笑顔。
何とも、不思議な娘だった。
魔王という肩書きに怯えることもなく。
かといって、媚びへつらうこともない。
ただ、目の前にいる一人の相手として接してくる。
それが、妙に心地よかった。
「……クロアよ」
「なぁに?」
「お主、明日も暇か?」
「……えっ?」
クロアは、ぱちぱちと瞬きをした。
「明日?」
「うむ」
「んー……」
クロアは、少し考えた。
明日は、特に予定を決めていない。
冒険者ギルドで新しい依頼を受けてもいい。
街を探検してもいい。
魔物と戦ってもいい。
やりたいことは、たくさんある。
だが。
「うん! 暇だよ!」
クロアは、元気よく頷いた。
「どうしたの?」
「……ふむ」
ヴァルゼインは、少しだけ口元を緩めた。
「ならば、明日も会わぬか?」
「…………」
クロアは、ぱちぱちと瞬きをした。
そして。
「……えっ!?」
ぱっと顔を輝かせた。
「いいの!?」
「うむ」
「本当に!?」
「もちろんだ」
「やったぁぁぁ!」
クロアは、嬉しそうに跳びはねた。
「また魔王様と遊べるんだ!」
「……遊ぶ、か」
ヴァルゼインは、小さく笑った。
「ふっ。そうだな。遊ぶ、ということにしておこう」
「えへへっ!」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、明日も一緒にお菓子食べよ!」
「うむ。悪くないな」
「それから、街も探検しよう!」
「……街を?」
「うん! まだ知らないところがいっぱいあるんだ!」
「……ふむ」
ヴァルゼインは、少し考えた。
街の視察は、もともと予定に入っている。
ならば、少女とともに歩いてみるのも悪くないかもしれない。
「よかろう」
「やったぁ!」
「ただし、長い時間は取れぬぞ」
「うん! 大丈夫!」
クロアは、こくこくと頷いた。
「じゃあ、どこで会う?」
「……そうだな」
ヴァルゼインは、少し考えた。
「明日の夕刻、中央広場ではどうだ?」
「中央広場!」
「うむ。大きな噴水がある場所だ」
「あっ! さっき通ったところかな!」
「おそらく、そうだろう」
「分かった!」
クロアは、元気よく頷いた。
「じゃあ、明日の夕方! 約束だよ!」
「うむ。約束だ」
「えへへっ!」
クロアは、嬉しそうに笑った。
そして。
「あっ!」
「む?」
「ヴァルゼイン様!」
「何じゃ?」
「明日も、血を飲ませてくれるか聞いていい?」
「…………」
魔王は、しばらく沈黙した。
そして。
「……ふははははっ!」
大きな笑い声を上げた。
「まったく! お主は本当に諦めぬ娘だな!」
「えへへっ!」
「……好きにするがよい」
「やったぁ!」
クロアは、満面の笑みを浮かべた。
もちろん、許可をもらえたわけではない。
ただ、また聞いてもよいと言われただけだ。
それでも、クロアにとっては十分だった。
「じゃあ、また明日ね!」
「うむ。また明日だ、クロア」
「ばいばーい!」
クロアは、大きく手を振った。
そして、小さな翼をぱたぱたと動かしながら、夜の街へと駆けていった。
その後ろ姿を、ヴァルゼインは静かに見送っていた。
◇ ◇ ◇
「……陛下」
クロアの姿が見えなくなった頃。
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、そこには黒い鎧をまとった魔族の男性が立っていた。
先ほどまで、少し離れた場所で周囲を警戒していた護衛の一人である。
「……何じゃ?」
ヴァルゼインは、穏やかに問い返した。
「先ほどの少女についてですが……」
「……クロアのことか?」
「はっ」
護衛は、少しだけ言い淀んだ。
「……あの者、陛下に対し、あまりにも無礼ではございませんでしたか?」
「……ほう?」
「陛下のお名前を気安く呼び、さらには御血を求めるなど……」
「…………」
「必要とあらば、こちらで身元を調べ――」
「不要だ」
ヴァルゼインは、静かに言った。
「……はっ」
「そのようなことをする必要はない」
「……しかし」
「ふっ」
ヴァルゼインは、小さく笑った。
「あれは、ただの好奇心旺盛な娘よ」
「…………」
護衛は、少しだけ眉をひそめた。
「……好奇心、でございますか?」
「うむ」
ヴァルゼインは、夜空を見上げた。
紫色の雲の隙間から、淡い月明かりが差し込んでいる。
「我の血を飲みたいなどと……」
そして。
「……ふははっ!」
思わず笑ってしまった。
「長く生きてきたが、あのような娘は初めてだ!」
「…………」
護衛は、困惑した。
魔王陛下が、これほど楽しそうに笑う姿など、滅多に見られない。
普段の陛下は、威厳に満ちた統治者である。
冷静で。
思慮深く。
時には、恐ろしいほど容赦がない。
そんなお方が。
たった一人の少女との会話を、これほど楽しんでいる。
「……陛下」
「む?」
「……お気に召されたのでしょうか?」
「……ふむ」
ヴァルゼインは、少し考えた。
そして。
「……そうだな」
静かに頷いた。
「久しぶりに、愉快な時間であった」
「…………」
「魔王という立場におれば、誰もが我を恐れ、敬い、距離を置く」
ヴァルゼインは、ゆっくりと言葉を続けた。
「それは、当然のことだ。魔大陸を統べる者として、必要な威厳でもある」
「……はっ」
「だが……」
そこで、少しだけ言葉を切った。
「たまには、あのような娘と話すのも悪くない」
「…………」
護衛は、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
「うむ」
ヴァルゼインは、再び夜空を見上げた。
そして、ふと。
「……それにしても」
小さく呟いた。
「まさか、此度の視察で、あのような娘と出会うことになるとはな」
「……陛下?」
「ふむ。思えば、昨日の《世界の言葉》が始まりであったか」
その言葉に、護衛は姿勢を正した。
「……異邦人の到来を告げた、あの御告げでございますか」
「うむ」
ヴァルゼインは、静かに頷いた。
昨日。
世界に、不思議な声が響き渡った。
それは、特定の誰かが発した声ではない。
空から聞こえたわけでも、耳元で囁かれたわけでもなかった。
ただ、世界そのものが語りかけてくるかのように、その言葉は人々の意識へと届いたのだ。
――異邦人たちが、この世界へと訪れる。
そして、その到来の地の一つとして、魔大陸の都市ノクティスの名が告げられた。
魔族の歴史においても、極めて異例の出来事だった。
どこから来るのか。
何を目的としているのか。
どれほどの力を持っているのか。
何も分からない。
ただ一つ確かなのは、これまでの世界には存在しなかった者たちが、現れ始めたということだけ。
「……あの御告げを受け、陛下は急遽ノクティスへの視察をお決めになられたのでしたな」
「うむ。異邦人とやらが、いかなる者たちなのか。少々、興味が湧いてのう」
ヴァルゼインは、口元に薄い笑みを浮かべた。
「報告を待つだけでもよかったのだが、せっかくならば、この目で確かめてみたくなったのだ」
「……そのために、わざわざ陛下御自ら……」
「ふっ。たまにはよかろう」
もちろん、単なる物見遊山というわけではない。
世界の理に関わるかもしれぬ未知の存在。
それが魔大陸へ現れたとなれば、統治者として無関心ではいられない。
異邦人が魔族にとって脅威となるのか。
あるいは、新たな可能性をもたらす存在なのか。
その判断には、まず相手を知る必要があった。
もっとも。
「……結局、異邦人らしき者には出会えませんでしたが」
護衛の言葉に、ヴァルゼインは肩をすくめた。
「そう急くこともあるまい。異邦人たちが本当にこの地へ現れたのであれば、いずれ何かしらの動きがあるだろう」
「はっ」
「それに……」
ヴァルゼインは、先ほどクロアが駆けていった通りへと視線を向けた。
「当初の目的とは別に、なかなか面白い出会いもあった」
「……あの少女、でございますか」
「うむ」
ヴァルゼインは、愉快そうに笑った。
「異邦人とやらを見に来たつもりが、まさか魔王の血を飲みたがる小娘に出会うとはな。ふははっ! 世の中、何が起こるか分からぬものよ!」
「…………」
護衛は、何とも言えない表情を浮かべた。
魔王陛下にとっては愉快な出会いだったのかもしれない。
だが、護衛としては、心臓に悪いことこの上なかった。
そんな部下の心境など知らず、ヴァルゼインは再び思い出す。
『えへへっ! 魔王様と握手しちゃった!』
『ねえねえ! 血、ちょっとだけ飲ませて!』
『じゃあ、明日も一緒にお菓子食べよ!』
「……ふっ」
自然と、口元が緩んだ。
まったく。
何とも、不思議な娘だった。
魔王である自分に、何のためらいもなく話しかけ。
握手を求め。
血を飲みたいと言い。
最後には、一緒に遊ぼうと誘ってくる。
そのすべてが、あまりにも自然だった。
魔王という肩書きではなく、ただ目の前にいる一人の相手として接してくる。
それが、妙に心地よかった。
「……クロア、か」
ヴァルゼインは、少女の名前を小さく呟いた。
そして。
「……明日が、少し楽しみになったのう」
そう言って、静かに微笑んだ。
もちろん。
このときの魔王は、まだ知らなかった。
今日出会った、あの小さな吸血鬼の少女こそが。
昨日、《世界の言葉》によって到来を告げられた異邦人の一人であることを。
そして、その少女が、やがて自分にとってかけがえのない存在になることを。
その尽きることのない好奇心が、いつの日か、自分の運命を大きく変えてしまうことを。
――そんな未来など、知る由もなかったのである。




