プロローグ:伝説の殺人鬼
新連載です。好評そうでしたら続けます。
その少女が初めて人を殺したのは、わずか五歳のときだった。
被害者は、当時九歳だった実の姉。
二人は、仲の良い姉妹だったという。
両親は共働きで、姉は幼い妹の面倒をよく見ていた。
近所でも評判の優しい少女であり、妹もまた、そんな姉によく懐いていた。
実際、姉妹の仲が悪かったことを示す証言は、後の捜査でも一つとして見つからなかった。
事件が起きたのは、何の変哲もない休日の午後。
両親が帰宅したとき、姉はすでに息絶えていた。
そして、その傍らには、一人の少女が座っていた。
艶やかな黒髪に、宝石のような赤い瞳。
人形と見紛うほど整った顔立ちの、可愛らしい少女だった。
母親が悲鳴を上げ、父親が慌てて救急車を呼ぶ中、少女は不思議そうに首を傾げていたという。
なぜ、姉を殺したのか。
後に行われた聞き取りに対し、少女はこう答えている。
『だって、人間が死んだらどうなるのか、気になったんだもん』
それだけだった。
姉に恨みがあったわけではない。
喧嘩をしていたわけでもない。
むしろ、少女は姉のことが好きだったと語っている。
姉と一緒に遊ぶのが好きだった。
姉が作ってくれるお菓子も好きだった。
姉に頭を撫でてもらうのも好きだった。
それらは、決して嘘ではなかったのだろう。
ただ、それとは別に。
少女は、どうしても知りたいことがあった。
人間は、死んだらどうなるのか。
そして、その疑問を確かめることに、何のためらいもなかった。
好きな相手を殺してはいけない。
人の命を奪ってはいけない。
そんな当たり前のことが、少女には理解できなかったのである。
いや。
正確には、理解する必要を感じていなかったのかもしれない。
ただ、知りたかった。
その純粋な好奇心だけで、少女は実の姉の命を奪った。
わずか五歳の少女が起こしたその事件は、関係者たちに深い衝撃を与えることとなった。
◇ ◇ ◇
五歳という年齢から、少女が刑事責任を問われることはなかった。
しかし、事件の異常性は、捜査関係者や専門家たちを震撼させた。
何よりも彼らを困惑させたのは、少女の態度だった。
少女には、自らの行為に対する後悔が見られなかった。
それどころか、姉について尋ねられると、楽しそうに思い出を語ったという。
姉のことが好きだったのは本当らしい。
姉を失ったことを残念に思う気持ちも、まったくないわけではなかった。
しかし、自分が姉を殺したことについては、少しも悪いと思っていなかった。
専門家たちは、少女の精神状態を慎重に調べた。
だが、その結果は彼らの予想を大きく裏切るものだった。
少女の知能は極めて高く、言語能力や理解力も同年代の子供たちを大きく上回っていた。
他人の感情を読み取ることもできた。
社会の決まりを理解することもできた。
人を殺せば、その人間が二度と戻ってこないことも知っていた。
それでもなお、少女は自分の行為を後悔していなかったのである。
やがて少女は、厳重な管理体制を備えた児童精神医療施設へと送られた。
そこで、七年間を過ごすことになる。
施設での少女は、意外なほど模範的だった。
職員の指示には素直に従い、勉強にも熱心に取り組んだ。
与えられた課題はすぐに理解し、難しい問題も驚くほど簡単に解いてしまう。
運動能力も極めて高く、体格からは想像できないほどの身体能力を示した。
それでいて、普段の振る舞いはごく普通の少女だった。
礼儀正しく、愛想も良い。
よく笑い、よく話し、興味を持ったことには目を輝かせる。
職員たちとも親しく接し、時には冗談を言って笑わせることさえあった。
その姿は、どこにでもいる可愛らしい少女そのものだった。
実際、七年間の施設生活において、少女が重大な暴力事件を起こすことはなかった。
やがて、彼女の更生を信じる職員も増えていった。
そして、十二歳になった年。
長期にわたる観察と審査の末、少女の社会復帰が認められた。
少女は、施設を出る日を心から喜んでいたという。
『やったぁ! これで普通に遊べるんだね!』
その笑顔を見て、職員たちは安堵した。
少女は、もう大丈夫だ。
七年間の治療と教育によって、彼女は社会に戻れるまでに成長した。
誰もが、そう信じようとしていた。
しかし。
後に、この判断は世紀の大失態として語られることになる。
◇ ◇ ◇
社会に戻った少女は、ごく普通の生活を送っていた。
学校に通い、友人を作り、休日には買い物に出かける。
成績は優秀。
運動神経も抜群。
教師からの評価も高く、同級生たちとの関係も良好だった。
少女は明るく、人懐っこい性格だった。
誰に対しても気さくに話しかけ、面白そうなことがあれば真っ先に首を突っ込む。
友人たちと笑い合う姿は、年相応の少女そのものだったという。
周囲の人間は、彼女の過去をほとんど知らなかった。
そして、少女自身も過去の事件について語ろうとはしなかった。
だから、誰も気づかなかった。
その笑顔の裏に、何が潜んでいるのかを。
もっとも、少女が日常生活を楽しんでいたこと自体は、決して嘘ではなかった。
友人と過ごす時間も。
美味しいものを食べることも。
新しいことを知ることも。
少女にとっては、どれも本当に楽しいものだった。
ただし。
それらと同じように。
彼女は、人を殺すことにも興味を抱いていたのである。
七年間の施設生活。
そして、社会復帰してからの数年間。
少女は、その好奇心をずっと抑え続けていた。
人を殺してはいけない。
そうすれば、また自由を奪われてしまう。
それくらいのことは、彼女にも理解できていた。
だから、我慢していた。
それだけだった。
彼女は決して、普通の人間になったわけではなかったのである。
そして、十五歳になったある日。
その我慢は、唐突に終わりを迎えた。
◇ ◇ ◇
後に《黒い日曜日》と呼ばれる事件。
それは、少女が十五歳のときに発生した。
社会復帰から、およそ三年。
平穏だった一つの地方都市が、未曾有の惨劇に見舞われたのである。
最初に異変が確認されたのは、午前九時過ぎ。
市内各所から、相次いで緊急通報が寄せられた。
当初、警察は複数の事件が同時に発生したものと考えていた。
しかし、捜査が進むにつれ、恐るべき事実が明らかになっていく。
それらの事件には、すべて一人の少女が関与していた。
黒髪。
赤い瞳。
小柄な体格。
そして、場違いなほど楽しそうな笑顔。
監視カメラには、事件現場から立ち去る少女の姿が何度も記録されていた。
警察は直ちに大規模な警戒態勢を敷き、周辺地域の住民に外出を控えるよう呼びかけた。
しかし、被害は止まらなかった。
少女は、常識では考えられないほどの身体能力を持っていた。
小柄な体格からは想像もつかない怪力。
人間離れした反射神経。
そして、相手の動きを見ただけで対応してしまう、異常な戦闘能力。
その力は、特別な訓練によって身につけたものではなかった。
少女は、生まれながらにして規格外だったのである。
警察は対応に追われた。
街は混乱に陥り、人々は恐怖に震えた。
それでも、惨劇は終わらなかった。
最終的に、事件の死者数は百人を超えた。
負傷者も多数。
平穏だった街は、わずか一日にして恐怖と混乱に包まれた。
そして、事件発生から十数時間後。
少女は、駆けつけた警察によって身柄を確保された。
逮捕された際、少女は抵抗しなかったという。
それどころか、どこか満足そうな表情さえ浮かべていた。
後の取り調べで、捜査官は尋ねた。
『なぜ、こんなことをした?』
少女は少し考え込んだ後、笑顔で答えた。
『んー……ずっと我慢してたから、かな?』
『我慢?』
『うん。ほら、私って小さい頃からずーっと我慢してたでしょ? だから、そろそろいいかなって』
まるで、長い間禁止されていた遊びをようやく楽しめた子供のように。
少女は無邪気に笑った。
『でもさぁ……』
そして、少しだけ残念そうに頬を膨らませる。
『思ってたより、つまんなかったなぁ』
捜査官は言葉を失った。
百人以上の人間が命を落とした。
数え切れないほどの家族が、大切な人を失った。
街全体が、今も恐怖に震えている。
それなのに。
少女にとっては、ただの期待外れだったのである。
『最初は楽しかったんだけどね。思ってたより簡単だったし、途中から飽きちゃった』
少女は、まるで遊び終わったゲームの感想でも話すように続けた。
『もっと面白いこと、ないのかなぁ』
その言葉を聞いた捜査官は、後にこう証言している。
『私はあのとき初めて、人間の姿をした何かと向き合っているような恐怖を覚えました』
少女にとって、《黒い日曜日》は人生最大の事件ではなかった。
長年の好奇心を満たすために始めた、少し大掛かりな遊び。
そして。
思っていたほど面白くなかった遊び。
それだけだったのである。
◇ ◇ ◇
事件の全貌が報道されると、国内外に激震が走った。
十五歳の少女による、百人以上の殺害。
しかも、その少女には、五歳のときに実の姉を殺害した過去があった。
世論は沸騰した。
なぜ、このような人物を社会に戻したのか。
なぜ、危険性を見抜けなかったのか。
そして、少女にどのような処罰を下すべきなのか。
議論は連日繰り返された。
少女が暮らすその国では、未成年者に対する死刑は原則として禁止されていた。
しかし、《黒い日曜日》事件の規模と異常性を受け、少女の処遇は異例のものとなった。
重大犯罪に関する特別法に基づき、未成年者でありながら極刑の適用も認められる特別刑事裁判にかけられたのである。
裁判は長期化した。
弁護側は、少女の年齢や精神状態を考慮すべきだと主張した。
一方、検察側は、少女が自身の行為を十分に理解していたこと、犯行の重大性、そして極めて高い再犯の危険性などを指摘し、極刑を求めた。
精神鑑定も繰り返し実施された。
しかし、少女は終始、落ち着いた態度を崩さなかった。
遺族の証言を聞いても。
事件の記録が読み上げられても。
自分が死刑になる可能性を告げられても。
少女は、ただ退屈そうにしていた。
時折、興味深そうに裁判の進行を眺めることもあったという。
だが、それは自分の罪を悔いているからではなかった。
ただ、初めて経験する裁判というものが、少し珍しかっただけである。
そして、事件からおよそ一年。
少女が十六歳を迎えた年。
ついに、判決の日が訪れた。
◇ ◇ ◇
『被告人を、死刑に処する』
法廷に、裁判長の声が響いた。
その瞬間、傍聴席からは嗚咽が漏れた。
涙を流す遺族。
深く頭を下げる者。
安堵の表情を浮かべる者。
様々な感情が、法廷を満たしていた。
しかし。
ただ一人。
判決を言い渡された当の少女だけは、何の反応も示さなかった。
いや。
正確には、少しだけ不満そうだった。
『えー……死刑かぁ』
少女は小さく頬を膨らませた。
『まあ、いっか』
それだけだった。
死への恐怖も。
後悔も。
命乞いも。
そこには存在しなかった。
少女にとって、自分の死刑判決すら、さほど興味を引く出来事ではなかったのである。
この判決は、国内のみならず世界中で大きく報道された。
史上最悪の未成年殺人鬼。
百人以上の命を奪った悪魔の少女。
五歳にして実の姉を殺害した、理解不能の怪物。
報道機関は、彼女を様々な呼び名で形容した。
そして、いつしか一つの異名が定着する。
――《紅眼の悪魔》。
黒髪に赤い瞳を持つ、伝説の少女殺人鬼。
その存在は、世界中の人々の記憶に深く刻まれることとなった。
やがて、少女は最高警備水準を誇る特別拘置施設へと移送された。
施設には厳重な警備体制が敷かれ、少女は外部との接触を厳しく制限された。
複数の警備員。
厳重な監視設備。
幾重にも設けられた保安区域。
脱走など、到底不可能。
少なくとも、誰もがそう信じていた。
これで、すべてが終わった。
恐怖の象徴となった少女は、二度と社会に戻ることはない。
数多の命を奪った伝説の殺人鬼は、やがて法の裁きを受け、その生涯を終える。
世界中の人々が、そう確信していた。
しかし。
彼らは、一つだけ重大な勘違いをしていた。
少女は、脱走できないから施設に留まっていたわけではない。
ただ、外に出たいと思うほどの理由がなかっただけなのである。
彼女にとって、施設の外も中も、大した違いはなかった。
自由に動き回れないことは少し不便だったが、それだけだ。
何しろ、外の世界でやってみたかったことは、すでに一通り試してしまった。
そして、その結果が《黒い日曜日》だった。
今さら外に出たところで、何をすればいいのか。
少女自身、特に思いつかなかったのである。
だから、大人しくしていた。
少なくとも。
あるものの存在を知るまでは。
◇ ◇ ◇
それは、世界中で大きな注目を集めていた、あるゲームだった。
《アビス・レガリア》。
世界初となる、本格的なフルダイブ型VRMMORPG。
専用の機器を使用することで、まるで現実のような仮想世界を体験できるという、革新的なゲームである。
広大な大陸。
無数の国家。
人間や魔族をはじめとする様々な種族。
そして、プレイヤーの行動によって変化していく世界。
冒険者になることも。
商人になることも。
国に仕えることも。
あるいは、世界の秩序に逆らうことさえも。
その自由度の高さは、従来のゲームとは比較にならないものだった。
正式サービス開始を目前に控え、世界中の人々が期待に胸を膨らませていた。
そして、その情報は、外部との接触が厳しく制限された少女の耳にも届いていた。
少女は興味を抱いた。
現実とは違う、もう一つの世界。
そこでは、自分の知らないものが見られるかもしれない。
今まで経験したことのない出来事が待っているかもしれない。
何より。
退屈しなくて済むかもしれない。
少女にとって、それは久しぶりに心を惹かれる話だった。
そして、彼女は決めた。
そのゲームを遊んでみよう、と。
ただ、それだけのことだった。
脱獄することに対する恐怖も。
捕まるかもしれないという不安も。
少女には、ほとんど存在しなかった。
彼女にとって重要だったのは、ただ一つ。
そのゲームが、いつ始まるのか。
それだけだったのである。
◇ ◇ ◇
――《アビス・レガリア》正式サービス開始日。
午前六時三十二分。
特別拘置施設において、重大な異常事態が確認された。
収容されていた少女の姿が、忽然と消えていたのである。
施設は直ちに厳戒態勢へと移行。
警察および関係機関による緊急捜索が開始された。
しかし、少女の行方は分からなかった。
厳重な警備体制。
厳格な監視。
脱走など不可能とされていた施設。
そこから、一人の少女が消えた。
関係者たちは混乱した。
いったい、どうやって。
なぜ、今になって。
数々の疑問が飛び交ったが、答えは見つからなかった。
そして、午前八時。
全国のテレビ番組が、通常放送を中断した。
『ここで、緊急ニュースをお伝えします』
画面に映し出されたのは、一人の少女の顔写真だった。
艶やかな黒髪。
鮮やかな赤い瞳。
そして、見る者を惹きつける、可憐な微笑み。
『昨年発生した大量殺人事件、通称《黒い日曜日》の犯人として死刑判決を受け、特別拘置施設に収容されていた十六歳の少女が、今朝、施設から脱走していたことが確認されました』
『警察は現在、少女の行方を追っていますが、所在は依然として不明です』
『少女は極めて危険な人物とされており、警察は市民に対し、発見した場合は決して近づかず、直ちに通報するよう呼びかけています』
ニュースは瞬く間に全国へ広がった。
インターネット上には、驚きと恐怖の声が溢れた。
あの殺人鬼が逃げ出した。
百人以上を殺害した《紅眼の悪魔》が、再び世に放たれた。
警察は大規模な捜索を開始し、人々は不安に震えた。
しかし。
誰も知らなかった。
少女が、なぜ今になって脱獄したのかを。
復讐のためではない。
自由を求めたからでもない。
死刑が怖くなったからでもない。
ましてや、再び現実世界で大量殺人を起こすためでもなかった。
理由は、ただ一つ。
今日、どうしても遊んでみたいゲームのサービスが始まったから。
それだけだったのである。
世界中が恐怖に包まれている一方で、少女の関心はすでに別のところへ向いていた。
どうすれば、そのゲームを遊べるのか。
どこへ行けば、必要な機器が手に入るのか。
そして、誰に頼めば、一番手っ取り早いのか。
そんなことを考えながら、少女は行動を始めていた。
やがて彼女は、一人の男に目をつけることになる。
世界初の本格フルダイブ型VRMMORPG。
その開発を取りまとめた、一人の責任者。
もちろん、その男はまだ何も知らない。
自分の開発したゲームが、伝説の殺人鬼の興味を引いてしまったことも。
その少女が、まもなく自分の人生を根底からひっくり返すことになることも。
そして。
現実世界を恐怖に陥れた少女が、今度は仮想世界の歴史すら塗り替えることになるなどとは。
このとき、誰一人として知る由もなかった。




