第一話 その一杯のコーヒー
竜王軍と聖天連合軍の大戦から三十年。
後に聖竜大戦と呼ばれるその戦争は、人も竜も疲弊しきった末に終結した。
竜王の居城へ送り込まれた勇士は五人。
生還したのは――ただ一人。
竜滅者フェルド・アイゼン。
人類史上最後の英雄。
そう呼ばれた男である。
戦後、王は広大な領地を与えた。
爵位も、富も。
望めば王女すら。
だが男は全てを捨てた。
王都を去り、北方の森へ姿を消した。
以来三十年。
森へ入った者はいても、森から彼を連れ戻した者はいない。
人はその森を隠者の森と呼び、男を森の隠者と呼んだ。
そして誰も知らない。
英雄フェルドが、今もなお毎週欠かさず古き石碑の元へ詣でていることを。
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隠者の森へ至る街道――と言っても、ほとんど荒れ地の獣道のような有り様だが、
その森の入口に小屋がある。
決して綺麗とは言い難いその小屋で一休みしようと、
王都の冒険者ベスラ・ビノは戸を開けた。
中は見た目よりも整っている……というより、生活臭が漂う空間であった。
物置小屋か物見小屋だと思っていただけに、急に湧いた人の気配に戸惑いを隠せない。
「坊主、こんな辺鄙なところまで何しに来た?」
突然、背後から声を掛けられた。
咄嗟に腰の得物に手を伸ばし、飛び退く。
気配がまったくしなかった。
例え浅いとはいえ悪名高い“隠者の森”だ。
探索に出た冒険者が帰ってこないなどザラな危険地帯。
警戒しすぎて困ることはない。
「おいおい……人ん家に来て物騒なヤツだな」
男は鼻白み、そのまま無造作に歩き出した。
まるで厠へ行くかのように、ごく自然に。
だが次の瞬間にはベスラの間合いへ入り込んでいた。
「動かないで……僕に抜かせないでください」
「抜けねぇよ、ベスラ・ビノ」
心臓が一拍止まった。
いや、止まったように思えた。
名は名乗っていない。
それどころかビノ家の家紋があるものは全て隠してある。
わかるはずがない。
「お? いい反応するじゃねぇか……」
柄を握る手が汗ばむ。
心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
「ところでお前さん……」
不意に男がベスラの顔を覗き込む。
ゴクリと唾を飲む音が妙に響いた気がする。
「紅茶と豆茶、どっちがいいかね?」
張り詰めた空気が一気に弛緩した。
この時の僕はまだ知らない。
その一杯のコーヒーが、人生を大きく変えることになるなんて。
*******
あの後、男は特に何も言うことなくベスラを歓待してくれた。
出された黒い液体から芳ばしい香りが立ち上る。
豆茶。
北方で飲まれている嗜好品だと聞いたことがある。
王都では滅多に出回らない珍しい飲み物だった。
独特な香りが鼻腔をくすぐる。
ベスラは改めて男を観察した。
銀級冒険者に上がったベスラに気配を悟らせず背後を取る技量。
森の入口で一人暮らし。
そしてくすんだ金髪。
王都で聞いた特徴と一致する。
おそらく間違いない。
隠者の森に来た本来の目的。
竜滅者フェルド・アイゼン、その人だ。
「竜滅者のフェルド・アイゼン卿とお見受けしますが……」
出された黒い飲み物に一瞬言葉を詰まらせながらも、平常心を保って尋ねる。
「卿なんてよせ、恥ずかしい」
「いや、しかし……」
「俺ぁただの隠者だよ。
んで、銅級……いや、銀級だったか? ベスラ・ビノがこんな辺鄙な所に何しに来やがったんだ?」
今度ははっきりと言葉を詰まらせてしまった。
銀級冒険者に昇級したのは七日前の王都での出来事だ。
ここまで来るのに三日費やしている。
情報の伝達が早すぎる。
王都の商人ギルドが保持している遠話の遺物でも使わない限り不可能だ。
「ん? なんだ、一角ウサギが切り株にぶつかったみたいな顔して……あぁ、なんで知ってんのかって話か?」
なんでもないことのようにアイゼン卿は豆茶を啜る。
「えっと……その、はい。何故、卑賤なる私程度の階級をご存知なのかと……」
「っかー! かったいねぇ……“ヒセンなるワタクシ”って……いいか坊主」
カタンと、飲み干したカップをやや乱暴にテーブルへ置く。
「過ぎた自己卑下は嫌味だぞ? どうだ、俺はこんだけ凄いんだってツラしとけ。
それに“冒険貴族”“獣魔種討滅者”のビノ家を知らん冒険者は、ただのモグリのチンピラだ。
盗賊や山賊と大して差がねぇ荒くれだよ。俺ぁよ、世は捨てたつもりはねぇんだわ」
アイゼン卿は街の悪ガキを叱る親父のような豪快な笑顔を見せる。
「世は俺を捨ててるかもしれんがな――なんちゃって」
「そんな事は……」
豪快に笑うアイゼン卿の笑顔の奥には、そこはかとなく寂しさが感じられた。
「まぁ良いってことよ。情報を耳にしてたのは、なんつーか、たまたまだよ。
この森の薬草やら豆茶は商人連中によく売れるんだ。
ちょうど一昨日、ここにしょっちゅう来る行商人が教えてくれたんだよ」
ポットから手酌で豆茶を注ぐ。
もう一杯飲むか? と差し向けてくるポットを、手で遠慮を示して断る。
「で、だ。
誇り高き“冒険貴族”の次男坊たるベスラ・ビノ殿は、この森になんの御用で?」
一瞬――ほんの一瞬だが、空気が凍りつく。
殺気にも似た重圧が周囲を満たす。
ぎりっと奥歯を噛みしめ、その重圧に耐える。
「隠者の森に住まう英雄殿に……依頼があって参りました……」
やっとの思いで声を絞りだす。
喉がひりつき、うまく声が出せない。
「依頼…ねぇ? もう俺ぁ斬った張ったは勘弁して欲しいンだがね」
ふっと空気が緩む。
アイゼン卿から漏れていた重圧は霧散している。
肺が新鮮な空気を欲して動き出すのを実感する。
「竜滅者の力が必要だと……その、陛下が……」
王命。
その一言を使うのは気が進まない。
どんな無茶でも応えざるを得ないからだ。
しかし、かの英雄を説得する方法が他に思いつかなかった。
だが、アイゼン卿の返答は別の意味で息が詰まった。
「陛下……? あのクソじじぃまだ生きてンのか」
「アイゼン卿!!」
不敬です――そう言いかけて口を閉ざした。
フェルド・アイゼンは笑っていた。
英雄としてではなく。
隠者としてでもなく。
昔の悪友を思い出した老人のように。
「んで? じじぃはなんて言ってんだ?」
懐から煙管を取り出し、葉を詰めつつベスラに先を促す。
「いや、私もそこまで詳しくはお聞きしておりません。
これを隠者……英雄殿にお渡ししろと賜れただけですので……」
仰々しくない質素な封筒。だが封蝋は間違いなく王家の紋章である。
これを預かった時、天地が引っ繰り返るかと思った。
王からの手紙など、貴族社会では喉から手が出るほど欲しいものだ。
それをあろうことかフェルド卿は封を乱雑に開け、読み終わると無造作にベスラへ差し出した。
ベスラは落下する手紙を慌てて受け止めた。
王書簡をそんな扱いする人間を初めて見た。
「ふぅむ……クソじじぃめ、まだ覚えてやがったか」
ぷかりと煙と共に心底面倒そうに吐き出した。
ベスラは一瞬迷ったが、王の手紙を読む。
内容に唖然とする。
『親愛なるフェルド・アイゼン
今日も相も変わらず棒を振って楽しんでいるのか? クソ剣士』
普段の王の威容からは考えられない雑な開始文だった。
『ドゥカトゥの連中が遊びに来たいそうだ。
ありゃやる気じゃな。恩を忘れて息まいておる。
今のホンドゥールでは少々……ほんの少しだけだがな、厳しいものになるじゃろう』
王都で見た威厳ある国王と、この手紙を賜った時の王と同一人物とは思えなかった。
『そこでな、盤石にする為にもクソ剣士に戻って来て欲しい。
思う存分戦場で棒を振ってくれ。
が、クソ剣士の役目も理解している。
だから先に言っておく。
断るなら若造の面倒くらい見ろ。
若造どもに棒振りを教えてやってくれ。
見どころのある若造を何名か送る』
役目……?
その一言に引っかかった。
だがフェルドは何も答えない。
煙管から立ち上る煙を眺めているだけだった。
『追伸
この手紙を持っていくように命じたベスラ・ビノだが、お前の好きにしろ。
棒振りを叩き込むも良し、側付きにするも良し、だ。
多分だがクソ剣士、お前が好む気質の持ち主だ』
そう言えばと同時に渡された書簡に目をやる。
隠者に手紙を渡した後に開けろと命じられていた。
書簡の封を切ると二枚の手紙が入っていた。
『銀級冒険者 ベスラ・ビノ殿
貴公の一層の活躍を期待し、金級冒険者へと昇級する。
金級依頼とし“隠者の森”の調査並びに実地訓練を命ずる
ホンドゥール王国冒険者ギルド』
理解が追いつかない。
金……級?
さらにもう一通を見る。
『ベスラ・ビノ子爵
貴公の祖国への貢献と実績を考慮し、伯爵へと陞爵する。
なお、この陞爵により“隠者の森”領主フェルド・アイゼン名誉公爵の寄子となる事を命ずる
ホンドゥール王国貴族院』
既にベスラの知らないところで諸々の根回しは終わっているようだった。
何度か読み返してみたが、書いてある内容が理解できない。
放心していると、アイゼン卿が不思議なものを見る目で見てきたので手紙を差し出す。
「ぶはっ! なんじゃこりゃ! 坊主、逃げ場ねぇな!」
フェルドは腹を抱えて笑った。
「俺は断れる……だが、お前は断れん。
あのクソじじぃ、最初からそのつもりだったんだな」
息が出来ないほどの大爆笑。
その事実に気が付き、ベスラは顔を真っ青にしている。
「あの、アイゼン卿……まさか、断りませんよね?」
「まぁ……面倒くせぇな!」
「アイゼン卿!?」
「いやっはっはっは……ここで俺が断ったらあのクソじじぃ抱腹絶倒間違いなしだぞ?
笑えるだろ?」
「全く笑えません!」
あー腹いてぇと腹部をさすりながら、アイゼン卿――もうフェルドでいいか――は真面目な顔をする。
「でもよ坊主。俺は笑える。多分あのじじぃも爆笑する……二対一だぞ? 坊主に勝ち目はねぇな!」
「倍だろうと三倍だろうと俺は諦めない!」
ついムキになって口調が素に戻ってしまう。
この爆笑してるクソオヤジは一応英雄なんだから敬意を払わなくては。
「俺は諦めない!……ぶはっ」
「なんですかもう!!」
「わかった、わかった……じゃあ一つだけ確認だ」
不意に真面目な雰囲気になるフェルド。
釣られてベスラも気持ちを引き締める。
「坊主、お前はどうしたい?」
言葉に詰まる。
「クソじじぃがどうとか、寄親がどうとかじゃあない。
ベスラ・ビノがどうしたいかを聞かせてみろ」
口から出た言葉は、自分が思ったよりも素直だった。
「強くなりたい」
フェルドは何も言わなかった。
煙管の火を落とし、窓の外を見る。
森があった。
長い沈黙の後。
「そうか」
くるりと背を向けるフェルド。
再度カップにコーヒーを注ぎ、一言。
「明日の朝から始める。
準備があるから今日は領都の俺の家に滞在しろ。
明日からの準備は家令にこれを渡せ」
そう言って手紙を一通書いて渡してきた。
「ありがとうございます……?」
「なんで疑問系なんだよ」
フェルド・アイゼンは心底楽しそうに笑った。
それは久し振りに玩具を買ってもらった少年のようだった。




