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第15話 守られるだけの聖女には、なりません

 ざわめく大広間の中央。


 赤い封蝋を手にしたセオが、王宮書記官の前へ進み出る。


 その緊迫した沈黙を、手順書を抱えたミリアの足音が切り裂いた。


 震えている。


 けれど、一歩の音だけは確かだった。


「ミリア……無理に話さなくていい」


 アルベルトが、思わず名を呼ぶ。


 その声には、あの日の夜会と同じ響きがあった。


 扇を落とした少女へ、手を差し伸べた時の声。


 守るべき相手を見つけた王子の声。


 けれど、アルベルトの慈悲は、今のミリアにとって、自分を再び檻に閉じ込める鎖でしかなかった。


 ミリアは小さく首を振る。


「いいえ、殿下。お話しさせてください」


 アルベルトの手が、椅子の肘掛けの上で止まった。


 ミリアは、ちらりとリディアを見る。


 リディアは何も言わない。


 ただ、小さく頷いた。


 彼女は大広間に、守られるために来たのではない。

 自らの職務を、事実に刻むために来たのだ。


 リディアは黙って見守った。


     *


「私は、リディア様にいじめられてなどいません」


 ミリアの声は細かった。


 だが、大広間から消えはしなかった。


 貴族たちの扇が止まる。


 大神官グレゴリウスの微笑は、今や張り付いた粘土のようになっていた。声を挟もうとした口元に、隠しきれない焦りが滲む。


 ミリアは手順書を強く抱きしめた。


「厳しい教育は受けました。測定を怠れば叱られました。休憩を取らなければ、無理やり休まされました」


 若い神官たちの何人かが、小さく頷いた。


 分かる、という顔だった。


「でも、それは私から聖女の道を奪ったのではありません。自分の足で立ち、自分の責任で瘴気を測る。その方法を教えてくださったのです」


 ミリアは、王太子ではなく自分の手元を見た。


 手順書。


 腕章。


 少しだけ浄化粉の残った袖口。


 王城の光の下では、どれも地味だ。


 けれど彼女にとっては、誰かに飾られるための宝石より、ずっと確かなものだった。


「大神官様は、私に聖女として守られるべきだとおっしゃいました」


 ミリアの指が、腕章の布を掴む。


「でも、守られているだけでは、私は家族を救えません」


 広間の空気が、わずかに揺れる。


「お給金をいただき、仕送りができました。自分の職務に責任を持つことを、初めて知りました」


 貴族の一人が、困惑したように眉を寄せる。


 聖女の資質を問う場で、給与袋や仕送りの話が出るとは思っていなかったのだろう。


 けれど、ミリアにとってはそこが大事だった。


「私にとっては、この腕章の方が、実体のない『聖女』という称号よりずっと重く、誇らしいのです」


 どこかで、扇がぱたりと閉じた。


 大広間の沈黙が、少し形を変える。


 かわいそうな平民少女。


 守られるべき聖女候補。


 王太子に救われる小さなヒロイン。


 そのどれにも、目の前のミリアは収まらなかった。


「祈りは、一人では届きません」


 ミリアは続けた。


「瘴気を測る人がいます。道を確保する人がいます。運ぶ人がいます。記録する人がいます。受付で順番を整える人がいます」


 ミリアの視線が、ほんの少しエリンへ向いた。


 エリンは目を潤ませながら、背筋を伸ばした。


「その人たちがいるから、祈りは必要な場所へ届くのだと、神殿で知りました」


 大神官が、深く息を吸う。


「ミリア嬢。あなたはまだ幼い」


 声はなおも慈悲を装っている。


 だが、その節々には焦燥が滲んでいた。


「本来なら、あなたは聖女として多くの者に守られ、導かれるべき存在です。リディア嬢は、その道を狭めたのではありませんか」


 ミリアの肩が少し揺れる。


 王太子も彼女を見る。


 大広間中が、ミリアの次の言葉を待った。


 怖くないはずがない。


 王太子、大神官、貴族、重臣。


 ここにいる誰もが、平民の少女ひとりを黙らせるには十分すぎる肩書きを持っている。


 それでも、ミリアは顔を上げた。


「リディア様は、私から聖女の道を奪ったのではありません」


 声が、少し強くなる。


「自分で立つ道をくださいました」


 広間が静まった。


 アルベルトの顔から、言葉が抜け落ちる。


 大神官の指が、杖の柄を強く握った。


「小さな仕事だと、思われるかもしれません」


 ミリアは続けた。


「でも、受付で順番を整えることも、瘴気を測ることも、記録を残すことも、小さくありません。誰かがやらないと、祈りは届きません」


 彼女の視線が、まっすぐ大神官へ向く。


「私は、守られるだけの聖女にはなりません」


 叫びではない。


 けれど、その一言の後、大広間の誰かが持っていた扇を取り落とした。


 乾いた音が床を叩く。


 その音に、誰も笑わなかった。


     *


 アルベルトは、椅子の肘掛けを握りしめたまま絶句していた。


 彼が手を差し伸べるはずだった少女は、彼を見ていない。


 救いを待つ瞳ではなく、手順書を握る指先に力を込めている。


「君は……それでよいのか」


 かろうじて出た声は、かすれていた。


 ミリアは一瞬だけ迷い、それから頷く。


「はい」


 短い返事。


 それだけで、アルベルトの手が肘掛けから滑った。


 彼はミリアを直視できず、視線を落とす。


 そこにあったのは、彼が救うはずだった少女ではない。


 自分の職務を持ち、自分の足で立つ、一人の人間だった。


     *


 大神官グレゴリウスは、唇を引き結んだ。


 ミリアを「リディアに虐げられた少女」として使う道は、本人の言葉で塞がれた。


 それでも彼は、まだ退かない。


「ミリア嬢。あなたの言葉は立派です」


 大神官の微笑は、ついに口元だけのものになっていた。


「しかし、あなたはまだ神殿に入ったばかり。リディア嬢の管理下にあり、その影響を受けている可能性は否定できません」


 ミリアの手が、また少し震える。


 リディアは動かなかった。


 助け舟を出すことは簡単だ。


 だが、それではミリアの言葉を、また誰かの管理下へ置いてしまう。


 ミリアは、ちらりとリディアを見た。


 リディアは小さく頷く。


 続けられるなら、続けていい。


 無理なら、止まっていい。


 選ぶのは、ミリアだ。


 ミリアは正面を向いた。


「影響は、受けています」


 広間がざわつく。


 大神官の目が、わずかに光った。


 だが、ミリアは怯まなかった。


「私はリディア様から、祈りという言葉の裏にある責任を教わりました」


 手順書を握る指に、力が入る。


「それを影響と言うなら、私はその影響を誇りに思います」


 大神官の顔が強張った。


 セオの羽ペンが、やけに静かな音で紙を削る。


 王宮書記官も、ミリアの言葉を記録している。


「私は、リディア様に言わされているのではありません」


 ミリアは言った。


「自分で、そう思っています」


 大広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。


     *


 リディアは、そこで初めて一歩前へ出た。


「ミリアさん、ご苦労様でした」


 ミリアの肩から、少しだけ力が抜ける。


 リディアは、彼女の証言を褒めすぎない。


 泣かせもしない。


 ただ、仕事を終えた職員にするように、静かに礼を言った。


 ミリアは小さく頭を下げ、元の位置へ戻る。


 アルベルトの視線が、彼女を追う。


 もう、以前のように「守るべき少女」を見る目ではなかった。


 まだ混乱している。


 だが、少なくとも彼は、目の前のミリアが自分の物語の小道具ではないと気づき始めていた。


 リディアは大神官へ視線を戻す。


「では殿下、大神官様。情緒的なお話が終わったところで、実務に戻りましょう」


 大神官の頬が、ぴくりと引きつった。


「次に確認すべきは、緊急認定の扱いです」


 セオが赤い封筒から最後の一枚を抜き出した。


 紙の表面には、神殿上層部の印。


 そして、表題。


『大神官室 緊急認定記録』


 セオが静かに読み上げる。


「ここには、どの貴族がいくら積み、どの依頼が緊急扱いへ変更され、どの民の祈りが後回しにされたかが記されています。筆跡照合用の原本もございます」


 その表題が晒された瞬間、大神官の杖が床の上で無様に滑った。


 こつん、と虚しい音が響く。


 大広間の視線が、その一枚へ集まった。


 紙の上には、貴族名、寄付額、変更された優先区分、後回しにされた依頼番号が、整然と並んでいた。

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