第13話 聖女というより、悪役令嬢ではないか
香水の匂いに混じって、野卑な好奇心が大広間を満たしていた。
王城の磨き上げられた床。
高い天井。
扇の陰から覗く、値踏みするような目。
リディアが一歩進むより早く、大神官グレゴリウスが慈悲深い微笑を浮かべて口を開いた。
「本日は、リディア・エルネスト嬢の聖女としての資質を確認する場でございます」
穏やかな声だった。
あまりにも穏やかで、刃を絹で包んだような声。
「リディア嬢。あなたは神殿にて、祈りに順番をつけ、由緒ある家々の信仰を『予約』という名の事務処理へ押し込めました。聖なる神殿を、ただの役所の窓口に変えてしまったのです」
扇の陰から、囁きが漏れる。
「まあ……」
「冷たい聖女ですこと」
「公爵令嬢の気まぐれでしょう」
「寄付者まで待たせたとか」
別の声が、少しだけ楽しそうに言った。
「聖女というより、悪役令嬢ではないか」
来た。
リディアは、妙に冷えた頭でその言葉を聞いた。
王城の大広間。
王太子。
貴族たちの視線。
そして、悪役令嬢という雑な役名。
形は知っている。
この世界は、どうしても私をそこへ押し込みたいらしい。
誰かの不満を背負わせるために。
誰かの怠慢を隠すために。
誰かの都合の悪い記録を、感情論の煙で覆うために。
けれど、今日は記録がある。
それに、長引かせるつもりもない。
帰りに神殿前の店で、林檎蜜の氷菓子を食べる予定があるのだ。
リディアは鞄の留め具に触れた。
冷たい金具の感触で、頭がさらに冴える。
「事実確認をお願いいたします」
大広間の囁きが、半拍遅れて止まった。
泣くと思っていた者。
怒ると思っていた者。
言い訳を始めると思っていた者。
その全員の呼吸が、少しだけずれた。
リディアは声を荒げない。
「ただいまのご指摘について、発生日時、担当者名、記録上の根拠をご提示ください。印象ではなく、記録で確認したく存じます」
大神官の目が細くなった。
「リディア嬢。これは、あなたの心を問う場です」
「心を問う前に、事実の確認が必要です」
王国重臣のひとりが、わずかに身じろぎした。
王宮書記官たちの筆先が、紙の上で止まる。
リディアは続けた。
「祈りを拒んだとのご指摘がございました。どの依頼を指していますか。受付日、受付担当者、優先区分をお願いいたします」
「あなたは、またそのように手順を」
「査問会ですので」
リディアは静かに言った。
「確認できないものを、事実として扱うわけにはまいりません」
その瞬間、セオが動いた。
後方で控えていた彼は、一礼してから王宮書記官の前へ進み出る。手には神殿記録室の封蝋が押された封筒。
その動きが、あまりにも自然だった。
まるでこの広間の空気など最初から信用していない人間の手つき。
「発言をお許しください。神殿記録係、セオ・ヴァルターでございます」
大神官の眉が動く。
セオは気にせず、封筒を机の上に置いた。
「感情で議論されるのであれば時間の無駄ですので、共通言語としての数字を出席者分ご用意しております」
大広間がざわついた。
「数字?」
「出席者分?」
「何を勝手に」
セオは涼しい顔で、王宮書記官へ視線を向ける。
「確認会と伺っております。確認に必要な記録です。三回読み合わせますか?」
王宮書記官が、わずかに咳払いをした。
「……配布を許可する」
「ありがとうございます」
セオが合図を出す。
エリンが震える手で受付記録の写しを差し出した。顔は青い。だが、足は止まっていない。
「原本はこちらにございます」
声は震えていた。
それでも、大広間の端まで届いた。
セオはその写しを、王宮書記官、重臣、神殿上層部、寄付者貴族代表の机へ順に置いていく。
紙が置かれるたび、ささやきが一つずつ死んでいった。
「こちら、受付記録の写しです。順番札制度導入前後の待ち時間、緊急対応件数、私的祈祷の予約化後の割り込み未遂件数を含みます」
扇の陰で笑っていた貴族の前にも、同じ写しが置かれた。
その貴族の指が、紙の上で止まる。
日付。
時刻。
対応者名。
案件内容。
どれも、逃げ道のない顔をしている。
セオは次の封筒を開いた。
「未処理浄化依頼の推移です。改革前、三百二十件。直近、二十七件。緊急案件は全て当日中に処理済み」
「三百二十件……?」
重臣の一人が思わず声を漏らした。
その声は、大神官に向けられていた。
大神官グレゴリウスの微笑が、わずかに硬くなる。
「それは、長年の積み重ねで」
「はい。長年の積み重ねです」
セオが即座に応じた。
「ですので、どのように積み重なったかも記録しております」
封筒がまた一つ開かれる。
紙の角がそろい、乾いた音を立てた。
「過去の結界事故記録。西門結界の点検延期。同日、聖女補佐二名が侯爵夫人の温室祈祷へ派遣されています。被害者一名。軽傷ですが、事故は事故です」
大広間の空気が変わった。
聖女らしさ。
慈悲。
温かみ。
それらの柔らかい言葉の隙間から、事故と負傷者という硬い事実が顔を出した。
「侯爵夫人の温室……?」
「それは偶然では」
「同日、とあるな」
紙をめくる音が増える。
セオは止まらない。
「東の侯爵家の薔薇祈祷についても資料がございます。正式依頼書なし。緊急認定印なし。受付記録なし。大神官グレゴリウス様による勤務時間外の口頭命令」
東の侯爵家の関係者が、顔を強張らせた。
リディアは静かに口を開く。
「薔薇を大切に思う心を否定するつもりはございません」
広間の視線がリディアへ戻る。
「ですが、一輪の薔薇のために、翌朝の浄化班の稼働率を落とす判断はできませんでした。命と生活基盤を先に置いたことが、聖女として冷たいというご指摘でしたら、その判断の記録も併せてご確認ください」
大神官が杖を握り直した。
「祈りは、数字で測るものではありません」
「祈る者の体力は、数字に出ます」
リディアは即答した。
「過労離脱者の記録もございます」
セオが封筒を一つ持ち上げる。
大神官の顔から、穏やかな色がさらに削れた。
「夜通しの祈りと記されていたものの多くが、実際には勤務時間外の私的祈祷対応です。翌日以降の欠勤、休職、担当交代の記録と照合済みです」
王宮書記官の筆が、忙しく動き出した。
扇の音が消えている。
かわりに広間に満ちているのは、紙の擦れる音だった。
リディアは、大神官を見据えた。
「貴族からの依頼に金額をつけた、とのご指摘もございました。私的祈祷を正式な予約枠へ回した記録はありますが、祈りそのものに金額をつけた記録はございません。該当文書をご提示いただけますか」
大神官は、ほんの少しだけ息を吸った。
「寄付者への配慮を欠いたという話です」
「では、『金額をつけた』という表現は訂正されますか」
大広間がぴたりと止まった。
王宮書記官の筆先も一瞬止まる。
大神官の目元が、わずかに引きつった。
「あなたは、言葉尻を」
「言葉は記録に残ります」
セオの羽ペンが、かり、と鳴った。
その音が、妙に大きく響いた。
リディアは視線をミリアへ移す。
ミリアは手順書を胸に抱いたまま、必死に立っている。
青ざめているが、泣いてはいない。
アルベルトの視線も、そこへ動いた。
リディアは言う。
「ミリアさんの件についても確認いたします」
ミリアの肩が小さく跳ねた。
「聖女の道を奪ったとのご指摘でしたね。現在、ミリアさんは浄化技師補佐見習い予定として基礎研修中です。測定器の扱い、避難確認、休憩管理、基礎浄化補助。こちらに研修記録がございます」
セオが資料を配る。
アルベルトの前にも、一枚が置かれた。
彼はそれを見下ろす。
リディアは続けた。
「また、ミリアさん本人は、前回の面会時に『いじめではなく業務指導を受けている』と証言しています」
アルベルトの手が、椅子の肘掛けにかかった。
あの言葉が、彼の中でまだ残っている。
私、いじめられていません。業務指導を受けています。
大神官が口を挟んだ。
「本人がそう言わされている可能性もあります」
ミリアの顔が強張る。
リディアの目が、すっと細くなった。
怒鳴りはしない。
声も荒げない。
「では、その可能性についても本人に確認をお願いいたします。強制の有無については、王宮書記官の前で記録していただいて構いません」
王宮書記官が顔を上げる。
セオの口元が、ほんのわずかに引き締まった。
大神官は黙った。
噂なら扱いやすい。
印象なら押し通せる。
だが、本人確認となれば、話は変わる。
リディアは大広間を見回した。
「本日は、聖女としての資質を問う場と伺っております」
手元の資料を、一枚だけ持ち上げる。
「であれば、確認すべきは私の心根ではなく、私が何を救い、何を記録し、何を改善したかです」
紙の白さが、広間の灯りを受ける。
「どうか、お手元の資料の数字確認をお願いいたします」
セオの手から、さらに資料が配られていく。
扇を閉じた貴族が、紙面へ目を落とす。
別の貴族が、指先で日付をなぞる。
王国重臣たちは、互いに小声で何かを確認し始めた。
大神官の慈悲深い微笑は、紙束の前でひび割れた仮面のように強張っている。
大広間に、紙をめくる音が広がった。
一枚。
また一枚。
その不穏な沈黙は、さきほどまでの嘲笑よりずっと重く、ずっと冷たかった。




