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81. 遠い旅路

 ほどなくして、二人は町を出て、再び街道を辿りはじめた。小さな町には、生活に必要な細々したものを扱う店が一軒あるだけで、サナンにちょうどよさそうな衣服や靴などは見当たらなかったので、道中の食糧だけ買い込んだ。また、大きな街を通ることもあるから、そのときには忘れずに何か手に入れてやろう。


 幸いなことに、天気は良かった。明るい青空から、さえぎるものなく光が降ってきて、辺りの牧草地やその奥の森の緑もきらきらと輝かせている。外を歩くのにはちょうどいい気候だ。


 なだらかな丘をうように伸びる街道は、そこそこの幅はあるが舗装されていない。人々が踏み固めた土の上に、行き来した馬車のわだちが幾重にも重なっている。少し前につけられたのであろう筋のいくつかが、他のぐしゃぐしゃに潰れたものとは違うことにミカは気づいた。旅商人の荷馬車より、車輪の幅がはるかに広い。より大きな荷馬車か――でなければ、贅を尽くした豪華な作りの馬車が残していったものだ。


 ベルリア王家の人々は、ミカが修道院長の交代を待っている間に、王都へと戻っていった。シアラン王子は妹夫婦のみならず、ロードリー伯爵まで、一行の中に詰め込んで行ったようだ。『王宮へ招待』などと言っていたが、実際のところ、連行に近いのは疑いない。あの男は、王都で使い道があるということなのだろう。


 一行と簡単な別れの挨拶をしたとき、ユールは至極真剣な面持ちで言ったものだ。


「聖都まで、道中ご無事で。またいつか、ベルリアにおいでください。パトレス・ミカ、私はあなたに、お返しできないほどの恩義がある――私にできることがあれば、いつでもお力になるつもりです。どうか、忘れないでいてください」


 きっと、再びユールとこの地で会うことはないだろうとミカは思ったし、おそらくユールもそれはわかっているだろう。けれど、絶対にと言うことはできない。絶対は神のもので、不完全な人間にはどんなことだって起こり得る。すっかり平和になって落ち着いたこの国に、戻ってくることだってないとは言えないのだ。


 今しばらく、この地には動乱が続くだろう。シアラン王子が反逆者を平定して、再び王家が威信を取り戻すためには、これまでよりも多くの混乱が続くだろう。しかしそれは、終わりのあるものだ。暗い時代の出口は、もう見えているのだから。


 ふと、その轍の跡が途切れて、ミカは顔を上げた。少し先で、道が分かれている。


 荷物を抱えたサナンが、問いかけるように彼を見上げた。もちろん、行くべき方向はわかっている。右手に向かい、南の港に出て、船を捕まえるのだ。聖都の側まで行く船が捕まるか、あるいは離れた別の港についてそこから陸路になるかは運次第だが、とにかくベルリア南部へ向かうのは決まっている。


 左手に続く道には、さっきまでミカが追っていた轍の跡が復活して続いている。こちらは王都へ至る道なのだ。


 ミカは、これまで歩いてきた道を振り返った。この地で起きた様々なことが脳裏を過ぎった。


 その全てが、今は背後にある。置き去りにされる過去となって、やがては誰からも忘れられていく。


「……なあ、サナン。ちょっと寄り道してってもいいか?」


 ミカは道を外れて牧草地に踏み込んだ。文句も言わずついてくる気配を感じながら、道のない原っぱを草を踏んで横切る。足下で、柔らかく水分を含んだ土が沈んで、歩きやすくはないが、大地を覆いはじめた草の新芽が助けてくれる。地上に命が溢れ出す、一番瑞々しい季節だ。


 やがて草地が切れた先には、小さな森があった。昔、石切り場があった場所で、あまり豊かな土壌ではなく、長く放置されてきた場所だ。十数年前に、元の所有者がリドワース修道院に寄進してからも、最低限の手入れをするだけで活用されてはこなかった。修道院からは離れすぎていて、日々通いで作業するには不都合だったし、地味が良くないので借り受けて耕したいという者も現れなかった。誰からも忘れられ、かえりみられはしない場所。


 木々の間に、細い道が一本通っている。道というのもはばかられる、人が行き来した痕跡という方が正しい代物で、やがて夏が来て下草が繁れば、何の形跡も残さず消えてしまうだろう。だが今は、まだはっきりと残っている。


 森の中、道の終わる場所には、ただ大きな石が一つあるだけだ。古い石切り場に転がっていた、切り出し損ねた大石を、数人で持ってきてここへ置いた。多少、人口的な輪郭である他は、自然のものと変わらない、ただの石だ。何も刻まれてはいない――これが墓碑ぼひであることを知る者は、今でもほとんどいないし、やがて誰もいなくなる。


 かつて、リドワース修道院の副院長であった遺骸をどうするべきかは、修道院内の誰も、具体的な意見を持っていなかった。院内の墓地に埋葬することはできないと誰もが思った。そこは特別な、名誉ある場所なのだ。長く信仰を捧げ神に仕えた修道士か、修道院に貢献した俗人のみが葬られる。神の御名を血で汚し、『奇蹟』を傷つけ、ついには神にそむく最も忌まわしいやり方で命を捨てた人間を迎え入れることはできない。たとえそれが、かつては彼らのうちで、最も尊敬を集めた輝かしい神の使徒であったとしても。


 だが同時に、どこかへ追いやってしまうということも、考えられないことだった。重罪人や異端の徒にするように、骨まで焼き尽くし灰をばらまくなどということは、到底受け入れられなかった。『彼』は長く、彼らのうちの一人であったのに。生活のすべてを共にして、ともに神の栄光を称えた、人生の一部であったのに。


 無残に焼け焦げ、魂を失った肉の器は、こうしてここに埋められた。墓碑銘は持たない、名も刻まない。この地上にあって、神の光を受けるに値しない罪を犯したゆえに。誰も彼の名を口にせず、彼の地上における痕跡を見ることもない。その罪は忘れ去られるべきものであるがゆえに――だがそれでも、彼はまだここにいる。修道院に属する場所に、神の救いのある場所に。


 まだえそろわない木々の新葉の間から、まっすぐに光が差し込んでいる。外から見た森の様子とは不釣り合いなほどの明るさの中、ミカは奇妙な輪郭を持ったその石の前に、膝をついた。


「《永遠の波間、福音の宮殿にいます神よ、我、御前にて誓約を果たさん。祈りをお聞きになる方よ、御前にすべての肉は来たりし。我をひしぐ諸々の罪咎、我をしのぐ諸々の不義より覆いて護り給え。幸いなるかな、選ばれしもの、御庭にはべりて住まわされしもの。御殿の聖なる方にあって、清き恵みに飽くことを得ん》」


 彼に、今も祈りの言葉が必要なのかはわからない。救いがあるのかどうかもわからない。けれどとにかく、別れの言葉は必要だ。誰にとっても、どんな場合でも。


 別れなくては立ち去れない。立ち去らなければ、再び巡り合うこともできない。また会おうと口にするとき、人は皆真実に触れている。誰しもが皆、もう一度出会うのだ。今でなくても、今生ではなくても、どんな罪を犯そうとも、どれほど過ちを繰り返そうと――いつか、永遠の神の御前へ至るときに。


 だから、行かなくては。ミカが生きていくのと同じように、彼もまた進まなくてはならないはずだ。罪と別れ、地上を離れて、永遠へ至る長い旅路を。


 聖句の一節を唱え終わって、ミカはようやく立ち上がった。どこかで小さく小鳥がさえずる声がする。光が若葉の緑を透かして、名のない墓に、影で精緻な模様を刻んでいる。


「あ、おい。何してるんだ」


 気が付けば、石の近くにサナンが座り込んでいた。荷物から手持ちの農具を取り出して、土を掘っている。何を掘り出すつもりなのかと、ミカはぎょっとしたが、すぐにその意図を察した。


 サナンはもう一つの荷物に手をかける。現れたのは、注意深く包まれて固定された、青々とした苗木だ。


 サナンが人目につかない場所で育てていた薔薇の苗木はすべて、リドワース修道院の果樹園の周りに植えてきた。病害虫をいち早く知らせ、おとりとなって果樹を守る役目を果たすだろう。ただ、その多くは、長くは生き残れない――サナンと祖父は、美しい花を求めて交配を繰り返したが、その代償として、木は野生の強靭さを失ったのだ。適切な弛まぬ管理を続けなければ、あっという間に弱ってしまう。サナンがいなくなれば、それをする者は他にはいない。


 ただ一種、『奇蹟の薔薇』だけは、こっそり挿し木を作って持ち出してきた。教皇庁に報告をするのに、実物があるに越したことはない――サナンにとっても、祖父が残した最後の形見だ。これからどこへ行くにしろ、側に置いておきたいはずだ。


 その貴重な苗木を前にして、サナンはおもむろにはさみを取り出した。その穂先を、ちょんと切り落す。そして、たった今少しばかり耕した土に穂を挿して、水筒の水をすべて注いだ。そのまま立てた穂に手を添えて、しばらくそのまま保つ。


 息を詰めて見つめるミカの前で、頼りない穂先は、ほんのわずかに光を放っているように見えた。太陽の光の下では、ほとんど見えない仄かな輝き――しかし、それで何が起こるのかはよく知っている。これまで既に何度か見たが、それでも決して見飽きない『奇蹟』。


 やがてサナンが手を離したとき、小さな枝は立派にすっくと立っていた。先端に近いところにある赤い芽が、成長が待ち切れないというようにうっすら飛び出ている。


「花は咲かせないのか」


「小さくて、よわすぎるからむり。かれてしまう」


「こいつ、このままここで成長できるのか?」


「わからない」


 立ち上がり、辺りを見回してサナンは言った。今は頭上から光が差しているが、それでも森の中は陰になりがちだ。土質がいい悪い以前に、光が足りなければ薔薇は生きていけない。


「もし、うんがよければ生きのびられる。生きのびて、花をさかせたら……それが見えたら、きっと、いいきもちになるから」


 誰が、とは言わなかったが、ミカには彼女の言わんとするところがよくわかった。この地上に在った最後の瞬間まで、神の『奇蹟』を傷つけていった男は、しかしそれを心から喜んでいただろうか――何もかも、そうでなければよかったと思いながら行ってしまったのに。


 罪は許される。この地上にかせはない。もう、どこにでも行けるのだ。


「……いや、でも待てよ。これ咲いたら、また『奇蹟』を調べに来なきゃいけねえのかよ。マジかよ勘弁してくれよ」


 だが、そういうことだってあるかもしれない。どんなに喚こうが罵ろうが、望もうが祈ろうが、この世界には、どんなことだって起こるのだ。


 やがて、懸命に空へ背伸びをする小さな挿し木に最後の一瞥いちべつをくれて、二人の旅人は歩き出した。神の手になる世界の片隅を出て、この世のはるか彼方へ向けて。






終わりです!

ここまで長くお付き合いいただきまして、ありがとうございました!

応援してくださった方、本当に感謝しています。

お礼とその他諸々、活動報告にもつらつら書いていますので(2024年2月25日)、寄ってみてくださいね(´∀`*)

改めて、ご覧いただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] めちゃくちゃ面白かったです!もし作者さんの余力ときがむけばこれのシリーズを読んでみたいかもパトレス・ミカの旅の続きや、サナンとのお話なんかをです。ほんとうに素敵な作品をありがとうございました…
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