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世界は広い

「ゆっくりできたか? マリー。待ってろ、今うまいものを拵えてやろう」


 湯冷めしないようにタオルを敷いて足湯をしていた私の元に、イグニスさんが獲物の兎を抱えて戻ってきました。


 村の人に絞め方を教わろうと思っていたのに、すっかりみなさんに甘えてやり方を知らないままなんですよね。


 私は足を拭ってブーツを履くと、イグニスさんの作業を見るのに近づきました。


「なんだ、絞め方を知りたいのか?」


「はい。ずっと教わろうと思って出来てなかったので」


「じゃあ近くで見てるといい。その後薪を集めるぞ」


 イグニスさんが兎を絞める間、私はその手元をじっと見ていました。


 ザァザァと風の吹く音に湯気が此方まで漂ってきます。夕暮れ時の森は、少し寒くて怖いです。温泉がほのかに光っているので、少しは気も安らぎますが。


 ナイフ一本で血抜きから皮を剥ぎ、骨から肉を切り離す手際の良さは見事でした。ドラゴンなのにどうしてこんなやり方を知っているのかとふと疑問に思って顔を上げると、イグニスさんの金色の目と視線がかち合います。


「不思議か? マリー」


「えぇ、なんで人のやり方を知っているのかな、って思っていました」


「それはな、我は昔にも人に焦がれた事があるからだ」


 イグニスさんにそんな過去があったとはビックリです。でも、不老不死の先輩としては、そんな事があっても不思議ではありません。


「もう100年は前の話だ。その女は人と家族を成して死んだ。子孫はまだどこかで生きているだろう。遊牧の民だった」


 私たちは立ち上がり、枯れ枝を探して温泉の周りを歩きました。時々小枝を踏む音、風が木の葉を揺らす音、そしてイグニスさんの声に、周辺で暮らす動物の鳴き声。不思議な感覚です。


「美しかった。狩りをするその横顔が、羊を愛でる眼差しが。我はその女を娶りたかったが、遊牧の民として暮らす事はできなかった。我には我の習性があるからな。縄張りを捨てて一緒に行く事はできなんだが……こうして人の知恵を授かり、今好いた女に肉を振る舞う事ができる」


「あの……拐おうとは思わなかったんですか?」


 私にしたように、拐かす事など造作も無かったのではないでしょうか。


「遊牧の民でない女は、我の好いた女ではない。どうしても道の交わらん事はある。それでいい、我は女を好いた、女は己の人生を貫いた……それでいいのだ」


 ひと抱えも薪木を集めた私たちは、肉を置いていた場所に戻りました。昔話を懐かしむように、噛み締めるように話すイグニスさんは、なんだか知らない人のようで……、それでいて、胸が苦しくなる気がします。


「今はお前を好いている。浮気ではないぞ? 終わった恋もあれば、始まる恋もある。今はお前のそばにいる、それが我にとって心地よい事なのだ」


 薪木を組むとイグニスさんは口から炎を吐き火を付けます。そこに平たい石を入れて充分に熱し、熱くないのか素手でそれを取り出すと、石の上で兎の肉を焼き始めました。香ばしい香りがします。


「マリー、マルグリート。今お前が感じている寂しさに我が勝手に名付ける事はできぬが、半分は、知らぬ世界への憧憬ではないか?」


 私は胸に手を当てて自分の気持ちと向き合いました。


 たしかにポールさんとの暫しのお別れは寂しいです。ですが、そうですね、ポールさんの話してくれた沢山の広い世界があって、私はそこを見て回れない……その寂しさに気付きました。


 イグニスさんは指先を器用にドラゴンの爪に変えて箸を作っています。私にその箸を渡すと、焼けた肉を食べてみろと勧めてくれます。


 塩も何もありませんが、兎の脂は甘く、肉は歯応えがあって美味しいです。


「よいか、マリー。お前に不可能は無い。人の理など知った事か。我がいつでもお前を拐かしてやろう。己に枷をかけるのをやめ、広い世界が見たい時、我をちょっと誘えばよい」


 陽が完全に沈みました。


 目の前の焚火にイグニスさんの金色の目が揺らめきます。


 私はなんだか許されたような気持ちになって、胸につかえていた重石のようなものが無くなって、……それをこの目の前の男性が与えてくれたのだと思うと顔が赤くなりました。


 いつもアニマルだアニマルだと思っていても、不老不死のドラゴンであっても、こうして対面したとき、そこにはただ、素敵な男性がいるだけです。


(この人に、私は想われているんだ……)


 嫁にするだなんだとほざいていても結局アニマルとして見ていた私は、その事実に直面したとき、視線を逸らすことしかできませんでした。


 心臓がドキドキします。乙女ゲームの世界に没頭していた時とはまた違う、リアルに、真近に、私を想う人がいるという事に。


 そんな初歩的な事に初めて気付いた私の事などお見通しなのでしょう。ふと笑ってイグニスさんは私の頭を撫でました。


「ほんに、お主は可愛いのう。度胸と知恵を持ち合わせているのに、初心で愛おしい。お互い悠久の時を生きるのじゃから、そう焦らなくていい。一つずつ気付けばいい」


 その手の心地よさに、言葉に、気恥ずかしくなった私は兎の肉を齧ります。美味しいです。


 思えば前世でこんな風に異性と向き合う事はありませんでした。


 今世でも、こうして胸の内を語り合う事は無かったことです。


 火の弾ける音を聞きながら、ふと空を見上げます。


 森の木々の真ん中にぽっかりと空いた穴から、満天の星空が見えました。


「わぁ……」


「主が望めば、いつでも知らない世界に連れて行こう。何、世界は広い。不老不死とて退屈せんぞ」


「ふふ、はい。また拐かしてください。……まだお気持ちにちゃんと応えられるかは分かりませんが、貴方が私を見放さない限り」


「不老不死のコツはな、マリー、今を生きる事だ。先の心配はしなくていい。我は今こうして主の隣におる。それだけでいい」


 私はすっかりイグニスさんにあやされて、毛布を被ってからもずっと、イグニスさんの話す世界の話を聞いていました。程よい眠気に誘われて目を閉じるまで、人の目では見れない世界の話をしてもらいます。


 背後では温泉の流れるせせらぎの音がしています。その日、翼が生えたように空を飛び回る夢を見ました。

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