第一話 天才、朝浦湊
「あなたは、最初から知っていたのですね」
たくさんのライトが照らす部屋の中、俳優である黒瀬迅は静かにカメラを見つめた。
空気は刃のように冷たい。息の吐き方、瞬きのタイミング、目線——そのすべてが、計算され尽くしていた。
カメラマンも、ディレクターも、呼吸ひとつたりともできなかった。
(……なるほどね)
椅子に座り台本を開いていた俳優、朝浦湊は口の中でつぶやく。その手は台本をめくってなどいない。視線は黒瀬へと固定されていた。瞬きすら忘れ……いや、瞬きすら邪魔だというように。
——負けられないな。
朝浦の口角が上がった。ほんの刹那、ギラリと輝く。
「カット!」
監督の声がかかる。黒瀬はふっ、と肩の力を抜いた。その視線は朝浦へと向かった。
「次は、朝浦さんのシーンです」
「はい」
朝浦は台本を閉じ、笑顔で立ち上がる。黒瀬とすれ違う。互いに視線を向けた。
(……痺れたろ?)
(いい演技だった)
唇だけで言葉を交わし、朝浦はカメラの前に立つ。その瞬間、朝浦湊はそこにいなかった。
「……君は青いね」
彼はふっ、と微笑む。
「青い。真っ青だ。まっすぐで、何も知らない」
彼の瞳は、ふっと暗くなる。
「……その青さが、羨ましい」
……いる。誰もがそう思った。
黒瀬は椅子に腰掛け、台本を捲る。視線は朝浦から離さない。手元ではペンが動く。
力を抜くときは、肩が10度下がる。セリフの間は0.5秒で、ほんの少し長め。台本と傍に置かれたメモが、赤線と黒線に染まっていく。
「はい、カット」
監督の声が響く。朝浦は『朝浦』に戻る。そのままにこやかに「大丈夫そうですか?」と笑っていた。
——絶対負かす。
黒瀬は椅子の背もたれに身を預け、口の中でつぶやいた。
◇
赤い夕陽が傾く頃。本日の撮影を終えた朝浦は、マネージャーである長原の運転する送迎車に乗り込んだ。
「お疲れ様です」
「うん。お疲れ」
「……一応聞きます。どっちですか?」
「……分かってるでしょ」
「ですよね」
彼は笑って車を走らせる。ビル街を抜けて向かった先は、ベッドタウン。車は年季の入ったマンションの駐車場に停まる。
「つきましたよ」
「ありがとう」
「明日も六時ごろに迎えに行きますね」
「お願い」
朝浦は少し笑って、あたりを見回す。
「よし、記者もいない」
彼はそれだけ言って車を降りる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
短くそう答え、朝浦は玄関へと向かっていった。
オートロックを解除しエレベーターに乗り込む。ごうんごうんという駆動音の後、中層階に止まる。玄関扉に鍵を差して、ガチャリと開けた。部屋の中から光が漏れている。鼻をくすぐるのは、醤油と味醂の匂い。
朝浦は後ろ手でドアに鍵をかけると、べしゃりと玄関に倒れ込んだ。つま先を引っ掛けてぽんぽんと靴を脱ぐ。
その瞬間、奥の引き戸が開く。顔を出したのは、ルームウェアを身につけた女性だった。
「おかえり」
「……ただいま、ひな……」
朝浦は視線だけで伊藤ひなを見る。
「ご飯できてるよ」
「……まだ……スライム……」
「……現場に黒瀬さんいた?」
「……いた」
「じゃあ、とりあえず一時間ね」
ひなは朝浦に毛布をかけると、部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。テレビには配信者だろうか、ゲーム画面とそれを盛り上げる実況が流れていた。朝浦は彼女の笑い声を聞きながら、うとうととまどろむ。その瞬間だった。
「スライムで寝ない!」
「……だめ?」
「ご飯もお風呂もまだでしょ」
「……いいよもう」
「だーめ」
「……だめかぁ」
朝浦は笑い声を漏らす。床が冷たくて気持ちいい。
小一時間寝そべっていると、ひながまた玄関にやってくる。
「一時間経ったよ。立てそう?」
「……がんばる」
朝浦はのそのそと四つん這いになって、膝をついてから立ち上がった。ひなは「お風呂先にしよっか」と笑った。
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