アクナス修練堂の日々
剣聖 クリスイン・エルガー
これは、剣聖と呼ばれたクリスイン・エルガー師の生涯を綴る物語である。
開祖である師により『真ニイン流』はエトワイル大陸に広く知られ、公式流派としている国は数知れず、これを修めた者達によって多くの傍流が生み出された。しかしながら、その精神が目指す高みにおいて真ニイン流を超えるものは未だ現れていない。
師の佩刀であったタルツ『ソニア』、正式名称『デワルツ・リグ・エア・ソニア』(嵐も雷も従えるソニア)は聖剣として世に名高く、現在では流派の正当な後継者の証となっている。嵐と雷を従えるのは神獣『龍』であることから別名『龍雲』とも呼ばれる。
しかしながら、名刀ソニアの能力を余す事なく発揮させた使い手は、エルガー師以降存在していない。
ソニアを手にするエルガー師こそが一振の聖剣であり、破邪顕正たる存在であると評される。クリスイン・エルガー師とその佩刀を切り離すことは考えられず、ゆえに後世において聖剣聖とも呼称される所以となった。
長脇差タルツ『バイカ』−もう一つ、師の佩刀であった長脇差タルツ『バイカ』は堅剛たる中鞘を纏った形で使われることが多かったようである。その打撃が生む衝撃は、硬さの化身である金剛ガニ、凶悪なる緑水晶カメの甲羅をも打ち砕いたと記されている。しかし、その刀身さえも名刀と称されるべきである。今は作刀された故郷、地精族の手で保管されている。
生涯に100を超える決闘、討伐をくぐり抜けたエルガー師は天下に隠れもなき剛の者と知れ渡るようになってから以降、その足跡は歴史書、風説書、日記に数多く記されている。しかし、幼少期から青年期にかけては全く謎に包まれており、これまでは記録すら残されていなかった。
この度、クリスイン家と永きに渡り親しく交流を深めた豪商ミラバー家の蔵より、新たな資料が見つかったことは流派の末席に連なる者として望外の喜びである。
しかし、資料には不明な点が数多くその真相は霞の彼方を望むようなものとなっており、人の世に明確なかたちとなってでるまでにはまだ時間がかかるは必定であろう。
その点と点を結ぶような作業なくては、およそ物語ること叶わぬ思案していたところ、同じ蔵より新たな発見があったと知らせが入った。ミラバー家では、長年に渡りエルガー師にまつわる資料を収集してきたことが幸いした。
これは師と私の不思議な縁なのかもしれない。エルガー師と生涯の多くを共にしたナーダム族のナーサム・ビクス(我が祖母の御霊よ、安らかなれ)の孫娘である私、アイナー・ビクスは、永きにわたり祖母から聞かされたエルガー師の話を書き留めてきた。この度、新たに見つかった資料と書き留めたものとを照らし合わせ、謎多きエルガー師の幼少期から青年期までの物語を・・・・・
降り注ぐ恵に
目の木が目覚め
心は詠い出す
命の詩を
限りない緑の原
桃 藤 金 と雲は輝き
漆黒の深淵を 絶対の極寒を
貫き渡り来る活気の光
今、降り注げよ命の精気
我らは受けとらん、隙間なく
降り注ぐ愛を、地に渡そう
地は湧き上がらせよ命の昇気
生きるために、生かすために
生滅陰陽互いに後を追い、
全ては回る巡る
世界樹の書 “声“ より
天は抜けるほど蒼く、冴え冴えと雲を浮かばせている。かかる埃を払うかのように、風に吹かれた枝先の新緑がゆっくりと揺れ、雲を撫でている。アクナス領北部は春を迎えた。
木々の枝を幼き葉が覆い始め、見渡す限りの景色は緑の煙に埋め尽くされたかのようである。
緑のアーチに覆われた石畳の道の向こうから、二頭の亜竜馬と簡素な荷車を引く毛長牛が蹄の音を響かせている。半馬身先を進んでいるのがこの一行のリーダーであろうか。馬上の二人は共に旅の道中に使われる革鎧、革兜を身につけた武人の姿であった。手入れが行き届き使い込まれた装備がどちらもピタリとよく似合う姿である。が、先を行く人物にはどことなく麗しい雰囲気が漂う。
「ベグナ国は元から北方ゆえ、その北部のアクナス領ともなればどれほど暖かいのかと思っていましたが、思ったよりさらに早く春が来ていたのですね」
この声からするに女性のようである。これに若い男性の声が応えて
「左様ですね、これほど風が緩んでいるとは意外だったなあ」
若葉の隙間から差し込む陽光へ顔を向けると、兜に隠れていた女性の表情が露わとなる。歳の頃17、8であろうか。すっと通った鼻筋に透明感のある瞳。砕けた口調で話しているが、どことなく気品がある。どこぞの貴族か武家の者でろう。
「そうは言っても、油断しないでくださいまし。日が落ちればまだ寒さは厳しいでしょう。それに公都から続く道とはいえ、山際の田舎道なんです。はぐれ魔獣に出っくわすこともありえます。」
毛長牛に引かせている車の御者から聞こえたのは、これもやはり女性のようである。従者のようであるがその厳しい体つきからただの世話係ではないことが伺える。
「幾多の戦場を潜り抜けたお前の言葉だ、仰せに従うことにするよ。マジタの言葉を無碍にはしないよう母上からも言われているしな」
こう答えたのは15、6歳ほどの好男子。長いまつ毛、高い鼻は少しだけ上を向いている。
「坊っちゃん、そんな言葉には騙されませんよ。こんなことよりもっと大切な言葉をこれまで何度も聞き流されてきましたからね。痛い目を見ないことをお祈りします。あっ、それで思い出した。昨日までいたあの公都パラリス、爬虫人が数体紛れ込んで夜な夜な人狩りを楽しんでたって話、酒場で聞きましたよ」
「爬虫人って、あの竜人の下位種族の。」
「そうですよ、あいつら人間族を口がきける家畜同様の食糧とみなしてますからね。お若いリヨル様は肉が柔らかそうですから、目をつけられないようにしないと」
「弟もこれまでの事で痛い目を見てきたのですから、もう十分学んできたことでしょう。リヨルのことはもう少し長い目で見てくれると助かります」
「セリナ様からそのようにおっしゃられては、もちろんそういたします。ですが、お命のあるうちに年長者の助言に耳を傾ける心構えを坊ちゃんには身につけてほしい、と申しております」
「わかった。心に刻んでおくよ。それにしてもあの公都パラリス、よかったなぁ。美しい女子たち。美味しい料理。姉上、これから引き返して、パラリスに滞在し、修行を積んできたことにしませんか」
その場の皆、同じ思いが湧き上がった。『やれやれ、全く困ったものだ』。
セリナの展開していたオーグが気配を捉えた。そして振り向きもせず開いた手をギュッと閉じた。『口を閉じろ』という手信号。
それまでこれらのやり取りに耳を傾けるだけだった牛車の助手席の人物が、首に巻いていた布に口元を埋めた。
『カカ様、探りに来てます』
ガタガタと騒がしく続く牛車の音に紛れ、マジタにだけ届く声が注意を呼びかけた。
リヨルと呼ばれた男性もこれに既に気づいたようだ。
馬上で居住まいを正すと、よく通る声でセリナが話し出す。
「出迎えご苦労にございます。これなるは南クロイダン共和騎士国より参りましたセリナ・カナリ、弟リヨル・カナリと従者の一行。ニイン流御宗家クリスイン・エンテス様にお目どおり願いたくここに参じております」
左右の木の陰から人影がい五つ現れた。現れた人影一人は道の中央に、残りは両脇に並ぶと頭を下げたままで一行を待ち受ける。それぞれが使役獣を伴っている。4頭の森豹と1羽の燕竜。警戒、追跡には最適な組み合わせだ。それほどの数が隠れられるはずもない木の陰から静々と出現した一団は、セリナ一行が近づくと馬前に現れ片膝をついた。両脇に控えるのっぺりとした4つの表情。いや、それはよくできた仮面である。笑い皺の深い中央の人物が口を開いた
「ようこそおいでくださいました。私は警邏隊を率いておりますデンス・ケンスと申す者。クリスイン館からは御一行様のことは伺っております。このままお通りください」
相手にセリナ・カナリは丁寧にお辞儀を返した。出迎えをその場に残し、セリナ一行は再び春を迎えようとする緑のトンネルを進む。
「我が国の影法師のような者たちでしょうか」
リヨルは前を向きながら呟くように言った。すると先ほどの警邏の者が気になるらしくさっと振り返った。最後の一人の足が木の影にすっと消えたのが目に入った。
「ちょっとそのまま進んでいてください。ドナン、少し良いか」
リヨルはそう言い残すと亜竜馬を走らせ、荷馬車の助手席に座る人物とともに警邏隊の三人が消えた木に向かった。
よくあることなのか、そんな弟の行動を全く意に介することもなくセリナと荷馬車は速度を変えず擦り減った石畳の上を進む。暖かい陽射しの降り注ぐ開けた林に出た。するとそこここから高く明るい声がかすかに聞こえてくる。セリナは手綱を引き、亜竜馬の歩みを止める。
「あっ、ここにもあった」
「うぁー、これ見て、おっきい」
セリナは馬を降り、少し湿った音のする落ち葉の上を歩く。枯葉の絨毯を押し上げて頭を出していたのはキノコであった。大きく広がる林のあちらこちらに人影がちらほらと伺える。ここは良い採集場所なのであろう。小さいながらも仕事に勤しむ子供らの様子に微笑みが浮かぶ。大人の女達が時折立ち上がり、あたりを見渡すのが気に掛かる。何かを警戒しているようだ。人に伴われた使役獣も心なし、落ち着かない様子だ。
今、小さな女の子がフッと頭をもたげ、何かを見つけたのか集団から離れセリナ達の方に向かって走り出した。周りはキノコ収穫に夢中で、それに全く気がついていない。
何気なく見渡していたセリナの眼が何かを捉え、浮かんでいた微笑みがスーッと消えた。女の子達が集団になっている場所からかなり手前になるが、太い木がある。日差しが樹表に陰影を作るその中に、木に張り付いて上から降りてくるものがあった。腰袋の外側に収納されている単眼鏡を反射的に引き抜き、目に当てる。脳内にある本のページが高速でめくられぴたりと止まった。
爬虫人たちが常に連れ歩く獰猛、凶悪なペット
『灼熱トカゲ』
真っ黒な体に燃えるような赤い瞳。故郷を離れるにあたり、さまざまな指導を受けた中で幾度か注意された警戒すべき生物。伸びる舌が獲物に打ち込まれると、微量の毒が送り込まれる。それは瞬時に全身を駆け巡り激烈な反応を起こす。血が沸き立つような高熱、この魔獣の名前の由来通りの反応を獲物に引き起こす。
よりによって、走り出した女の子はまるで凶悪なトカゲを目指すかのごとく、真っ直ぐに向かっている。大声で少女に危険を知らせば、少女の反応によってトカゲを過度に刺激してしまうかもしれない。少女はトカゲのいる木から少し離れた場所にしゃがみ込み、熱心に落ち葉を掻き分けている。
セリナの記憶から蘇って来た注意事項、『極めて伸縮性と強靭さを兼ね備えた外皮、流動体のような皮下組織を有しており、垂直に強烈な刺突でなければ・・・』
という言葉が脳裏に浮かぶ。
となれば黒トカゲにできるだけ近接し、矢で縫い付けてから素早く近寄りとどめを刺す。近場の木に隠れながら歩みを進める。セリナは旅弓を背中から抜き取り、矢を番えた。身体が左方からの風を読み、澱みない動きから矢は放たれた。
「タンッ」「タンッ」
軽やかな音と共にセリナの矢が突き立った、と同時にもう一矢がトカゲを木に固定した。2本の矢に突き刺され、標本のような格好となったトカゲであったが、その標本は不気味な舌を伸び縮みさせ激しく体をくねらせた。
この貴重な間隙を使い、危機から引き離そうとセリナは少女へ声をかけた。
「灼熱トカゲがいる。こちらへ」
少女は素早く辺りを見回し気付いた。幹の陰でジタバタと黒い生物が暴れている。元々いた場所とセリナとの距離を比べて判断したのか、反射的に首から下げた何かを口に咥え吹き鳴らしセリナたちの方へ駆け寄ってきた。
「ピャー」
甲高い音が森に響き渡ると、あちらこちらから、
「キョオー」、「クゥオー」
と応える声が戻る。森豹だ。。敏捷な動き、飼い主に忠実な森の強者。森に用事がある者は必ず連れて入る知性生物の良き伴侶である。落ち葉を力強く蹴る足音がいくつも近づいてくる。少女はセリナ達の方へ駆け寄っては来るものの、さすがこの地に生きる者、見知らぬセリナを信じるわけもなく少し距離を置いて後方へ駆け抜けた。
少女のいる遥か反対側から大人の女達が長い得物の刃を陽光に煌めかせ走り寄ってくる。
セリナ、マジタは少女と入れ替わるように疾走を始めた。セリナの揺れる視界の中でうねる黒い生物が、己を縫い付ける矢から身を剥がそうと猛烈にのたうつ。と同時に視界の端でセリナ達と横並びに走る小さな人影が見えた。男の子だ。どういうつもりか。いや、しかしこの子があの矢を放ったのか。
「下がれ」
セリナは男の子に声をかけるが、その子は一向に従う気はないようだ。
間に合うか。首の付け根を貫いた矢から身を引き剥がしたトカゲは、気色悪いほどに舌を縮め太らせ、真っ赤な眼球を左右へ伸ばした。既に抜剣していたセリナは右方下へ引きずるよう構えぴたりと足を止める。それと時を同じくして、セリナの左後方で足を止めた男の子。この状況ではなんの役にも立たぬだろう、さっさと逃げれば良いものを。ここでトカゲを取り逃してしまえば、その驚くべき脚力で樹上へ血路を切り開こうとするだろう。後方の男の子を人質に逃げられたら、事態は泥沼化してしまう。獰猛ながらそれくらいの知能はあると聞いた。
膠着状態に陥るのを予感したようなトカゲが、瞬時気が緩んだであろう隙をついてマジタの放った矢がトカゲへ飛ぶ。それに気付いたの気づいていないのか、黒い生物は全く避ける様子も無く、残るもう1本の矢から己の自由を取り戻そうと、体の位置を変えた。マジタの矢がトカゲの背に当たった瞬間、『ズンッ』トカゲがへばりつく木が揺れ、丈夫な表皮に幾重にも波が生じた。が、矢は何事もなかったかのように押し戻され、地に落ちた。マジタのズワールの矢は、皮の薄い頭部への衝撃を狙ったものだったがうまくかわされた。聞くと見るとは大違いであることをセリナは見せつけられた。これほど強靭で極度に柔軟性のある表皮とは想定以上である、とセリナは認識を修正した。レイワールを矢の先端に乗せて放ったのは念のためと思ったセリナの判断は正解だった。点に集中させてやっと抜ける表皮なら、剣では切り裂くどころか、傷をつけることさえ困難であろう。敵意に燃える灼熱トカゲの目はセリナを真っ直ぐに見つめると、毒の舌を自身の頭部が後ろへ仰け反るほどの勢いで発射する。軌道を変則的に変える飛来物をセリナは右下から振り上げた剣で弾いた。トカゲはセリナへ舌を打ち込むと時を同じくして、男の子を獲物と見定めたのか襲いかかるべく左方へ飛ぶ。セリナは抜き打ちざまに短剣を投じた。素早いトカゲの動きにセリナの脚は追いつけない。時が水飴のごとくに引き伸ばされ、小さな男の子の姿がゆっくりと動いたように見えた。
小さな男の子が上段に構えているのは何なのか、セリナには判断できなかった。タルツのように湾曲しているが長さは半分ほどである上に、刃が見えない。黒地に銀色の金属板が貼り付けられたような、棍棒であろうか。大きく開いた灼熱トカゲの口を開いた頭に向かって、恐ろしげもなく男の子はゆっくりと棍棒を振り下ろす。その瞬間、その人物は現れた。少年に並んだのは髪を高く結んだ女性の姿だった。少年の緩やかに振り下ろされたタツが、どうしてトカゲの頭部に当たったのか、セリナにはわからなかった。しかし、棍棒が頭部へ直撃の寸前、漆黒の生物は頭を横へ振り、少年の棍棒はトカゲをかすめるだけに終わった。現れた女性の腰の真っ赤な鞘から抜く手も見せず振るわれた常寸のタルツは、灼熱トカゲの頭部を両断するに留まらず、タルツの長さを遥かに超える毒トカゲの胴体までをも深々と断ち割っていた。
セリナにとっては、久々に見るニイン流の剣技であった。
灼熱トカゲは、伸び切った左右の目玉をびくん、と震わせ崩れ落ちた。断末魔にぐったりと地にくねる毒舌は不気味に跳ねる。その気味悪い動きの舌の先端に、細ながい金属棒が突き刺さり、尻に付いた返しが脈打つ舌を地面に固定した。少し遠くに残心の姿をとる警邏隊デンス・ケンスがいた。
駆けつけた大人の女たちが取り囲む中、先ほどの警邏隊2名とデンス・ケンスが進み出て、セリナ、そして赤い鞘の人物にお辞儀をする。
「まずはセリナ様、お供の方、そしてエルメ様、ありがとうございました。エルメ様はどうしてここが」
事情を聞こうとデンスが話しかけた。
エルメと呼ばれたのは、セリナより少し年下と思わしき女性であった。涼しげな眼差しをデンスに向けると
「なに、こちらの御一行様を出迎えに来て、偶然に出っくわしたまでのこと」
そしてエルメという女性は少年を振り返ると
「エルガー!私に何かいうことはないのか」
するとエルガーという少年は
「俺、僕が朝見つけたんだ。僕がやっつけた。エルメは余計な手出しをしただけだ」
これを予想していたかの如くエルメは口端の片方をあげて
「どう見てもわたしの方でしょう。それにそのタルツ、まだ持っているのか。鞘からぬけないのなら、ただの棍棒だぞ。」
そこで不満げな顔を見せた少年は
「うるさい。これは僕の力がまだ足りないだけだ。これは凄い力を持ってるんだぞ」
しかし、ここで少年はニコリと笑顔を見せると
「でもエルメ、冴えた手の内だったな。褒めてやる」
エルメはすかさず握り拳で少年の額を打った。エルガーは避けもせず、しっかりと拳を受けた。
やれやれ、というようにエルメは腰に手を当て頭をふった。
興味を持ったセリナは、この傍若無人な少年に近づいた。
鞘付きの短タツを、腰に備えた更に大きな鞘に収める、という不思議な動作を慣れた手つきで少年はした。エルガーは、キラキラとした不思議な瞳でセリナが来るのを待っていた。
セリナは織り目正しくエルメと呼ばれた女性に対すると
「お話に割り込んで申し訳ございまぜん。わたくしは・」
「はい、存じております。館からお迎えに上がるように申しつかって参りました。セリナ様、そしてあちらからいらっしゃるのは弟君のリヨル様でしょうか、お付きの方々。ようこそアクナスへ」
「わざわざのお出迎え、ありがとうございます」
セリナは今度、少年に向かい
「あなたはエルガーというの。よくやっ
「あなたも、なかなかですね」
活躍を讃えようとしたセリナの口は、呆れてしばらく閉じられなかった。
「わたしの名前はエルガー。あなたもお爺様の弟子になるのか、ですか。無事に入門が叶ったら今度手合わせ願います。もし、わたしに勝ったら旨い魚、持っていってや、いや、あげます」
これほど面白い自己紹介はセリナには初めてだった。
滅多にないことだが、森に響くくらい大きな声でセリナは笑っていた。
「私はセリナ・カナリ。南クロイダンから参りました。エルガー様。私には過分な申し出をありがとう。貴方に勝って旨い魚とやらを頂こうと存じます」
「貴方は、面白い事言うな」
それだけ言うと、皆にクルリと背をむけ唐突に走り出した。遠くにつないであったスラリと細身の動物、馬であろうか、垂れ下がる綱を掴むと、ポーンと大きく地を蹴りヒラリとその背に乗った。その首を優しく叩くと
「やったぞ、。見てたか」
馬と見えるそれはそのその言葉にいななきを返すと、セリナ、マジタ、とエルメへぺこりと頭を下げたように見えた。エルガーは手綱を操ると、その珍しい若馬は急に加速して瞬く間に視界から消えた。
「おもしろい」
いつの間に戻ってきたのか、遠ざかる影へ視線を送るリヨルが、感心したように呟く。と、こちらへ近づいてきたデンスはそれを聞いてか、リヨルへ向けた顔は微笑んでいたかに見えた。が、すぐに厳しい表情となり
「いや、誠にお恥ずかしい。客人に不愉快な思いをさせてしまいました」
セリナはにっこりと微笑みで返すと
「いえいえ、さすがは武辺者の多い里。幼な子といえど血気盛んな事。あの子は」
デンスは何も聞こえなかったように、まっすぐセリナの瞳を見た。そこに何を見たのか、小さく頷くと
「クリスイン家にあまたおります一族の子です」
「さすが血は争えぬ、と言うところですね。」
なんのこだわりをも見せぬこの返答に警邏の男は内心満足した。早春の風が爽やかに吹き抜ける。
「デンス、ここはもういい。向こうにどこぞの武者修行のお方が来ておるようだ。相手をしてあげなさい」
と、その時かなりの遠くで
「我ら、武名の高いクリスイン・エンテス殿に一手御指南頂きたく参った者」
大音声が森に響く。
「や、確かに。これにて失礼いたします」
デンス・ケンスはひらりと身を返すと姿を消した。
「あの小僧に見込まれましたね。改めてまして、わたしはクリスイン・エンテスの次男、ダンガスの娘、クリスイン・エルメと申します。ここからは私がお案内いたします」
リヨルの目の輝きが変わったようだ。
「そうでしたか。私は南クロイダン共和騎士国、ワイナ・カナリ議員騎士の息、リヨル・カナリと申します。遠目から拝見いたしましたが、見事なお手の内、感服いたしました」
これにエルメはエトワイル大陸共通の返礼、右拳を左鎖骨の窪みに乗せ、左手は体側にぴたりと付け、軽くお辞儀を返した。
「恐れ入ります。でも水ぎわだった一太刀は、こちらのセリナ様でしょう」
と言いながら手にした短剣をセリナに渡した。
「あの一番グネグネしているトカゲの首筋に、よく打ち込まれました。よほどの鍛錬を積み重ねたのでしょう。見事でございました」
「いえ、それをいうのはこちらの方です。片手打ちであそこまでの威力を現せるとは、ニイン流とは恐ろしい力を秘めているものでございますね」
「セリナ様、リヨル様はニイン流を学びにいらっしゃったのでしょう?噂に聞き及ぶワイナ騎士様のお身内ならば、すぐにあれしきの事おできになれます」
その時、解体作業に取り組んでいた集団から声が上がった。ざわめく声に異様なものを感じたエルメは、人垣を掻き分け中にいた者に声をかけた。
「どうした、何かあったか」
「いえね、頭の皮を剥がした途端、左右の頭蓋骨がバラバラになっちまって。こんな状態で生きていられるわけないからね、何があったんだろうって」
それを聞いたエルメは、崩れた頭部をじっと見つめた。セリナはエルガーが去った方角を振り返っていた。
それからはしばらく楽しい時間が過ぎていった。エルメは陽気な気質で、この地のことをよくしゃべった。季節ごとの気候、料理、特産物、修練堂での修行の様子など。問われたことに明確に答える様から、明快な頭脳の持ち主であることがわかる。エルメに疑念を起こさせないようセリナは慎重に言葉を選び、クリスイン家の家族構成に探りを入れてみる。事前の情報ではエルメには少々変わり者の叔母がいたはずだが。
「ご当家ではワーレイスも修練生にいるようですね。魔導士とも言われるワーレイスが剣で知られるアクナスで修練するとは少し不思議な気がします」
セリナがこう話を切り出すと、意図を察したのかそれともただエルメと会話がしたかったのかリヨルが割り込んできた。
「南クロイダンでは、ワーレイス達が戦場でこなす役割は通信士、熱線放射、光輝線放射、砲弾射手くらいしかおりません。ただ、彼らが私たちの脳内奥底に存在するマノン(霊門)からどのように物理的なエネルギーを取り出しているのかさえ、私にはさっぱりとわかりませんが。よろしければ無学な私にご教授願えませんか」
エルメはこれに目を見開いて応じた。
「驚いた。つい最近、修練堂の座学で学んだばかりのことをここで披露することになるとは。でもここは年長者のセリナ様に教えて頂いた方が適切なのでは」
セリナはそれに対して
「修練堂でどのように指導なされているのか、私も興味があります」
ニコリと笑う。
エルメは
「では、私の理解がこれで正しいのか、セリナ様、指摘くださいね。数日後の試験に備え、自分のためにもなることなので努力してみましょう。ワーレイスの内容に進むまで基礎から話しておきたいと思います。
これは世界的に著名な覚理学の教本から得た知識です。
凝気能とも言われるワールがこの世界において初めて知覚されたのは、今よりおよそ五千二百年から五千年の間であると伝わっております。
現在では信仰が途絶えているレーム教の一宗派の僧にして医師であった 聖祖オイッグ・ロラク導師によりワールへの道が開かれたとされます。
聖祖のなした偉業は大きく3点に絞られます。
・パースル(虚未界)の発見
・エルゴ領域の知覚
・ヨルト(意識回路)の開発
レーム教の教義の一つに内なる宇宙の知覚、と言うものがございました。己の存在するこの世界を知るにあたり、レーム教は知り得る限界のある外の世界に目を向けるのではなく、無限の可能性を秘めた内なる世界の探究に勤しみました。
脳内に構築される意識回路「ヨルト」の原型は、既にレーム教の高位聖職者の秘儀により代々伝えられた技でした。それまでの平面的に描かれたヨルトは、彼らに大いなる高位の霊的存在、深淵なる内宇宙の広がりを教えました。ヨルトオイッグ・ロラク導師は、それまで平面的なパターンを描いていたヨルトを、右脳、左脳それぞれに立体的なパターンを描くことで、閉ざされたパースルの門を開いたのです。
エルゴはパースルに点在する未分化のエネルギー領域であり、内なる意識の深部に立つ、マノン(霊門)を通過することによってのみ到達できる領域です。
意識回路であるヨルトは、与構築者、授構築者の双方によって左脳、右脳のそれぞれに構築されなければならないわけでありますが、聖祖のなした偉業に一つ付け加えるとすれば、ヨルトの構築方法を解明し、他者に伝達し、再構築させることに成功したことでありましょう。
マノンから流れ出る未分化の気は、それぞれのヨルトを通過する際に具現化します。マノンを開いた術者は、“オーグ“と呼ばれる・・・・・ええと・・・」
エルメが木立が生い茂る空を見上げ、言葉を思い出そうとする姿に、微かに笑みを浮かべるセリナだった。
「拡張神経系」
「そうっ、それ。あっ、失礼しました。ありがとうございます。“オーグ“と呼ばれる拡張神経系を身体の周りに纏います。オーグを通してのみ気を凝らす事ができ、具現化した気を凝気能、ワールと言います。
エメルタインやメルタインなどの操甲体、土木作業に使用される人型気従器、船の動力部伝達部などに配置されているコラン石にワールを注ぎ機動、運用させるのが通常の使用方法です。注目してほしいのは、その際に使用されているワールは運動エネルギーに変換されている点です。
ワーレイスはその点が特殊なのです。彼ら、彼女らは気が凝する時にコラン石に運動エネルギーを与えるのではなく、オーグから直接に熱、光などのワール波を放射し、またオーグからコラン石を内包しない物体に直接運動エネルギーを与えたりすることができるのです」
そこまでいい終わると、エルメは一息ついた。
「エルメ様は優秀な修練生ですね。とてもわかり易い説明でした。ねえ、姉上。」
リヨルが間をおかずに褒めそやした。セリナも感心していた。途中まではセリナの知る覚理学の本の内容だったが、そこから自分の理解を言葉に直し、リヨルの質問の答えに繋げた。
「では、今伺ったお話から推察できる私の見解をお聞きくださいますか」
始まった。リヨルが良いところを見せようと誇示蛙(メスへの求愛行動で美しい色彩の喉袋を大きく膨らませる蛙)するようだ。
「私の知る限り、アクナス修練堂ではワーレイスの修練生はいなかった。もしくは極めて少なかったはずです。ここへきて急に部門を設けたのには訳がある。アクナス公国はジャーシュワ法皇国と対峙しております。法皇国に何らかの変化があった。もっと言えば、ワーレイス僧兵出現の増加、といったところでしょうか」
エルメはリヨルにニコリと笑いかけると
「さあ、お祖父様や父上の考えることですから、私の口からは返答に困ります。でも、熱線や光輝線などワール波を扱うワーレイスが戦場でその持てる力を発揮するには天候に左右されることが多いとされます。接近戦で武名を上げるため己を鍛えたいと考えるものがいても可笑しくないのでは」
良い流れ、とセリナは判断した。
「実戦経験のある熟練した指導者が必要と思われますが、御当家ではどなたがご指導を」
「クリスイン家に代々仕えている家門があります。そこから師範代が出ています。師範はクリスイン・アーネル。あー、なんというか少々変わり者なのですが私の叔母です。機会があれば紹介いたします」
そうこうしている内に、彼方に小高い丘が見えてきた。木々が点在する林に囲まれた丘のうえ、質素な館がある。ニイン流修練本堂、とエルメが紹介する。丘の下にある林のあちらこちらから高い煙突が伸び、木々と一体化したような町に囲まれている。鍛治仕事なのだろうか、金属を叩くリズミカルな音がいくつも聞こえてくる。
公都パラリスから程近いアクナス修練本堂は知る人ぞ知る、剣術名家クリスイン家が道統を受け継ぐニイン流の聖地である。
ニイン流。この国に数多くある流派の一つに過ぎない、とは世間的な事。その実力には目を見張るものがある。その証拠に武芸にうるさい父親がこの姉弟をわざわざ修行に出すほどなのだから。
アルス海の南に横たわるエトワイル大陸。大陸北岸を占めるジャーシュワ法皇国。精強を誇る僧兵が守るこの国へ、食い込むように突き出した広大なヴァン内陸半島を国土とする王国がある。北の虎と呼ばれるベグナ王が治めるべグナ選出王国である。ヴァン内陸半島最北端を領地とするアクナス公国は王国の北の守りとしてとしての務めを永らく果たしてきた。
古くより武芸が盛んな王国内にあって、アクナス公爵クリスイン・エンテスは誰もが認める剣の達人であり、ベグナ三将の筆頭とも目される有能な武将であった。その鬼神のごとき強さは噂を生み、単身で敵陣に乗り込み、エメルタイン(ワールを原動力とする軍用高機動甲冑)に身を包む敵将を一刀両断のもとに叩き切った、寄生蛇に頭を侵された地竜を一刀で仕留めた、などと噂され、周辺諸国からは“虎の刀“と畏れられている。王国への忠誠は揺るぎなく、それ故に大きく自治権を認められた公国である。物腰は柔らかく、それでいて王への諫言も辞さない古兵であるという。
ベグナ地方に限ったことではないが、操甲体に乗る乗のらずにかかわらず主流となっているのは両手持ち、広刃の直剣である。いざ戦ともなればこの地方でも歩兵の主力はワールで機動する操甲体である。乱戦では手返しの良い両刃の直剣に利がある。となると、日頃よりその扱いに慣れておく必要がある。また、人を襲う肉食獣、妖獣、ワールを使う魔獣には滑る粘膜、しなやかで強靭な繊維、硬い殻などで身体を覆うものもいて、時には叩き潰し、切り裂き、突き刺す必要もあることからこの豪剣が好まれている。
十数代以前にベグナに現れたクリスイン家の者は違っていた。両手持ち、広刃であることに変わりは無いのだが、片刃の湾刀をよく使った。
『タツ』と呼ばれるその刀はクリスイン家のものが引き連れてきた刀匠によってのみ生み出される。
通常、刃を持つ武器に流し込む輝く線状ワール“レイワール“を使えば刃こぼれをせず、よく切れる。タツはそれだけではなかった。レイワールを使用しても、対する防具に面状ワール“コルワール“が展開されていれば、おいそれと損傷を与えられない。
タツはそのコルワールを減衰させてしまう能力を持っていた。
しかし、クリスイン家の者はそれに満足するような人々ではなかった。鍛錬することに倦むことなく工夫を凝らし日々を過ごし、ついにこれまでなかった刀を生み出した。
それを『タルツ』という。
刀匠が不眠不休で作刀に心血を注ぎ、その作業を終えた刀匠は生死の境を彷徨うほどに消耗してしまうという。それ故、刀匠が一生の間にタルツを打つ事ができるのは三度まで、と決められている。
完成された“タルツ“にどのような力が宿るか。
『それは、直に教えを乞うしかないだろう』
そこまで考えを進めたセリナは、先ほどの少年を思い出し微笑んだ。
「ここは面白い事が尽きることない地なのかもしれない」