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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第一章 疑いの眼差し(中編ミステリ)
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3. いまわかること

 書庫の整理は、延期となった。

 僕はオッカムの剃刀を、デカルトはオッカムのケータイと脅迫状を持ち、さらに委員長を肩に抱いていた。委員長は、まだふらついているようだ。

 第四校舎までの長い道を、黙って歩く。委員長はブツブツと何かを囁いていたが、僕の耳には届かなかった。デカルトが時々、「大丈夫だから」と声をかけている。

 校舎に辿り着いて、階段を登る。校舎の中は、話し声が全く聞こえなかった。活動中の部活はあるはずだが、物音を立てるようなタイプの部活動は無いのだろう。吹奏楽部は第二校舎の音楽室だし、運動部はそもそも外で活動しているはずである。

 三階まで登ると、デカルトがポケットから鍵を取り出して、図書準備室の扉を開ける。委員長とデカルトが先に入り、僕も続けて中に入った。

 当然だが、図書準備室の中は、出掛けたときと同じ様子だった。机の上に僕とデカルトのカバン。床の上に委員長のカバン。カーテンが開かれた窓。本の詰まった本棚。昨日の会議の内容が残ったままのホワイトボード。誰も座っていない四脚の椅子。

 僕は、オッカムの剃刀を本棚に立てかけた。デカルトも、委員長を椅子に座らせると、ケータイと脅迫状を机の上に置く。

 委員長はだいぶ落ち着いてきたらしい。ブツブツという囁きはなくなっている。顔色も良くなった。そして、両手で持った「Confessio」の表紙を見つめている。

「委員長、その本、どうするんですか?」

 悩むかと思ったが、委員長は即答した。

「オッカムちゃんの身には代えられない。犯人の要求通りにするわ」

「……良いんですか?」

「恥ずかしいけど、仕方ないわね」それでも、大きなため息を吐いた。「なんでこんなことに……」

 委員長は本を置くと、脅迫状を手にした。改めて、しっかりと読み始める。

「明日十六時、図書準備室。この部屋で良いのよね?」

 質問ではなく、確認のようだった。「この部屋以外に、図書準備室と言う名前の部屋はありません」と僕は答えた。念のためデカルトに視線を送ると、彼女もこくりと頷いた。

「学外の場所を指しているのでなければ、この部屋で間違いないわ」

 そこまで疑う必要はないだろう。

「誰にも伝えるな……とあるけど、どうしましょう。先生くらいには伝えましょうか?」

「それは危険だと思う」

 とデカルトが言った。僕も委員長も、驚いてデカルトを見る。

「犯人が誰なのか、まだ全く手がかりがないのよ? なら、学園の先生が犯人の可能性もある。わたし達が伝えた先生が犯人だったら、どうするの?」

「そんな」と僕は声を上げた。「そんなことってあるか?」

「否定は出来ない」デカルトの声は真剣だった。「現段階で、犯人の正体について確かなことは、一つも無いわ」

 僕も委員長も、押し黙った。それによく考えたら、先生に知らせれば絶対警察に通報することになるし、警察に通報すればどうしたって事が大きくなる。そしたら、犯人に気付かれないとは言い切れない。

「だ、だけど、オッカムの家族には? 今日オッカムが帰って来なかったら、家族が不審に思うだろう?」

「フィル君」とデカルト。「オッカムちゃんは一人暮らししてるから、今日すぐにオッカムちゃんの不在に気付く可能性は低いわ」

 なるほど。犯人はそのことは知っていたのだろうか?

「いまは、脅迫状に従うしかないわね」

 委員長が諦めたように言った。


 そう決めた以上、今日やれることは何も無い。僕ら三人は、帰ることにした。校門を出て、委員長に別れを告げる。僕とデカルトは同じ方向だが、委員長は反対方向なのだ。いつもなら、委員長の隣にはオッカムがいるのだが、今日はいない。デカルトが、途中まで三人で帰ろうかと提案したが、委員長はやんわりと断った。

「じゃあ委員長、また明日」

「さようなら」

「ええ。二人とも、気をつけてね」

 委員長は柔和に微笑み、手を振った。振り返り、髪を揺らしながら去っていく。

 僕らも、黙って駅までの道を歩き始めた。

 小柄なデカルトは、僕より頭一つ小さい。デカルトはとてとてとせわしなく足を動かし、僕は意識して足をゆっくり動かした。肩の下のデカルトの頭を見ると、デカルトは寒そうに、マフラーに顔をうずめていた。確かに今日は、肌寒い。いつもと違って、会話がないから。

「あのさ」

 沈黙に耐え切れず、僕は口を開いた。なに、とデカルトが顔を上げてこちらを見る。

「犯人の正体について、確かなことは、本当に何も無いのかな?」

 デカルトは再び前を向いて、マフラーに顔をうずめた。そのまま、沈黙。僕は続けて話しかけた。

「明日の十六時までに犯人の正体を突き止められれば、本を渡さずにオッカムを取り返せるかもしれないだろ? 何か、無いのか? せめて、学内の人間なのか、学外の人間なのか、だけでも」

「わからない」デカルトは首を振った。「犯人の正体も、その目的も、何もわからない……」

 デカルトの声が小さくなっていく。よく見れば、表情も暗かった。この状況で明るい表情というのもおかしいが、さっき委員長を励ましていたときは、確かに元気そうだったのだ。あれは、動揺する委員長を勇気付けるために、虚勢を張っていただけだったのか。

「それどころか、脅迫状の文面が真実なのかも」

 独り言を呻くように、デカルトが続ける。

「本さえ渡せば、本当にオッカムちゃんは返って来るのかな。誘拐犯にとって一番危険なのは、身代金を受け取る瞬間。次に、人質そのもの。何故なら人質は、少なからず犯人の情報を得ているから。自分の犯行を隠すためには、人質は殺してしまった方が安全……」

「物騒な発想だな」雰囲気を変えるため、僕は軽く笑ってみせた。「それに、殺したら後が大変だ。死体の処理はどうする?」

「…………」

 また黙ってしまった。まさか、死体処理の方法を考えているわけではあるまい?

 僕も黙って、思考をめぐらす。犯人の正体、そしてその目的……。

「……あれ? さっき、犯人の目的がわからない、って言ったか?」

 デカルトは黙って頷いた。それから、僕の顔を見上げる。それがどうしたの、という顔だ。

「犯人の目的は、委員長の『Confessio』じゃないのか? 確かに、内容も知らないのに要求するのは、変だとは思うけど……」

「いいえ」デカルトは首を振った。「犯人の目的が本当に『Confessio』なのか、怪しいでしょ?」

「そうかな? 脅迫状の要求内容に、ウソは書かないと思うけど……」

「だって、考えてみて。もしフィル君が『Confessio』を手に入れたいと思ったら、どうする?」

「どうするって……」

 言われたとおり、考えてみる。

 理由はわからないが、とにかく僕ことフィル君は、委員長の「Confessio」を手に入れたくなった。しかし、委員長はそれを肌身離さず持ち歩き、盗む隙が無い。なら、いつも側にいるオッカムを人質にして、脅迫しよう!

 ……などと思うわけが無い。

 オッカムは、常にあの重くて巨大な剃刀を持ち歩いているのである。さらに男のようなハンサムな顔立ちで、いかにも「格闘技やってます」と言わんばかりだ。事実、オッカムにはあの剃刀を神速で動かす運動能力がある。

 もしオッカムを誘拐する勇気があるなら、僕だったら委員長自身を狙う。誘拐してから、ゆっくり本を手に入れれば良い。いや、そもそも委員長を狙うなら、端から本を狙えば良い。どんな方法か知らないが、オッカムを誘拐したのと同じ方法で本を奪うことぐらい、朝飯前のはずだ。それに、オッカムが一人になったということは、委員長も一人になったということなのだ。なら、直接委員長を襲えばいい。

 つまり、「Confessio」を手に入れるために、オッカムを誘拐する必然が無いのだ。

「そう、その通り」いまの考えを話すと、デカルトは小さく頷いた。「なのに犯人は、オッカムちゃんを誘拐した。……犯人の目的が本当に『Confessio』なのか、疑問でしょ?」

 でも、だけど。

「なら、犯人の目的は何なんだ? どうして『Confessio』を要求しているんだ?」

「わからない」

 デカルトは首を振った。

「確かなことは一つだけ。『今回の犯行は、計画的なものだ』ってことだけよ」

「どうして?」

「脅迫状が印刷されたものだったからよ。もちろん、オッカムちゃんを誘拐した後で印刷したのかも知れないけど、どのみち、そのための準備をしていたことになる。ノートパソコンとか、携帯プリンターとかが必要になるから」

「学園のパソコンを使ったのかもしれないよ?」

「学園のパソコンを使うには、各自が持つ個人IDとパスワードが必要。さらにパソコンとプリンターの利用履歴は全て記録されているから、もし事件が発覚したら、即、足がつく。犯人が先生で、職員室にある自分のパソコンを使ったのだとしたら、話は別だけど」

 デカルトの声が、次第に明瞭になってきた。喋っている方が、気持ちが落ち着くのかもしれない。

「でも、職員室のある第一校舎から書庫までは、走っても五分はかかる。しかも犯人は、オッカムちゃんの剃刀を持っているから、さらに時間がかかるはず。第四校舎でオッカムちゃんを誘拐してどこかに隠し、職員室で脅迫状を作成して印刷し、書庫に脅迫状と剃刀を置く……そんなことをするくらいなら、とりあえずオッカムちゃんだけ誘拐しておいて、あとでゆっくり脅迫状を出せばいい」

 なるほど。それだけ見れば、突発的な犯行と考えるのは無理がある。だけど。

「オッカムが今日トイレに寄ったのは、偶然だろ? たまたま犯人が誘拐を計画していた日に、たまたまオッカムがトイレに立ち寄るのも、変じゃないか?」

「そんなことないわ。脅迫状の文面を思い出してみて」

 文面? 僕は言われたとおり思い返した。何度も読んだので、内容は頭に入っていた。しかし、思い出したところで、何もわからない。首を捻る僕に、デカルトは答えを告げた。

「受け渡し日時に、日付が書かれてなかったでしょ?」

「……確かに『明日十六時』としか書いてなかったけど、それが?」

「日付を書いていないってことは、いつ誘拐しても良いように、脅迫状だけ事前に用意しておいた、と言うことよ。たぶん、何日も前から用意してたんじゃないかしら?」

 そういうことか。デカルトはまたマフラーに顔をうずめ、前を見た。

「いまわかるのは、そのくらいね……」

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