4. 三つの可能性
次の日の授業は、全く身が入らなかった。
と言っても、聖フィロソフィー学園の授業は、ほとんどが自習である。各クラスの教室も存在するが、あってないような物だ。みな、適当な教室や中庭でくつろぎ、自由に勉強している。「身が入らなかった」とはすなわち、本を読んでも内容が頭に入らず、中庭でくつろいでいても斬新な思想が浮かばなかった、という意味である。
原因は言うまでもない。オッカムの誘拐事件のことで、頭がいっぱいだったのである。
今朝、委員長からメールが届いた。当然だがオッカムは教室に現れず、クラス担任のイエス先生には、オッカムは風邪だと伝えたらしい。メールの末尾には、
『あの優しい先生にウソをつくなんて、また悪いことをしてしまいました……(ρ_;)』
と書かれていた。「Confessio」には新たな罪が刻まれたのだろう。そしてそのノートも、もうすぐ犯人に奪われることになる。
昼を回り、僕はついに、今日の残りの授業は自主休講する決心をした。身の入らないまま本のページを繰るよりは、オッカムを無事に取り返すために、事件について考えた方が生産的である。
オッカムの誘拐事件について話し合うため、僕はデカルトの教室に向かった。
聖フィロソフィー学園には「学年」の概念が無く、上下関係のない五つのクラスがあるだけだ。僕の所属する「現代組」、デカルトの所属する「近代組」、委員長とオッカムの所属する「中世組」、そして「古代組」と「東洋組」だ。各クラスの生徒数は三十人程度。つまり全校生徒は百五十人前後ということになる。さらに学園の教師や警備員、事務員などを含めれば、「学内の人間」は二百人ほどになる。
ひとまず、この二百人が、誘拐事件の容疑者である。
昨日あれから考えて、僕は「犯人は学内の人間の可能性が高い」という結論に至った。
何故なら、オッカムがトイレに寄ったのは、単なる偶然だからだ。その偶然を利用したということは、犯人は学内でオッカムを尾行していたことになる。そんなことをして怪しまれないのは、学内の人間だけだ。
さらに、脅迫状が書庫に置いてあったことも、理由の一つだ。犯人は、僕らが昨日書庫の整理を行う予定だったことを、知っていたことになる。そんなローカルな情報を得られるのは、学内の人間だけだろう。
この推理を話すために、僕はデカルトを探したわけだが、近代組の教室には姿が見当たらなかった。教室にいた生徒に尋ねても、デカルトの居場所は知らなかった。
僕はケータイを開いて、デカルトに現在地を尋ねるメールを送った。
『事件について話し合いたいんだけど、いまどこにいる?』
返信は、一分もせずに返ってきた。
『図書準備室にいるよ。わたしも、色々確認したいことがある』
さて、確認したいこととはなんだろう。僕は第四校舎三階に急いだ。
「犯人はあなたです」
図書準備室に入ると、デカルトが僕に指を突きつけて言った。
「………はい?」
断っておくが、僕は犯人ではない。そんな巧妙な叙述トリックは、この物語には施されていない。
デカルトは、じっと僕を見ていた。他人の直前の行動を言い当てるときに、そうするように。しばらく僕の呆けた顔を見つめていたデカルトは、やがてため息を吐くと、いつもの指定席に座った。
「こんな方法で犯人がわかるなら、苦労しないよね」
「……何がしたかったんだ?」
指定席に座りながら、僕は尋ねた。
「もしフィル君が犯人なら、いまので動揺して、真相を話すんじゃないかなと……」
「そんなわけないだろ」
そもそも犯人ではないし、犯人だとしてもそう都合よく話が展開するとは思えない。
「むー。わかんないよ。もしかしたら、犯人は物凄く気が小さいかもしれないじゃない」
「気が小さい人間が、あのオッカムを誘拐するとは思えない」
「…………それもそうか」
デカルトはあっさりと認めた。
「それで、フィル君? 『話し合いたい』ってことは、フィル君にも何か考えがあるってこと?」
「ああ」
僕は、昨日から考えて至った結論を、デカルトに話した。デカルトはふむふむと相槌を打ちながら、僕の話を聞いてくれた。最後まで話を聞き終えると、デカルトはしばらく考えて言った。
「一つ目の理由、オッカムちゃんを尾行していたからというのは、根拠としては薄いわね」
「どうして?」
「この学園は普通の高校と違って、授業がほとんど自習の上、みんな好き勝手な場所で勉強している。さらに私服登校も許可されているから、いつどこにどんな人がいても、誰も不審に思わない」
あ、そうか。言われてみれば、その通りだ。デカルトはさらに続けた。
「それに、犯人は偶然オッカムちゃんがトイレに入るところに遭遇したのかもしれない」
「そんな偶然ってある?」
「まず無いでしょうね」
デカルトは即答した。
「じゃあ、二つ目、書庫の整理の予定を知っていたことは?」
尋ねると、デカルトは小さく頷いた。
「実はわたしも、同じことを考えてたの。フィル君に確認したいと言ったのは、そのこと」
そう言うと、デカルトは立ち上がり、ホワイトボードの横に立った。コンコン、とそれを片手で叩く。ホワイトボードには、まだ「明日の書庫の整理について」と書かれていた。その下には、議事録。全て消されずに、そのまま残っている。
「書庫の整理の予定は、ここに書いてある。日付までは書いてないけど、わたし達が毎日放課後に会議をしていることを知っていれば、『明日』がいつのことかは、すぐにわかるでしょう」
デカルトは少し横に移動した。そこには、窓がある。図書準備室の窓はほとんど本棚に閉ざされているが、長机の横のそこだけは、まだ確保されていた。
「この部屋を外から覗ける箇所は、この窓しかない」
しかしここは三階で、しかもベランダなどはついていない。でも少し離れたところに第二校舎がある。第二校舎には音楽室やPCルームなどがあり、目を凝らせば内部の様子を見ることが出来る。例えばいまは、音楽室で誰かがピアノを弾いている。逆に言えば、第二校舎からこの部屋を覗き見ることも出来るということだ。
「だけど、位置が問題」
と、デカルトはホワイトボードに手を伸ばした。僕も、デカルトの言いたいことはわかった。
ホワイトボードは、窓を背にして置かれているのだ。正確には、窓の横の本棚を背にして置かれている。長机から見やすいように斜めにしてあるが、窓の外から読めるとは思えない。
「実は今朝早くから、第二校舎を歩き回ってこの文字が読めるかどうか調べてたんだけど、読める部屋は無かったわ」
僕は昼過ぎから自主休講を決めたが、デカルトは朝から授業を受ける気はなかったようだ。僕よりもデカルトの方が、友達思いである。よく見れば、デカルトの目元には隈が出来ていた。朝弱いくせに、無理して早起きしたのだろう。
「この部屋に盗聴機か隠しカメラでも仕掛けられてるんじゃないかと思ったけど、それも無かった」
「よく調べたな……」
「まあ、既に撤去されたあとなのかも知れないけど……でも、どこかに何かを隠していたような痕跡も、見当たらなかった」
そう付け加えると、デカルトが僕に顔を近づけてきた。いくら小柄とはいえ、座っている僕よりは背が高い。僕は珍しく、デカルトの顔を下から見た。
「さて。この状況で犯人がわたし達の予定を知る方法は、三つ」
右手を突き出し、指を三本立てる。
「一つ、この部屋にこっそり忍び込む。二つ、わたし達の誰かから予定を聞きだす。三つ、部屋の外で会議を盗み聞きする」
小さな手を見ながら、僕は考えた。
一つ目の可能性について。この部屋は、いつも施錠されている。そしてその鍵は、司書室の壁に掛けてある。一昨日、会議をした日は確かに施錠して帰ったし(デカルトが間違いなく確認していた)、鍵も司書室に戻した。昨日、僕がこの部屋に来たときは、既にデカルトがいた。
「昨日デカルトが来たときは、この部屋、鍵かかってたか?」
「もちろん」とデカルトは頷いた。「アッシリア先生に鍵を借りて、確かに開けたわ」
アッシリア先生とは、司書の先生の名前だ。いつも白衣を着ていて、ショートカットとそばかすが印象的な女の先生である。
しかし、いくら鍵がかかっていても、一つ目の可能性が消えるわけではない。鍵は司書室にあるが、アッシリア先生は常に司書室にいるわけではない。職員室やトイレに行くことだってあるだろうし、学食でご飯を食べているところに遭遇したこともある。隙を見て、犯人が鍵を盗み出すことは可能だろう。鍵を盗み、ホワイトボードを確認し、また鍵を返すまで、一分もかからない。時間的な余裕はあるはずだ。
では、二つ目の可能性について考える。果たして犯人は、僕らから予定を聞きだしたのか?
「わたしが確認したかったのは、まさにそこ。フィル君、昨日の予定を誰かに話した?」
「いや、話してない」
「忘れてるだけって可能性は?」
「ない」
記憶力に殊更自信があるわけじゃないが、そもそも図書委員補佐の仕事について、話題に上げることはほとんどない。ちなみに書庫の整理の予定は、ほんの一週間前に決まった。アッシリア先生が「あ、そうだ。近いうちに、書庫の整理やっておいてね?」と気まぐれに言い出し、その直後に来週やろうと決めたのだ。
それと余談だが、この学園は少し前まで女子高で、いまも全校生徒のうち九割が女子だ。入学当初はハーレム展開になるのではと期待したが、現実はそう甘くなく、むしろ僕ら男子は肩身の狭い思いをしている。しかも僕は、一般的な人よりも人付き合いが苦手だ。女子はもちろん、数少ない男子との会話も多くないので、書庫の予定を話題に上げていれば、思い出せるはずだ。加えて、犯人が知り合いでなければ、確実に覚えているはずである。
「デカルトは?」
「わたしも、話題に上げた記憶は無いわ」
「じゃあ、委員長が?」
「さっきメールで聞いたけど、言ってないらしいわ」
「すると、オッカムか」
待てよ、オッカムだとすると、誘拐したあとで予定を聞きだすことも可能なんじゃないか? デカルトにこの考えを話すと、
「可能だとは思うけど、そんなことするかしら?」
やんわりと否定された。
「普段のわたし達は、この部屋での活動しかしてない。書庫の整理みたいな外での活動は、年に数回よ。なのにわざわざ予定を聞きだすなんて、不自然だと思う」
だとすると、犯人はあらかじめ、昨日の予定を知っていたと考えられるわけか。
その予定を知るための三つ目の可能性。部屋の外での会議の盗み聞き。
「……それこそ、不審人物じゃないか? そもそも、この部屋の声って、外に漏れるのか?」
「その確認もしたかったから、フィル君を呼んだの。さ、フィル君、外に出て」
追い出されるように、僕は廊下に出た。扉を閉め、その前に佇む。扉に付いている窓は曇りガラスで、デカルトが扉から離れると、姿が見えなくなった。透明な窓もあるが、そこは本棚に塞がれて、室内は見えない。
廊下には誰もおらず、そして静かだった。司書室と図書室には電気が点いていたが、物音ひとつしない。司書室は図書準備室の向かいにあり、図書準備室と左右対称の構造になっているが、本棚が置かれていないため、中の様子が伺える。いまは、アッシリア先生はいなかった。
また図書室は、入り口がガラス戸になっているので、こちらも中が見える。図書室は広いため、全体が見渡せるわけではないが、入り口に近い閲覧席と本棚なら丸見えだ。いまは、閲覧席で何人かの生徒が本を読んでいた。
ちなみに、この学園の図書室利用率は、ほかの高校に比べて高い。授業中だろうが放課後だろうが、必ず誰かが本を読んでいるからだ。そんな中、廊下にずっと佇んで図書準備室に聞き耳を立てている人間がいたら、相当怪しい。
しばらくすると、図書準備室の扉が内側から開いた。ツインテールの小柄な少女が、ひょっこり出てくる。
「聞こえた?」
「いや、全く」
何か話していたらしいが、僕の耳には何も聞こえなかった。
「結構大きい声を出したんだけど……すると、外に声は漏れないのね。それとも、図書室の方には声が漏れてるのかな?」
「だとしたら、とうの昔に苦情が来てると思うぞ」
「むー、それもそうか」
僕らは再び、図書準備室に戻った。指定席に座って、あれこれと考えをめぐらす。
「そういえば」と僕。「委員長はいま、どこで何してるんだ?」
「フィル君、いまは一応授業中よ。真面目に勉強してるんだと思う」
「昨日あれだけ動揺してたのに?」
「逆よ」
デカルトは、真剣な目で言った。
「何かに集中してないと、取り乱しちゃうのよ」
結局僕らは、放課後まで図書準備室にいた。
全ての授業は、十五時十分に終わる。それから三十分が、ホームルームや教室の掃除の時間だ(僕らは、それもサボった)。犯人の指定した十六時は、こうした内情が考慮された親切な時刻である。
四十分を少し回った頃、息を切らした委員長が図書準備室に入ってきた。肩にカバンをかけ、胸にはしっかりと「Confessio」が抱かれている。
「時間、大丈夫よね」と委員長は壁の時計を見た。
「まだ余裕ですよ」
委員長は僕の目の前に座ると、「Confessio」を机に置き、カバンから脅迫状を取り出した。犯人の指示を、正確に読み返す。
「『「Confessio」を置いて、帰宅せよ』だから、ここに置いておけば、良いのよね」
「うん」
デカルトは頷いたが、本心ではどう思っているのだろう。
犯人の目的が本当に「Confessio」なのか、そして本当にオッカムは無事なのか。そもそも犯人は、どうやってオッカムを返すつもりでいるのだろう。犯人の手がかりが全くつかめておらず、向こうからの連絡も脅迫状一枚のいま、犯人が「Confessio」を奪って雲隠れしてしまったら、僕らにはもうどうすることもできない。
そんな不安が顔に出たらしい。
「大丈夫よ、フィル君。オッカムちゃんは無事よ」
と、委員長が僕を元気付けてきた。昨日動揺していたのが、ウソのようだ。
委員長はしばし「Confessio」の表紙を見つめた。それから顔を上げて、本棚に立てかけたままの剃刀を見る。主のいない剃刀は、心なし寂しげに見える。そこに、左右反転した時計が映っていた。時刻は十五時五十分。
「それじゃあ、帰りましょうか」
委員長の言葉に、僕らは席を立った。カーテンを閉めると、カバンを背負って、外に出る。デカルトがポケットから図書準備室の鍵を取り出したが、
「もしかして、鍵はかけない方が良いのかな?」
と呟いた。
「その方が良いかもしれないわね」
委員長も同意し、デカルトは鍵をかけないことにした。向かいの司書室の扉をノックし、中に入る。
「アッシリア先生、鍵、返しに来ました」
「あら、今日は早いわね」
自分のデスクで何かを書いていたアッシリア先生は、顔を上げて、僕らを見た。確かに早い。いつも僕らは五時過ぎまで残っているのに、今日は四時前だ。
「オッカムさんはどうしたの?」
「風邪だそうです」
鍵を所定の位置に戻しながら、デカルトが答えた。扉のすぐ横の壁に、釘が一本刺さっている。そこが図書準備室の鍵置き場だ。
「最近、寒いからね。皆さんも気をつけるように」
はい、と答えながら僕は、ふとあることに気がついた。
……アッシリア先生は、昨日、僕らが書庫の整理をする予定だったことを、知っているのである。
「あの、先生」デカルトの前に進み出て、僕は聞いた。「昨日、僕らが書庫の整理をする予定だったこと、誰かに話しましたか?」
「あら」アッシリア先生は目を細めた。「どうしてそんなこと、聞くの?」
一文字一文字、はっきりと発音する。先生の独特の喋り方だ。別に、怪しいところは無い。
「別に、なんとなくですけど」
背中にデカルトの視線を感じる。先生はあごに手を当てて、
「どうかしら。言ったかも知れないけど、覚えてないわね」
わかりました、ではさようなら。
早口にそう告げて、僕らは司書室を、そして第四校舎を後にした。
「唐突に、変なこと聞いたよね」
とデカルトが言った。第四校舎から校門へ向かう途中である。
「あれじゃ先生に、何かあったのかと勘ぐられるじゃない。脅迫状には、『誰にも伝えるな』ってあったのよ?」
真剣な声で、背後からネチネチと言ってくる。委員長は何も言わずに、僕の横を歩いていた。
「でもほら」と僕。「誘拐の事実を直接伝えたわけじゃないんだから、セーフじゃないか?」
「そんなトンチが通用すると良いけど」
口調は軽かったが、声は真剣だった。
トンチと言えば、僕はこんなことも考えていた。脅迫状には「『Confessio』を置いて、帰宅せよ」としか書かれていなかった。だから、一度家に帰った後、大急ぎで学園に戻り、「Confessio」を取りに来た犯人を取り押さえればどうだろうか、と。
だがそんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。それによく考えれば、犯人は一人とは限らないのである。取り押さえた犯人以外に、オッカムを監視している犯人がいたら、そいつがオッカムを傷つける可能性がある。
校門で委員長と別れ、デカルトと並んで歩く。デカルトはまたマフラーに顔をうずめ、とてとてと歩いていた。
「なぁデカルト」僕はふと思ったことを言った。「アッシリア先生が犯人、って可能性は無いか?」
「……良い先生だよ?」
デカルトはそれだけ答えた。
「良い先生だけどさ。誰が犯人かわからないって言ったのは、デカルトじゃないか。なら、アッシリア先生が犯人って可能性も、十分ある」
「……」
前を向いたまま、デカルトは言った。
「その可能性については、オッカムちゃんが無事返ってきてから論じましょう」
デカルトのその言葉の真意を、僕は翌日知ることになる。




